-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
2017年6月25日日曜日
続フシギな短詩133[中村安伸]/柳本々々
殺さないでください夜どほし桜ちる 中村安伸
俳句と悲しいについて書いたので、少しそれを押し進めて俳句と傷のようなものについて書いてみたい。
私が俳句と傷について考えるようになったのは、『俳句新空間』の外山一機さんの時評を読んでゆくうちに、である。読み進めていくうちに、このひとは、俳句について《語ろう》としているよりも、俳句について語っていくうちに《傷つこう》としているのではないかと思った。しかも、意図的に(だからある意味、《自傷》である)。
このことにふと気づいたとき私は電車で読んでいた手をとめ、頭をかかえ、じっとした。《俳句が傷つくことがあるのか!》と。私はそれまで俳句が傷とは無縁のものだと思っていたから。
外山さんが評を書くときに意識的に選ぶ「僕たち」や「僕」という主語もそうだと思う。村上春樹もレイモンド・カーヴァーもそうだが、「僕」という主語は傷つく準備を待機する主語なのではないか(外山さんが生成した「僕」の対極をゆく「あたし」主体〈巻民代〉もそうだったのではないか。傷を引き受ける主体だったのではないか)。
外山一機は俳句に〈傷〉というテーマを持ち込んだのではないか。
外山さんは現在『角川俳句』において時評を連載されているが、来月号でこんなことを書いている。
実際、僕は句集を読んでいて、勝手に傷ついていることがある。
(外山一機「現代俳句時評7 俳句を不公平に読む」『角川俳句』2017年7月号)
外山一機にとって読むことは傷つくことである。しかしそれを率直に語れる人間がどれだけいるだろうか。
ちょっとまた長い遠回りをしてしまったが、中村さんの句集『虎の夜食』は特殊な構成で成り立っている。俳句の合間合間にフィクションとしての短文が入るのである。たとえば。
王立図書館の設計図には、収蔵される全ての書籍の題名、著者名等が記されてゐる。収納位置はサイズや厚みなどを考慮して決められてをり、ちやうど千年後に全ての書棚が隙間なく埋まることになつてゐる。
別冊の著者名牽引で自分の名を探さうとしたとき、誰かに殴られて意識を失つた。
(中村安伸「一篇の詩」『虎の夜食』邑書林、2016年)
俳句俳句の合間合間にある短文のなかで語り手は「殴られ」ている。こうした〈可傷性〉というのは、掲句の「殺さないでください」と響きあっているように思う。句だけではわからなかった〈傷つく〉風景が短文=散文の導入によって〈具体的・状況的な傷〉になっているのである(散文という形式はシーンを描くため、そもそも形式的傷つきやすさを持っていると言えるかもしれない)。
この短文の前にはこんな句があった。
黄落や父を刺さずに二十歳過ぐ 中村安伸
「刺さずに」の句と「殴られて」の短文がゆるく〈傷〉の連なりをもっている。
この句集では後に「父」が刺される。
父を刺せば玩具出てくる文化の日 中村安伸
他にもこんな句が〈傷〉をめぐる句としてあげられるのではないか。
はたらくのこはくて泣いた夏帽子 中村安伸
空をとぶ女の子たちにまもられ 〃
二人を繋いで沈む手錠が売られてゐる 〃
切腹にたつぷり使ふ春の水 〃
この句集が〈傷〉をめぐる句集だとは言い切れないが、ある側面からみれば、この句集は〈傷〉をめぐるテーマを抱えているのではないかと思う。先ほども少し述べたが、句の合間に挿入される短文もそうだ。そうした散文形式が句における〈傷口〉にシーンを与える。
この中村さんの句集が取り上げられた現代俳句協会青年部のイベントでは、他に岡村知昭さん、小津夜景さん、田島健一さんの句集も取り上げられたのだが(70年代生まれの四人)、そのどの句集にもやはり〈傷〉をめぐる句があったと思う。
かなり雑に言うけれど「一般」に、個人的に傷ついたひとは短歌に(恋愛/失恋が詠みやすい)、社会的に傷ついたひとは川柳に(階層構造的なトホホを詠む)、傷ついてもその傷を言語化したくないひとは俳句(写生=多方向的認識)に向かうのではないだろうか。
でも、現在、俳句はどうも〈傷〉というテーマを引き込んでいる気がする。
そう言えば、中村さんの句集タイトル『虎の夜食』って、とっても可傷的ではないか! わたしたちは時に人生を大きく間違えば「虎の夜食」になることだってあるのだ(もちろん、できることならなりたくはないが)。しかし中村さんの句集が面白いのは、虎が傷つき「バター」になった〈例のあの姿〉も描いていて、しかも、その〈傷ついた虎〉を育てようとしていることだ。
バターになつた虎を育てる冷蔵庫 中村安伸
傷というのはもしかしたら治すものではなく、育てるものなのかもしれない。
「おまえの親たちを殺して食べてしまったことについては、心からすまないと思っているんだよ。でも、わかってほしい。おれたち虎は悪ではないのだ。ただ、こうしなければならないのだ」
「わかったよ」とわたしはいった。「算数教えてくれてありがとう」
「なんの、なんの」
虎たちは行ってしまった。
(ブローティガン「算数」『西瓜糖の日々』河出文庫、2003年)
(「手錠」『虎の夜食』邑書林・2016年 所収)
2016年8月23日火曜日
フシギな短詩34[外山一機]/柳本々々
ここは ゆうきをためされる しんでんじゃ。 たとえひとりでも たたかうゆうきが おまえにはあるか?
二十日鼠が五升樽さげて
年もとらぬに
嫁をとる
外山一機
外山一機さんに「捜龍譚(どらごんくえすと)純情編」という作品がある。ゲーム「ドラゴンクエスト」のテキストを詞書として昔の歌謡風(たとえば、「二十日鼠が五升樽さげて」は童歌のフレーズ)のテキストがパッチワークとして〈翻訳〉されたようなかたちで添えられていく。
「ドラゴンクエスト」が素地にも関わらず〈読むための枠組み〉が読者に要請される〈難解〉な作品なのだが、この作品を山田耕司さんが次のように評している。長くなるがこの作品を読むためには必要だと思うので引用する。
ドラゴンクエストというゲームの世界観をまずはひとつの「そこらへん」としてくくることで、俳句を読み俳句を作る人達が無意識に手まさぐりする花屏風的な「そこらへん」に対して別の結界をはりめぐらす。もうひとつは古くからの口誦唄のフレーズを召喚して、そこにもまたドラゴンクエストとは別の「そこらへん」結界をつくる。消費材としてのゲームのフレームと消費や再生産からとりのこされたような古謡のフレームとの摩擦に、現在のジャーナリスティックなイメージをふくんだ言葉をチラと配して国の行方のようなものを心配している風情すら添える。こうした一連のシカケは、すなわち俳句をめぐる無意識の「そこらへん」文化領域を嫌ったり疑ったりするか営みの生み出すところ。また、ゲームにおける主体と口誦歌謡における主体との混交をこころみることで、自らの身体感覚はもとより「そこらへん」に織り込まれている「誰のものでもなくあたりさわりのない」身体感覚さえも去ろうとしているようにも読むことができる。
(山田耕司「【週俳4月の俳句を読む】「そこらへん」の話」『週刊俳句』2015年5月10日)
この山田さんの指摘で大事だと私が思うのが「「誰のものでもなくあたりさわりのない」身体感覚さえも去ろうとしている」という箇所である。つまり、〈あたりさわり〉のあるものを浮かび上がらせているということだ。
ある言説が〈あたりさわりのある〉ものになるとはどういうことなのか。
この作品が掲載されたのは『週刊俳句』なのだからメディアの枠組みは〈俳句〉である。しかし、「ドラゴンクエスト」のテキストに接着されたものは俳句ではない。俳句的に読もうとしてもだめなのだ。
もし「ドラゴンクエスト」が〈俳句誌上〉でアレンジされて作品化されたと言えば、読者は《あの》「ドラゴンクエスト」がどんなふうに俳句的趣味をほどこされたのか〈わくわく〉しながら読むだろう。しかし、その〈わくわく=消費の欲望〉は打ち消される。たとえば「ドラゴンクエスト」シリーズでは〈乗り物〉として有名な不死鳥ラーミアは以下のように〈翻訳〉される。
むっつのオーブを きんのかんむりのだいざにささげたとき…。 でんせつのふしちょう ラーミアは よみがえりましょう。
盆が来たなら
帯買うてやろ
赤の白のとうれしかろ
「ドラゴンクエスト」において「むっつのオーブ」は「レッドオーブ」「パープルオーブ」などそれぞれにカラーをもっているのだが、そこに「帯」の「赤の白のとうれしかろ」が響きあわされているのかもしれない。いるのかもしれないが、問題はこの〈消費しがたさ〉である。
どうもこの「ドラゴンクエスト」のテキストをめぐる作品にはドラゴンクエスト的記憶を共有しようという〈ここちよさ〉や〈きもちよさ〉がない。むしろ《接着=翻訳させる必要のない行為》をあえて《する》ことによってある文化がたやすく換骨奪胎させられ接続していくそのさまを問いかけているようなのだ。
《消費しがたい》作品を意図的につくること。
では、なぜ、〈消費しがたい〉のか。わたしはここにこの作品の〈仕掛け〉があるように思う。
その仕掛けとは、なにか。それは〈時間の遡行〉である。
山田さんがいみじくも「古謡のフレーム」と指摘したように、外山さんが「新」たに生成し接着したテキストは「古」い言葉なのだ。「ドラゴンクエスト」の「新」しい言葉に《あえて》「古」い言葉をもってくること。意図的なアナクロを持ち込むこと。これがこの作品の消費のしがたさをうんでいる。なぜなら、〈翻訳〉や〈アレンジ〉とは「古」い枠組みに現在の文脈から〈新しさ〉を盛り込み=引き出すことだからだ。ところが山田さんが指摘するようにもしこの作品に〈現在性〉があるとしたら、それは外山さんが用意した言葉ではなく、詞書としての「ドラゴンクエスト」の言葉の方なのだ。
つまりあえて言えば、外山さんが「ドラゴンクエスト」のテキストを使用してなしたことは、意図的な〈退行〉なのである。
しかし注意してほしい。そもそもドラゴンクエストのテキストには、「ここは ゆうきをためされる しんでんじゃ」の「じゃ」や「みーたーなあ? けけけけけっ! いきてかえすわけには いかぬぞえ」の「ぞえ」のように奇妙な〈アナクロ〉=〈退行〉が《あらかじめ》埋め込まれていたことを。
「ドラゴンクエスト」とはそもそもそうした〈アナクロ〉を施すことによって擬古風の世界観を生成するものであったはずだ。それは〈いま、ここ〉のプレイヤーに〈いまでもない、ここでもない〉空間をたえず喚起しつづけていた。
こうした「ドラゴンクエスト」特有のアナクロな言語体系を「新」しく〈翻訳〉するのではなく、さらに「古」い言葉によるアナクロを上塗りして〈退行〉を積極的におしすすめること。
それがおそらくはこの「捜龍譚」なのだ。
だからこの作品からこんなふうな例示を〈あえて〉とってみてもいい。順序を逆にすれば、〈消費できる〉かたちになっていたんじゃないかと。たとえば、
かあ からす
まだ夜は明けぬ
明けりや切られる
足袋のひも
みーたーなあ? けけけけけっ! いきてかえすわけには いかぬぞえ。
作品掲載とは〈翻訳〉の順序を逆にしてみた。これならば〈消費〉できるのではないだろうか。「古」い言葉が「ドラゴンクエスト」という「新」しい言葉でこんなふうに〈翻訳〉できるのだということが〈わかる〉から。しかし、この作品はそういうかたちを取らなかった。意図的にアナクロを押し進めた。
ここで問われているのはわたしたちの認知のプロセスそのものではないだろうか。わたしたちの認知は実は〈双方向的〉な便利なものではなくて、一方通行的なものであり、それが〈消費〉を支えているのかもしれないということ。思想家のヴァルター・ベンヤミンが言ったような、無方向の、無作為の、ばらばらの、星座の、瓦礫のような〈認識〉に到達するには、なんらかの〈作為〉や〈試行錯誤〉がいるかもしれないということ。
それを外山さんは「ドラゴンクエスト」というアナクロ構造の言語体系によりながら〈忠実なアナクロニズム〉として展開したように思うのだ。
彼は顔を過去の方に向けている。私たちの眼には出来事の連鎖が立ち現われてくるところに、彼はただひとつの破局だけを見るのだ。その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。(ヴァルター・ベンヤミン、浅井健二郎訳「 歴史の概念について」『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』(ちくま学芸文庫、1995年)
わたしたちが文化へアクセスする〈仕方そのもの〉を〈瓦礫化〉すること。彼がなした〈退行〉としての〈ドラゴンクエスト〉。
それは、かつて、ベンヤミンのプレイした「ドラゴンクエスト」ではなかったか。
(「捜龍譚(どらごんくえすと)純情編」『週刊俳句』2015年4月5日 所収)
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