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2019年4月9日火曜日

DAZZLEHAIKU33[福田鬼晶] 渡邉美保



  放哉忌うみ凪げば凪ぐ寂しさも    福田鬼晶     

 尾崎放哉は、大正十五年(1926年)四月七日小豆島の庵で息を引取った。享年四十二歳。
 四月初旬の頃の天候は、不安定である。
 風が吹き、海が荒れている日もあれば、陽光が降りそそぐ、穏やかな日もある。
 掲句、作者が今見ている海は、穏やかに凪いでいる。
 凪いだ海を見ていると、心もおだやかになるがその反面、凪いでいることが寂しく思えてくるという。
 その寂しさに、作者の放哉への思いの深さが感じられる。

 また、海が「うみ」と平仮名表記されることによって、「うみ」は眼前の海であると同時に、かつて晦冥の世界であり死者の国でもあったという「うみ」も想起される。
 凪いだ海を見ている寂しさは、放哉にもあるのではないか。
 作者が思う放哉も「うみ」の凪を見ながら寂しさを募らせているのではないのだろうか。と思われてくる一句だ。

〈句集『リュウグウノツカイ』(2018年/ふらんす堂)所収〉

2019年3月21日木曜日

DAZZLEHAIKU32[嵯峨根鈴子] 渡邉美保



  もう人にもどれぬ春の葱畑     嵯峨根鈴子     

   葱畑で主人公は何になっていたのだろう。どうして人に戻れなくなったのだろう。葱畑で、主人公に何があったのか。
 つぎつぎと疑問が膨らむ。
 春の葱畑。そこは駘蕩として、葱も長けていることだろう。畑土と葱の混じり合う匂いがする。葱の一種独特の匂いは、どこか官能的でさえある。その中で、人ではない何者かに変身した主人公の姿を想像する。
 「もう人にもどれぬ」というのっぴきならぬ情況。
 「ああ、どうしよう」という困惑や後悔。しかしそこには、「もう人に戻りたくない」(戻れなくてもいい)という願望も含まれていそうな気がする。
 春の葱畑には、誰も覗くことの出来ない深い愉楽の世界が潜んでいるに違いない。

 葱畑に行ったきり帰ってこなくなった人が、どこかにいたのではないかと、ふと思う。
  
〈句集『ラストシーン』(2016邑書林)所収〉

2019年1月22日火曜日

DAZZLEHAIKU30[岡田一実] 渡邉美保



 夜の森や濡れてマフラー置かれある  岡田一実     

   これは確かにどこかで〈見た〉景色です。
   現実に、想念に〈見た〉景色です。


と「あとがき」にある。掲句を読むと、作者が〈見た〉景色を作者の眼を通して見ているような不思議な感覚になる。
 夜という時間、森という場所、濡れたマフラー。
 ただこれだけの情報から私たちは、それぞれが自分の記憶を頼りに物語を作り始める。
 そんな仕掛けが施されているかのようだ。
 寒い夜の森の中。切株の上に置かれた一本のマフラー。
 月の光に照らされて、マフラーはまるで生き物のように、しっとりと息づいている。現実から遠く離れたこの光景に、何故か懐かしさがこみ上げてくる。
 誰もいない森の中で、動物たちもこのマフラーを首に巻いて遊んだのだろうか。
 夜の森の湿った空気の中でマフラーは濡れている。その濡れたマフラーを私も首に巻いてみる。ひやりとする感触。巻いた瞬間、マフラーと同時に私も消えてしまった。そんな夢をみた。

〈句集『記憶における沼とその他の在処』(2017年/青磁社)所収〉 

2018年12月3日月曜日

DAZZLEHAIKU29[山尾玉藻] 渡邉美保



  ピラカンサそないに生つてどうすんねん  山尾玉藻



ピラカンサは、火のような真っ赤な実をつけて、枝には棘があるということから、中国では「火棘(かきょく)」というそうだ。
晩秋から初冬にかかる頃。山野や、人家の庭にピラカンサが赤い実をびっしりつけているのを見かけることがある。実は固まってつき、これでもか、これでもかと言わんばかりに混み合い、盛り上がっている。イクラのてんこ盛にも似ている。
真っ赤に輝く実は、美しくも禍々しくも思え、火棘の名が浮かぶ。
野鳥が次々飛んできて、実を啄んでいく。野鳥には嬉しいことだろう。
その過剰ともいえる生りようを見ていると、つい「そないに生って…」と言いたくなる。
掲句の、口語、しかも関西弁の呼びかけは、軽妙洒脱。弾むようなリズムが、楽しい。
この句を読んだ瞬間、どれほど沢山のピラカンサの実が生っているか、直に伝わってくる。そして笑える。
「どうすんねん」のざっくばらんな口調の中には、豊穣なる自然の恵みへの祝意も感じられる一句である。




〈句集『かはほり』(2006年/ふらんす堂)所収〉