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2017年9月9日土曜日

超不思議な短詩211[法橋ひらく]/柳本々々


  デンマーク風オープンサンド見た目よりずっしりとくるこれは良いランチ  法橋ひらく

法橋さんの歌集は『それはとても速くて永い』ととても印象的なタイトルがついている。法橋さんとお話したときに聞いたのだが、実際は名詞で短いタイトルも候補としてあったそうだ。

それはとても速くて永い。このタイトルにも法橋さんの歌のひみつが隠れていそうだ。

掲出歌をみてみよう。まず、長い。たとえば名詞なんかも出だしから長い。デンマーク風オープンサンド。まず長さがある。ただどこかに速さもある。この速さはなにか。それは「良いランチ」と体言=名詞で止めたところにある。長い歌なのに、余情や余韻を残さず終える。つまり、それはとても永くて・速い。

この歌の結句の「これは良いランチ」に注意したい。語り手は、〈気づいた〉のだ。歌っているうちに。ああ「これは良いランチ」なんだ、と。

つまり実質的にも形式的にも「それはとても速くて永い」のだが、しかし、もっと大事な点は、語り手の〈認知〉のありかたそのものが、「とても速くて永い」のだ。語り手は、永い認知のながで素速く気づく。「これは良いランチ」と。

このタイトルは、語り手の〈認知〉の様式を指していたのではないか。

ほかの歌も例にあげてみよう。歌いながら、歌のなかで、気づいていく歌を。

  風がすこし涼しくなっていつの間に登場人物(キャスト)こんなに入れ替わったの  法橋ひらく

  めちゃくちゃに笑ったあとの空白ふいにあなたが住んでいること  〃

  ケシの花って浮かぶみたいに咲くんだな草も声もぜんぶぜんぶ波  〃

  飛ばされるための帽子も油性ペンもないけど僕は今日ここにいた  〃

  追いかけっこの少年たちに囲まれて自分の脚を長いとおもう  〃

法橋さんの歌は、ながくて・はやい。気づくためのながさ、と、気づいてからのはやさ。

でも、実は短歌って本質的にそういう部分をもっているんじゃないか。認知のながさと認知のはやさを。

だとすると、やっぱり、こういうしかないんだと思う。それはとても速くて永い。

  「無宗教やと信頼されん言うてたわ」「そうなんや」ジョッキの底の、泡。  法橋ひらく


          (「万華鏡」『それはとても速くて永い』書肆侃侃房・2015年 所収)

2017年8月30日水曜日

続フシギな短詩186[萩原朔太郎]/柳本々々


  まつくろけの猫が二疋(にひき)、
  なやましいよるの家根のうへで、
  ぴんとたてた尻尾のさきから、
  糸のやうな《みかづき》がかすんでゐる。
  『おわあ、こんばんは』
  『おわあ、こんばんは』
  『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
  『おわああ、ここの家の主人は病気です』
          萩原朔太郎「猫」

この詩で気になっているのが、語り手はいったい《どこ》にいるのかということだ。朔太郎の書いたものには、この《どこ》がつきまとっているのではないか。たとえば、萩原朔太郎に「猫町」という猫の町に迷い込んでしまう散文がある。しかしこの語り手が、また、怪しい。

  久しい以前から、私は私自身の独特な方法による、不思議な旅行ばかりを続けていた。その私の旅行というのは、人が時空と因果の外に飛翔し得る唯一の瞬間、即ちあの夢と現実との境界線を巧みに利用し、主観の構成する自由な世界に遊ぶのである。
  (萩原朔太郎「猫町」)

猫の大集団がうようよと歩いてい」て、「家々の窓口からは、髭の生えた猫の顔が、額縁の中の絵のようにして、大きく浮き出して現れてい」る猫町に迷い込んだ語り手は、冒頭、「主観の構成する自由な世界に遊ぶ」語り手なのだとみずからの位置性を語っている。この「猫町」はそういう人間が迷い込んだ猫町なのである。これは、主観と客観の合間の物語だともいえる。だから、きょうあなたがコンビニにゆきがてら、猫町行こっかな、というふうには行けないのだ。主観と客観のさかい目がなくなるくらい、クレイジーにならなければいけない(クスリを使うと簡単にいけるのだが、実際この語り手もクスリを使っている。でも、クスリ、ダメ、ゼッタイ)。

冒頭の詩は、「猫」という詩である。「猫が二疋、/なやましい夜の家根のうへで」と「猫」を観察している描写があり、また、「夜」をなやましいと叙述しているので、これは、「夜」をなやましく思う語り手が「猫」を観察しながら語っている詩だということができる。「なやましい夜」を過ごす人間が、この詩を語っている。視覚化してしみよう。

 ●(悩ましい詩を語ることのできる人間)→★★(黒猫二匹)

さらにその語り手は、猫をこえて、「糸のやうなみかづき」をみている。かすんではいるが。奥に三日月がある。

 ●→★★→△(かすんでいる三日月)

ここで語り手が猫の「ぴんとたてた尻尾のさき」をみた瞬間、「みかづき」に視線が即座に《移ろって》しまっていることに注意したい。この語り手は、じっとなにかを静止してみつめているタイプではない。視線がさっと瞬間的にうつろってしまうタイプの語り手なのである。なやましい夜を過ごしていて、きょろきょろしてしまうそういう語り手がこの詩には設定されている。

猫たちの会話の次の言葉でこの詩はおわる。

  『おわああ、ここの家の主人は病気です』

この〈病気の主人〉は、なやましい夜を過ごしながらきょろきょろしてしまう語り手に対応してしまう。語り手は「ここの家の主人」なのか。違うかもしれないし、違ってもいい。もし語り手がここの家の病気の主人でないならば、ここらあたりは〈病人〉でいっぱいだということである。

気になるのが猫たちの会話は、「こんばんは」「こんばんは」「ここの家の主人は病気です」とコミュニケーションが成立しているのに、『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』だけ、不可解な言葉になっているところだ。でもその不可解な言葉に《ちゃんと猫は答えている》。つまり、猫は『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』をちゃんと意味として、問いかけとして、受け取っているのだ。

だとしたら、なぜ、語り手にとってはそれは意味として、翻訳できるものとして、聞こえなかったのだろうか?

ひとつこんな推測をしてみたい。それは、語り手にとって、《聞いてはいけない言葉》だったんじゃないかと。たとえば、ここの猫のことばが実は、『おぎゃあ、ここの家の主人は病気なんですか?』という問いかけだったとしよう。しかしその問いかけを語り手はスルーしてしまった。というよりも、この『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』という苦悶のうめきのようなものが、《そのまま》なやましい語り手の声そのものになってしまった。だから、ここを、あえて。人間の意味に訳す必要はなかった。この『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』は語り手が〈翻訳〉する必要なんてなかった語り手の苦悶のうめき声である。そしてそれは、語り手にとって、問いにならない言葉だ。その言葉をもう生きてしまっているので。

でも、わからない。推測だから、それは推測でしょう、と言われれば、推測ですね、というしかないのだが、ただ冒頭で記したとおり、朔太郎は、「猫町」に迷い込む際に、主観と客観の境界に入り込むことを大切にしていた。じぶんが「見た」っていえば、それは「見た」ことになるんだと。「聞いた」といえば「聞いた」ことになるんだと。現象の絶対化。厄介である。

  だが私は、たしかに猫ばかりの住んでる町、猫が人間の姿をして、街路に群集している町を見たのである。理屈や議論はどうにもあれ、宇宙の或る何所かで、私がそれを「見た」ということほど、私にとって絶対不惑の事実はない。
  (萩原朔太郎、同上)

この「猫町」には冒頭に、《蠅そのもの》ではなくて《蠅の現象》を潰すショーペンハウエルのエピグラフがあるのだが、感覚世界や現象世界があらわれたとき、その感覚や現象は当事者にとっては〈絶対〉のものとなる。というより、わたしたちは、実は「蠅そのもの」(カントは物自体と呼んだ)には、一生涯かかっても、ふれられていない可能性もある。現象をみて、現象にふれ、現象にまんぞくし、現象的にしんでいく。そういう可能性だって、ある。一生、《物(モノ)》にふれられずに。

でも、現象には、穴がある。物そのものがときどきコポコポと音をたててあらわれてきてしまうのだ。それがこの詩では『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』の箇所なのではないかとおもう。それは、意味や現象にならないなにかである。語り手が、〈物そのもの〉に出あってしまうシーン。現象の裂け目を、裂け目のままに、おぎゃあおぎゃあおぎゃあ、と無意味のままに、うめきのままに、おいたセンテンス。

だから心配しなくても、死のまえに、は、やってくる。はやってきて、あなたにふれる。

  夢──壁には唯物の穴ポコポコあき  中村冨二

          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

2017年8月22日火曜日

続フシギな短詩171[佐藤弓生]/柳本々々


  土くれがにおう廊下の暗闇にドアノブことごとくかたつむり  佐藤弓生

佐藤弓生さんは歌集『モーヴ色のあめふる』の「あとがき」でこんなふうに述べられている。

  幻想は“ほんとうのこと”の種なしには生まれません。

「ほんとうのこと」が種になってそこから幻想がうまれるという。つまり、幻想の根っこには現実があり、その現実から生まれてきたしまったものが幻想ということになる。だから、幻想は幻想ではない。現実に対する〈特殊な認知〉を通して生まれてきてしまったものが幻想なのである。

ツヴェタン・トドロフが、かつて、幻想文学をこんなふうに定義していた。それは、《日常と非日常のためらい》だと。これは日常かもしれないとおもう。でも、一方で、これは非日常かもしれない、ともおもう。わたしはどちらにも行けず、ためらっている。ためらったまま、わたしはそのあわいのなかで生き続ける。それが、幻想である。

この定義をすると、幻想とファンタジーはまったく違うんだということがわかってくる。たとえば、『ハリー・ポッター』は、非日常に対するためらいはない。ホグワーツが日常なのか非日常なのかハリーはためらいをみせない。だからファンタジーだ。ファンタジーは、非日常にあっても、疑わないこころだ。

でも、幻想は、ちがう。幻想は、語り手が日常と非日常の接続部にいる。これは日常かもしれないしこれは非日常かもしれないというずっとその〈ためらい〉のなかにいる。

弓生さんの掲出歌。

「廊下」という日常に「土くれ」のにおいがしている。「廊下」と「土」のあわいに語り手は置かれる。だから、「ドアノブ」がすべて「かたつむり」になるような〈接続部〉に同時に語り手は身を置くことになる。「ドアノブ」は〈土〉の認知を通して「かたつむり」に変わる。でも、それは、語り手だけの認知をとおした〈幻想〉かもしれない。実際は、わからない。ドアノブはドアノブかもしれない。しれないけれど、現実が種となり幻想を起動する。ドアノブかもしれないし、かたつむりかもしれない。

幻想とは、現実に幻想駆動装置を仕掛ける〈認知〉の問題かもしれない。たとえばこんな歌。

  泣き方を忘れた夜のこどもたち蛙みたいに裏がえされて  佐藤弓生

  手で包むこどものあたまあたたかい種がいっぱいつまってそうな  〃

「夜のこどもたち」と「蛙」の往還、「こどものあたま」と「種がいっぱいつまって」るものとの往還、これら往還運動のなかにそれらを往還させる〈認知〉がある。

「こども」が「裏がえされた」ときに「こども」たちは「蛙」になり、「こどものあたま」を「手で包む」ときに「こどものあたま」にいっぱいの「あたたかい種」を感じとる。土の認知をとおしてドアノブがかたつむりとなったように、そのときどきのふとした行為のなかで変換の認知がたちあげられる。こどもは蛙にならないし、あたまにあたたかい種がぎっしり詰まってはいないが、日常と地続きの認知を通して、それらは連絡され、非日常的質感がたちあがる。

  おはじきがお金に変わり、ながいながいあそびのはての生のはじまり  佐藤弓生

そのような語り手にとって「生」とは、「おはじき」が「お金」に変わる認知そのものによって「生」が支えられていることに気づいてしまうことだ。「おはじき」と「お金」は分かれているわけではない。わたしたちは「おはじき」から「お金」へ〈認知〉のしかたを変えるのである。だからそれはつながっている。「変わ」っただけだ。でもそれに気づくひとは少ない。それは別の物だとおもっていきている。でもきづいてしまうひともいる。きづいてしまったひとは、幻想的に、あわいを、生きる。

  なお若い葉のかがやきのくるしみに見知らぬ人をおとうとと呼ぶ  佐藤弓生

そうした〈認知〉をとおした「生」は、「見知らぬ人」を「おとうと」と「呼ぶ」生でもある。「かがやき」も「くるしみ」も「なお」ひきうけて〈認知〉は接続しそうもない箇所を〈接続〉する。

弓生さんは「あとがき」で、

  人がすぐ死ぬこの世をうたいながら、ただよってゆきたいと思います。

と述べている。「人がすぐ死ぬこの世」という認知は、「人」が、わたしがふだん認知している状況からぬけた場所=あの世に「すぐ」いってしまうことの〈認識〉をあらわしている。

この世は、あらゆるものが幻想的にいったりきたりしているし、現実的にいったきりもどってこないものもある。そういう認知と認識がこの歌集をとおしてあるように思うし、それを別のかたちであらわすのだとしたら、〈幻想〉とわたしは呼びたい。

  水か空かわからなくなる 風立ちて ただうろこなすいちめんとなる  佐藤弓生

          (「百年の間こうして」『モーヴ色のあめふる』書肆侃侃房・2015年 所収)

続フシギな短詩170[田中槐]/柳本々々


  横にいてこうして座っているだけで輪唱をするあまた素粒子  田中槐

NHKラジオ「科学と人間 ミクロの窓から宇宙をさぐる」を聞いていたら、藤田貢崇さんがこんな話をしていた。

  ニュートリノは他の粒子と相互作用しにくく、わたしたちのからだを毎秒毎秒ニュートリノは10超個以上もつきぬけてゆく。ニュートリノは空からぱちぱち降ってきてわたしたちのからだを通り抜けてゆく。
 (藤田貢崇「科学と人間 ミクロの窓から宇宙をさぐる」NHKラジオ)

わたしたちは、なんにもしてないないときに・なんにもしていない。それはあたりまえのことだ。わたしたちはわたしたちの日常のチャンネルの、認知のレベルで、そう、判断している。

けれど、いったん物理学のチャンネルを通せば、わたしたちがたとえなんにもしていなくても、元気がなくてうつぶせになっていても、失恋してつっぷしていても、失業して海老のようにまるまっていても、そのからだに10超個以上のニュートリノがふりそそぎ、あなたのからだをつきぬけてゆく。誰かに「好きだよ」と言ったときも、その言ってるときに、10超個以上のニュートリノがあなたのからだをつきぬけている。「好きだよ」と言われてうれしくてわあわあ泣いているあなたのからだにも。

物理学の次元でわたしたちの日常をとらえかえせば、〈なんにもしていない〉ことは、なんにもしていないことに、ならない。

槐さんの歌が述べるように、「横にいてこうして座っているだけで」も、おびただしい「素粒子」が「輪唱をする」。

槐さんの歌集には他にも素粒子の歌がある。

  このままを肯定的に受け入れる 宇宙から来る素粒子を待つ  田中槐

「宇宙から来る素粒子を待つ」ことで、次元が変わるチャンスを待っているようにも思える。物理学の認知は、わたしやあなたの知見を変えるジャンピング・ボードになるかもしれないから。

つまり、物理学とは、ものごとのしくみの解明ではなくて、わたしたちの日常の〈なんにもない〉場所、〈なんにもなかった〉場所を、〈なんかある〉場所、〈なんかあった〉場所に変える装置なのだ。これは、文学の話である。

槐さんの歌は物理学の認知に敏感なせいか、次元をめぐる歌が多い。

  十番目の次元で消える坂道に〈緑色脳髄〉描きつづけて  田中槐

  「超ひも」は超難解でウトウトと午後の教室ゆるくねじれる  〃

  太陽は必ず影を作るんだ 並行宇宙つまり、右側  〃

「ゆるくねじ」れ、「並行宇宙」的でもある多「次元」的世界に、日常の「ウトウト」したような次元を接続させること。それがそう遠くないことを認知すること。それは、詩や文学の役割かもしれないとも、おもう。そもそも、ことばは、もともと、多次元的変性をもっている。

  沈黙はマイノリティーの物語 サ変動詞がし、する、すれ、せよ  田中槐

ことばの物理学的変性。たとえば、妖怪ミステリーというよりも、認識ミステリーを書き続けた京極夏彦『姑獲鳥の夏』は、物理学的認識が事件になった話だった。ワトソン役にあたる関口巽は、素粒子の世界で、素粒子の観測者としての悲劇と喜劇を駆け抜けたのだ。

  そう、色も光であれば気まぐれな粒子がふっと駆け出してくる  田中槐

物理学と文学は近いのかもしれない。そう、思いながら、今回の次元をめぐる話を終わりにする。

  両端をつまんでそっと持ち上げる この美しい次元を終える  田中槐


          (「ギャザー」『ギャザー』短歌研究社・1999年 所収)

2017年5月16日火曜日

続フシギな短詩111[鴇田智哉]/柳本々々


  人参を並べておけば分かるなり  鴇田智哉

111、という数字をみてまるで並べられた人参みたいだね、と思う。

ひとは並べられた人参をみたときに、なにを思うのだろうか。

わたしだが、御前田あなたというひとが次のように言っている。少し長くなるが引用してみよう。

 田島健一は「現実」とは「餌場の鶴」のようなものであり「質問してはいけない」と言っている。質問してはいけないよ。そう、いけない。もし「餌場の鶴」が質問に〈答え〉てしまったら、私たちは今あんのんと住んでいるこの世界に帰ってこられなくなるかもしれないからだ。だから、決してきいてはいけない。いけない、がしかしそれが「現実」の手触りなのである。「現実」とは質問してはいけないものなのだ。好きなひとにきいてはいけないたったひとつの質問のように。

 そもそもふつうに生きていると「現実は鶴だ!」という発想が出てくるのかどうかという問題がある。これを鶴問題と呼ぼう。現実は採用試験だ! とか言う人はいても、現実は鶴だ! という発想ってなかなかないんじゃないか。本気で戦ったら鶴には勝てそうだし。わからんけど。負けるかもしれんけれども。くちばし長いし。

 ただちょっと思うのは私も季語をベーシックとする世界に生きていたら「」って発想がふっとでてきたかもしれないなあということだ。そこには、俳句を生きる、俳句を暮らす、ってどういうことなのかという問題があるような気がする。季語というのはひとの認識の根っこそのものに侵蝕してくる。触手のような。触手、わかるかな

 ひとは鶴と暮らさない。ひとは鶴を食べない。ひとは鶴をかわいがらない。ひとは鶴に仮装しない。ひとは鶴をぬいぐるみで所有しない。しかし鶴は季語としてならひんぱんにアクセスすることができる。それは現実に似ていて、やり方さえわかれば、アクセスすることができる。ただし帰り方は、また別だ。アクセスしてしまったら帰ってくる方法はじぶんで見つけなければならない。もちろん、鶴に触れたきり帰ってこなかったひとたちも、いる。そのひとたちが、いま、どうしているかは、わたしは、知らない。わからない

 今、田島健一の俳句を考えてきて思うのは、季語というのが或る〈世界の認識〉に関わっているということだ。これは私にはとても新鮮だった。季語というのを私は〈使う〉ものだと思っていたから。けれども、田島俳句における季語はちがう。田島俳句における季語は〈このわたし〉の生を侵蝕するのである。認識の根っこにタッチしてくる。

 この季語と認識/認知のかかわり合いを教えてくれたのが田島俳句なのだが、このとき、わたしは鴇田俳句のことをあらためて思い出した。

   人参を並べておけば分かるなり  鴇田智哉

 樋口由紀子が鴇田俳句についてこんな評を書いている。

   「人参」は冬の季語とされているようだが、そうなのかと不思議な気さえする。だから、当然季語としてのはたらきはわからない。…なぜ「人参」で分かるのだろうか。確かにいろんなものを並べていると見えてくるものがあるが、「人参」は思いつかない。「分かる」ということの意味を考えた。…おかしなことがあまりにもふつうに書かれている。
   (樋口由紀子「言葉そのものへの関心」『MANO』20号、2017年4月)

 ここで樋口由紀子が書いているようにこの句は「人参」という季語を通して、〈わかる/わからない〉といった認識/認知のあり方そのものを問うてくる。樋口由紀子が「「分かる」ということの意味を考えた」と書いたように、人参を並べておけばわかりますよ、わかるんですよ、と言われても、いったいなにが? だれが? どこで? なんのために? と思うからだ。しかし、そもそも〈分かる〉とはいったいなんのことなのか。ひとが、はいわかった、と膝をたたくとき、いったいそのひとは、〈なに〉が〈わかっ〉ているのか。わかるよ

 この句にあらわれているのは、そうした〈人参(にんじん)〉と〈認知(にんち)〉の関係である。これがたとえば、〈書物〉と〈認知〉、〈愛〉と〈認知〉だったらまた違った風合いをみせるだろう。しかし、「人参」なのである。「人参」は〈認知〉と関わりがない。しかし、季語を通したベーシックな世界観では、〈それ〉が問題になるのだ。

 おかしなことがあまりにもふつうに書かれている

 私も、そう思う。だが、「餌場の鶴」が〈現実〉となってしまう世界とはそういう世界である。そしてそれが俳句のリアルなのだと田島健一は言っていた。だからこの「人参」も俳句のリアルなのだと言える。この「人参」はリアルなのである。リアルが〈ワカル〉を導いている。

   毛布から白いテレビを見てゐたり  鴇田智哉

 私はある時期からこの句のことをずーっと考えている。なんにもわからない、と言いながら、わかることを放棄しようとしながら、考えている。〈なに〉を見ているのだろう。「白いテレビ」を見ているのか。「白い」画面を見ているのか。要するに、なにも見ていないのか。なぜ、「毛布」からなのだろう。ひょっとすると、語り手は、もう、死んじゃっているのか。だとしたら、死後のにんげんが〈見〉ているものとは、なんなのか。それとも、ゆめうつつなのか。ゆめうつつのときの〈見る〉ことのレベルとは、どれくらいなのか。わからない。わからないが、〈見る〉ことそのものが問われている。見ることってそもそもなんでしたっけ、と。うーん

 私はこう言った俳句があらわれていることをとっても不思議に思うし、田島健一や鴇田智哉が奏でる季語を通じた危機的な生の様相が、どこか表現というものの根っこにも関わるような気がしている。でも、今、言えることは、たったこれだけだ。

 わからない、と。なにか今、わからない、とあえて言うことが、正しい、ことのように感じられる、と。だから。
 けっきょくなんにもわかりませんでした

御前田あなたは、そう、書いていた。

         (「言葉そのものへの関心」『MANO』20号、2017年4月 所収)