2015年5月28日木曜日

今日の小川軽舟 43 / 竹岡一郎




咲(わら)ふごとく木耳生えし老木かな



「咲(わら)ふ」を、蕾のひらく様、果実の熟して裂ける様などに使うのは、やはり花や果実を見た時の豊饒の喜びが背後にあるのではないかと思われるが、掲句では木耳に使ったもの。木耳は乾燥している時は硬く灰色や茶褐色だが、雨などに濡れるとほの赤いゼリー状になる。木の耳とは良く言ったものだ。内臓とか腫瘍が木からはみ出しているように生々しく見える時もある。それを「咲(わら)ふ」と表現したなら、笑うとは感情の露呈の一種であるから、木の、隠されていた情念が、何かの拍子に、木肌を突き破って現れたようにも思えてくる。木耳は自然界では倒木や枯れ枝に良く生えるという。栽培する時にも、原木は伐ってから、半年は寝かせて乾燥させるという。木耳が、木の死に体の部分に生えやすいのであるなら、掲句の老いた木はもう寿命が尽きかけているのか。
「生える」ではなく、「生えし」とあるから、木耳は生え切っている。どのくらいの量生えているかはわからぬが、兎も角老木の、木耳を生やせる許容量一杯に生えきっているのである。木の最期の日々に、咲くごとく、笑うごとく生えた木耳であれば、それを老木の思いの丈と解しても良い。老木に人を託して観るなら、木耳は人生の最後に燃焼する生々しい情熱を表わすであろう。判りやすく言えば、恋である。仕事に対するものか、人に対するものか、財産に対するものかは知らぬ。かなしいかな、木耳はどこまでも木耳であって、木ではない。あくまでも木の表面に生える物であり、木の本質ではない。人生における恋もまた然りか。鷹平成26年9月号。


2015年5月27日水曜日

 目はまるで手のように言葉に触れる 13[清原枴童]/ 依光陽子



ココア啜る夕顔の前の博士かな  清原枴童

夕顔の花は二つに分けられる。一つはウリ科ユウガオ属で実を干瓢とする正真正銘の夕顔の花。もう一つは朝顔と同じヒルガオ科サツマイモ属で正式にはヨルガオ。こちらは明治時代の初め頃に渡来し観賞用として栽培された。なぜかヨルガオではなく白花夕顔などという名称で売られている。今、夕顔の花と言えばこちらを想像する人の方が多いだろう。

前者は瓜の花らしく花弁がくしゃっと皺になっている。後者の花弁は皺なくつるんとしていて莟の時の襞が花にくっきりと残る。どちらも夕刻から緩みはじめ夜に咲く。いずれにしてもその白さは昼間に見るどんな花の白さよりも白い。


さて掲句はどちらの夕顔だろう。いずれにしても行燈仕立てで花を楽しむことができるようになっていると想像する。そういえば白洲正子にこんな随筆があった。夕顔に魅せられた白洲がその花の開く瞬間を見ようと一つの莟を何時間も見続けていたが、結局その莟は開かずに落ちてしまったというもの。掲句の人物もやはり夕顔の花を観ているのだろう。こちらはココアを啜りながら。さらに枴童は、この人物は「博士」だと言い添えている。「ココア啜る」というのんびりした雰囲気から、植物博士が花を観察しているのではなく、何か学術書でも読んでいてちょっと一服といった景だろうか。白洲正子といい『源氏物語』といい、夕顔の花からは女性を想像しがちだが、掲句からは男性の姿が見える。しかも夕顔の花に対しているあたり、なかなか渋い風体。きっと先の撥ねた口髭がある初老の男性で、実の容からうりざね顔だ。そんな風に想像してしまうのも面白い。


清原枴童は高濱虚子の『進むべき俳句の道』にも採り上げられている作者である。虚子は枴童の句<土砂降の夜の梁の燕かな><花深き戸に状受の静か哉><別れ路の水べを寒きとひこたへ><大炉燃えて山中の家城の如し>などの句を挙げ、「技巧の上に格段の長所が認められるばかりでなく、まだ小さく固まってしまわずに如何なる方面にも手足を延ばすことが出来るような自由さを持っている」と評している。

掲句の収められた清原枴童の第一句集『枴童句集』からは「格段の長所」というほどの技巧は感じ取れなかった。むしろ静かな佳句が並んでいると感じた。だが繰り返し読んでいると、人物を描いた句、或いは擬人化を取り入れたような句からじわじわと独特の味が出て来る。手堅い風景描写句だけにとどまらない温かみのある人物描写句の多さ。これが清原枴童のひろやかさだと気付いた。

土砂降の夜の梁の燕かな 
むつかれば梅に抱きゆきてほうらほうら 
夕立の脚車前草をはなれけり 
茄子買うてまた縫ものや祭前 
月ありと見ゆる雲あり湖の上 
燈籠の灯かげの雨のもつれけり 
芋虫のぶつくさと地にころげたる 
兄に怒る鎌や芒を刈り倒し 
夕風の野菊に見えて道遠し 
眉画くや湯ざめここちのほのかにも 
枯菊にあたり来し日をなつかしむ

(『枴童句集』昭和9年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)

2015年5月26日火曜日

1スクロールの詩歌  [波多野爽波 ] / 青山茂根 


  赤と青闘つてゐる夕焼かな    波多野爽波

 いわゆる童心にかえったような、ふと夕空を見上げたときに思い出してほほえんでしまう印象と、「闘う」という言葉に含まれた生存の厳しさを感じる句だが、なかなかどうして、描かれている内容から言葉をさかのぼっていく楽しさに満ちている。

これを、
  夜と昼闘つてゐる夕焼かな
と表現してしまうと、一見新しそうだが、観念的でもあり、意味内容を歪曲されやすく、句の世界は限定されて狭くなってしまう。他には何も語らずに色彩のみに託した空間の広がり、色にまつわる歴史的な背景などを含んだ原句に比べると、俳句としての大きさに欠ける句になることがわかるだろうか。ポエムっぽいという指摘もあるかもしれない。また、俳句表現としては、「夕焼」という季語に「夜と昼」の「闘っている」時間という概念がすでに含まれているので、当たり前な句、といえる(当たり前の事実をわざわざ描く、という俳句の手法もあるが、その場合は観念的表現にはしない)。

 「赤と青」とは、ゾロアスター教における「聖なる色」だという。「西域の民族は、天を青、地を赤で表現した。蒼穹と砂漠の色彩である。人間は天地の間にあって、その生命を永久に伝える存在である。」過酷な日中と砂漠の夜の静寂、そうした地へも夕空はつながっていることに思いを馳せる。
 また、「赤と青」は、フランス革命軍が帽章につけた色でもあり、フランス国旗はそれにブルボン王朝の象徴である白百合の色を足したもの、という説もある。「赤と青」は、一日の労働の後に夕空を見上げる市民の感慨を象徴した色でもあるだろう。

 『ひとつぶの宇宙 俳句と西洋芸術』(毬矢まりえ著 本阿弥書店 2015)では、この句にプルーストの自然描写と通い合うものがあると書かれている。文中から引くと、(プルーストは)

 例えば、夕暮れの空の色合いを登場人物に描写させて、次のように書いている。

(中略)「青といっても、大気の青よりは、とくに花の青に近い青、サイネリアの花の青ですが、おどろきますね、こんな色が空にあるとは。それに、あのばら色の小さな雲、あれもまたカーネーションとかあじさいとかいった花の色あいをもっていませんかね?(中略)夕方、しばらくのあいだ、青とばら色の天上の花束がほころびます。それはたとえようもないほどで、色があせるのにしばしば数時間もかかるのです。また他の花束は、すぐに花弁を散らせます。そしてそのとき、硫黄色やばら色の無数の花弁が四散する空の全体を仰ぐのも、また一段と美しいものです。」
(『ひとつぶの宇宙 俳句と西洋芸術』毬矢まりえ著 より)

 という文章を目にしたあとで、この句を夕空に思い浮かべると、また新たな広がりが感じられて、一日という時間の終わりが馥郁とした豊饒なものに変わっていく。様々な些末な日常茶飯事から開放された、自分ひとりの心の中のことではあるが。言葉の、俳句という魔法ならでは。

先の『ひとつぶの宇宙』にあげられている、色彩を含んだ句をいくつか。


アスパラガスほのむらさきと堀りあげし  小池文子
外套の裏は緋なりき明治の雪       山口青邨
手袋の黒と黒衣とただ黒き        山口誓子
しろたへの鞠のごとくに竈猫       飯田蛇笏
水に入るごとくに蚊帳をくぐりけり    三好達治

2015年5月25日月曜日

今日の関悦史 3 /竹岡一郎




兵の妻らの髪束凍る社かな


土浦の日先(ひのさき)神社社殿には、千羽鶴とともに獣の尾の如きが幾つも垂れ」なる前書がある。この前書が凄まじいが、前書だけでは「獣の尾」が何を指すか分らない。句を読んで初めて、長い髪の束である事が判る。掲句は、句と同じほどの重さを持つ前書と影響し合って、情景の悲痛を抉っているのである。

大戦時、銃後の女性が夫の戦勝、生還を祈って、当時なら己が魂ともいえる髪を奉納したのであろう。髪の束は、少なくとも七十年は経っているか。掲句では、「兵の妻らの」とあるが、妻らだけではなく、母の、或いは姉妹の髪も混ざって垂れているかもしれぬ。それらの髪の主は、未だ存命の者も、とうに鬼籍に入った者もあろう。戦勝を祈願された兵らは、無事生還した者も、白木の箱にて無言の凱旋を遂げた者もあろう。

奉納された髪の主と再会できた兵は、果たして幾人いたであろうか。生き残った者には、戦後の様々な運命があっただろうが、それらの運命から切り離されて、髪の束は社殿に凍てている。
永い時を経て、獣の尾の如く変化した髪束は、あるいは吊られたまま、付喪神の如く、毎夜のたうっているかもしれぬ。戦地へと赴いた兵らの思いも渾然と融けている筈だ。

土浦の日先神社を調べると、近代以降、武運長久の神として信仰を集めたようだ。社に伝わる由来は、要約すれば次の如し。天喜5年(1057年)12月、源頼義、義家父子が奥州征伐の為、軍勢を引き連れて当地に到着。その夜、霊夢あり。義家の枕頭に神現われて「我汝を待つこと久し、今汝に力を添えん、必ず賊を平らげ名を天下に輝かさん」。源父子は、その地に賊徒平定の大祈願祭を厳修し、征奥を果たした。

土浦の日先神社が、平安期、東北地方を征服する契機の一つとなった土地に建つ社であれば、その社に奉納された髪束には、千年の戦の業と、戦に翻弄された女らの千年の悲嘆もまた溶け込むであろうか。

髪というものは非常に強靭で、角度によっては刃物さえも弾くという。そして、地中にあってさえ、なかなか腐らない。土葬の遺体の頭蓋骨に髪が長く残っている例は良くある。また、寺に奉納する釣鐘を引く綱に、髪を編み込む例もある。綱を強靭にする意図もあろうが、それよりも信心の念が籠るのである。

平安期、それから千年を経て昭和の大戦と、戦の因縁がまつわる社に奉げられた髪、戦において常に犠牲となる女たちの髪束が、「獣の尾の如き」であると関悦史が感じたなら、いつか獣は、尾の如き髪束より生ずるやもしれぬ。女らの、夫を、或いは子を、兄弟を奪われた悲嘆は、いつの日か幾つもの髪束の寄り集まりて多尾の霊獣を生ずるが如く、いや、願わくば霊獣と化して、戦争を喰らい尽くさんことを。

「遷移」(詩客2013年3月1日号)より。

2015年5月19日火曜日

今日の小川軽舟 42 / 竹岡一郎



魚僧と化(け)し毒流し諭しけり  


民話を詠ったもの。「坊さんにばけたいわな」という題で、松谷みよ子の「日本の伝説」第4巻(講談社、昭和45年)に収録されている。私は子供の頃、全5巻のこの本ばかり読んでいたから、よく覚えている。丸木位里・丸木俊の暗い彩りの挿絵がなんとも切なく怖ろしく、その美しい恐ろしさに幾度慰められたか分らない。

南会津、水無川の上流に五人の樵がいた。根流しをしようということになり、準備を始める。山椒の木の皮を剝ぎ、焼灰と一緒に鍋で煮る。魚にとっては猛毒で、淵に流すと、皆浮いてくる。毒の煮えたぎる鍋を囲んで、男たちが飯にしようと黍団子を出していると、一人の坊さんが現れる。青く光る眼で、男たちを見据え、根流しは小魚まで根絶やしになるから止めろ、と言う。男たちは坊さんの話を受け入れ、黍団子を差し出す。坊さんは仰向いて、ただ一口に呑み込むのだが、その呑み方が、どうもおかしい。人の常の食い方ではない。坊さんは男たちが聞き分けてくれたことを喜んで去るのだが、男たちは結局、根流しをする。浮いて来る魚を手づかみで取れるだけ取ると、欲の出た男たちは、さらに上流で根流しをする。底無しのような淵に流すと、やはり面白いように魚たちは浮き始め、とうとう大人の背丈ほどもある大きな岩魚が浮き上がる。男たちは喜び勇んで、大岩魚を引き揚げ、さて、その白い腹を裂くと中から黍団子が転がり出る。大岩魚の目が青白く光って男たちを睨み、それがさっきの坊さんの目だと気付いた時には、一人、また一人、気が狂ったようになって息絶える。

同じ話は、「日本の民話 3 福島篇 第一集、第二集」(未来社、昭和49年)にも、「いわなの怪」として収録されている。こちらはもう少し詳しく、会津田島駅から東南の水無川沿い、山あいの角木(すまき)なる村落の話と。男たちの生業は記されておらず、ただ「男たち」とのみ。また、毒流しの材料は、山椒の木皮、樒の実、蓼などをつぶしたもの。僧が食べるのは、黒い黍団子と栗飯。大岩魚は村に持って帰ってから腹を裂いたとあり、死んだのは親分格の顎髭の男。残りの者は気が狂い、その村では長く岩魚を獲らなくなったという。
この民話が福島に伝わることを、作者が意識して作ったとすれば、毒流しは原発事故の暗喩であろうか。

句のリズムは畳み掛けるような、妙な緊迫感がある。次々に三度発せられる「し」が、句の速度を高めているが、「し」を「死」と読むならば、先ず魚たちの死、次にヌシである大岩魚の死、最後に男たちの死だ。「けり」が良く利いているのは、物語の結末を暗示しているからだろうか。「化し」に「け」とルビを振ったのは、変化(へんげ)、化生(けしょう)の意を強調するためもあろうが、下五を〆る「けり」と韻を踏ませるためもある。

大岩魚が坊さんに化けるのは、因果応報をその姿で説いているのだ。民話では山椒の毒流しであったから、当事者たちの死亡だけで済んでいる。

この民話から数百年経って、中川信夫の映画「地獄」(1960年、新東宝)では、こんなやり取りが出てくる。どんな毒を使ったか知らないが、川に毒を流して捕った魚を売りつける男と、養老院「天上園」の院長、そして養老院付きの医者の会話だ。

医者「大丈夫だろうな」 
男「先生、とにかく安いんですから。兎も角、腐っちゃいませんよ」 
医者「集団中毒事件があったら困るからな」 
院長「死んだって知ったこっちゃねえ。どうせあの年寄りたちに食わすんだ。俺たちが食うわけじゃねえんだ」 
男「旦那ぁ。太っ腹ですよぅ」 
(一同、笑い)
その結果、養老院の老人全員、悶死する。

中川信夫の映画から更に五十年経って、原発事故である。ヌシである大岩魚は、いまや誰に向かって仏道を説けば良いのだろう。



「鷹」平成26年9月号。

2015年5月18日月曜日

1スクロールの詩歌  [吉井勇 ] / 青山茂根 



棄てらるる身とも思はず夏羽織    吉井勇

 どちらかといえば文人俳句、とカテゴライズされる吉井勇の句は、単純な描写や取り合わせの手法と見えながら、戯曲的な趣向が垣間見えて何か惹かれるものが多い。今日の句も、人事句によくある心情や箴言との季語の取り合わせの句のひとつ、と一読思ってしまいがちだが、「棄てらるる」の語は、訪問先でさっと脱ぎ捨てられる「羽織」からそれを着た女性の姿をひきだす。恋しい人に逢いに、下ろしたての羽織で出かけていく女性の美しさや心弾むような足取りが、恋が終わればその後に棄てられてしまうだろう相手との関係性を暗示して。「夏羽織」の、薄物の透ける美しさがウスバカゲロウやクサカゲロウをも連想させ、また、夏羽織という、寒暖に絶対必要ではなくお洒落のためにある衣服が、対等な付き合いではない男女関係をもほのめかしている。吉井勇の短歌のニュアンスをほんのりとまとって、哀しい美しさのある句だ。

 十一、二歳から短歌に親しんだ勇は、東京府立第一中学校(同級生に谷崎潤一郎がいた)を経て私立中学に入り、仲間を得て俳句も作るようになったという。十六歳の時の作品、

色褪せし口にまゐらす葡萄かな     (『吉井勇研究』木俣修 番町書房 1978)

も、みずみずしい葡萄と色あせた唇の対比、声にしたときの言葉の滑らかさにうならされる。すでに創作としての世界をもっているようで、深く自省しつつ現代のこの年頃の俳句との相違を感じてしまう。京の街を訪れれば、「かにかくに」の歌碑を一度は見たくなり、冬ならばそのそばの流れに浮く鴛鴦のつがいに反語的にまたその歌人の姿を思う、その残したものが広く知られつつも大衆化に埋没せず今も人々を魅了する不思議。谷崎潤一郎が故人を偲んで、「なつかしい詩人、温雅な旅人、久しく忘れていながら不図想い起こしてその一首か二首を唱えてみたくなる歌人、吉井勇にもそんな味わいがある」と評したというが、以下の句にもそうした世界が広がって、歌に見られるエッセンスが立ち上るのだ。

ゆきずりの恋も浪華の朧かな 
さびしさや汐干の留守の仕立物 
野の果に港ありけりかへる雁 
はからずも焼野に出づと日記かな  
かきわりやおまつりぬけの昨日今日 
球突の球の音遠し釣忍 
極道に生れて河豚のうまさかな 
をしどりやここに年古る池一つ 
華奢(かさ)のはて遊びのはての炬燵かな 
七草や派手な暮しも芝居もの 
かにかくに毛毬に重き袂かな 
片恋の手毬もつかずありにけり 
残雪や悲劇を運ぶ橇の鈴 
若水の酔ざめの水を汲みにけり 
濡髪と云ふ酒の名も秋寒し 
いつとなく更けし獺月夜かな  
 (『吉井勇全集』第八巻 番町書房 s39)

「告別式は十一月三十日建仁寺の僧堂で行なわれた。少し早めにでかけた私は、門を入った所で水谷八重子さんの帰りに会ったが、驚いたことに式場まで数百メートルの両側には喪服の祇園関係の女性がぎっしりと立ち並んでいた。どぎまぎした私は顔を伏せて進んだが」 

   (『吉井勇歌がたみ 京都』 宝文館出版 s41 より臨終にたちあった医師青柳安誠の文)

 (余談ながら「余瓶居に高濱虚子、同年尾、星野立子氏等を迎へたるとき」と前書きのある、「句の父と句の娘ゐて柿の秋」という句もある。)

2015年5月15日金曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 12[山口青邨]/ 依光陽子



どうしても見えぬ雲雀が鳴いてをり  山口青邨


雲雀が鳴いている。離れた場所からもそれとわかる声だ。

どこだろう。空のどこか。鳴き声は続いている。空を仰ぐ。雲の窪み。雲の切れ間。空の穴。もっと高いところ。ずっと高いところ。

一面の空の中の、ただ一点を探すだけ。声はこんなにも澄み切っているのに、どうしても姿が見えない。羽ばたきは止まらないのだろうか。その声はますます強く高らかで、堂々としていてまるで空を支配しているようだ。雲雀より大きい私が声の限りに叫んでも、絶対に雲雀には届かない。けれど私より数十倍も小さな雲雀の声は私を貫き、草をくすぐり、風に乗り、森へ川へ野へ町へ響き渡る。この力強い声の主を見たい。降りて来て姿を見せて欲しい、と思う。

「どうしても見えぬ」は思いつきで書いた言葉ではなかろう。一羽の雲雀に集中し、耳を澄まし、眼を凝らすことで迸り出た言葉だ。抑えきれない心の昂りだ。どうしようもないもどかしさだ。

『雑草園』は山口青邨の第一句集である。昭和22年に<菫濃く雑草園と人はいふ>という句がある。青邨の庭にはいろいろな植物があり、青邨はそれらを愛で自らその庭を「雑草園」と称した。杉並区にあった雑草園は青邨の死後、自宅(三艸書屋)と共に故郷みちのくの岩手県北上市の日本現代詩歌文学館に移築されている。

青邨句の特徴を一言で表すならば融通無碍。根っからの学者肌で好奇心も探求心も強く、本質を摑むまで凝視を止めず、少年のように感動し、その震える心で何にも捉われず自由に詠んだ。時に突拍子もない句も作るので、だんだん玉石混交度が増すのだがその特徴はこの句集ではまだあまり見られない。特に海外詠の先駆者としての秀句は第二句集『雪国』を待つことになる。しかしながら『雑草園』も佳句が多い。久しぶりに手にして、そう改めて感じた。


天近く畑打つ人や奥吉野
維好日牡丹の客の重りぬ
ひもとける金槐集のきららかな
をみなへし又きちかうと折りすすむ
芒振り新宿駅で別れけり
連翹の縄をほどけば八方に
やがてまた木犀の香に遠ざかる
仲秋や花園のものみな高し
枯蔓に残つてゐたる種大事
吸入の妻が口開け阿呆らしや
子供等に夜が来れり遠蛙
河骨を見てゐる顔がうつりけり
はたかれて黴飛んでゆく天気かな
祖母山も傾山も夕立かな
香取より鹿島はさびし木の実落つ
人それぞれ書を読んでゐる良夜かな
本を読む菜の花明り本にあり

(『雑草園』昭和9年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)

2015年5月14日木曜日

今日の小川軽舟 41 / 竹岡一郎



道ばたは道をはげまし立葵        「呼鈴」

                   

言葉の連環に何か違和感があるにせよ、一見、ヒューマニズムの匂いのする句に見える。誰も整備しなくて、だんだん荒れて来た道がある。山道と取るなら、もう人が通らなくなっているのだろう。野の道と取るなら、過疎化が進んでいるのであろう。町の道と取るなら、人心が、或いは行政が荒みつつあるのだろう。立葵が道ばたに生えている。道が道でなくなりつつある、その道の疲労を、道ばたの声を代弁するかのように咲いている立葵が感じているのである。立葵は道ばたという概念の具現化であり、作者の心情の暗喩でもあろう。なぜそのように読めるかというと、中七の終りが「はげます」と切れずに、「はげまし」と、微妙に下五の「立葵」につながるからである。この微妙な繋がりは、上五の「道ばた」が立葵へと変化してゆくような雰囲気を醸し出している。

と、解釈すると、中々良い話だ、と読み手は満足して終わるわけだが、ここで道というものの本質を考えてみよう。

道とは(獣道はここでは除く)、基本的に人がある地点からある地点へと楽に移動する為に作られるものである。人間の利便の為に作られるものであって、自然は別に道を歓迎しているわけではないし、道ばたは道の形成によって、道ばたという位置に追いやられるわけである。即ち、道とは人の営みであり、文明の誇りでもあるわけだが、同時に(大仰な言い方をするなら)、自然破壊の第一歩であり、人間の傲慢さでもあるわけだ。

例えば、殷の時代、中原は森であって象がいたという。今、中原には象などおらず、勿論、象が生息できる森も無かろう。何千年にも渡る絶えざる自然破壊、言い換えるなら、道に道を重ねるという行為が砂漠化を招来したのである。

道に象徴される人間の営みとは、自然にとっては傲慢以外の何ものでもなく、つまり、あらゆる人間は人間である限り、その本質において救い難く傲慢なのである。人間の文明、言語、芸術はその傲慢さの上に培われてきたのであって、そもそも傲慢でなければ、この狭い惑星に他の種を滅ぼしつつ七十億に至るまで繁殖する訳がない。

人間の傲慢さをどこまでも探ってゆくならば、例えば、仏教に謂う「三世の毒」である「貪、瞋、痴」の、痴にその根拠を求めることが出来るだろう。痴は漢訳であって、本来は「暗黒」の意を示すモーハである。モーハとは、生物が他を殺してでも生き残ろうとするような、盲目的な衝動を指すという。従って、傲慢さについて思いを馳せるなら、外界の様々な事象を観察し批判するよりも、先ず自らの内なる暗黒、モーハを観照すべく努めるべきであるか。それは取りも直さず、世界を自らの裡のものとして観照する事へとつながると言えば、幾ばくかの希望はあろうか。

更に、傲慢さというものが防衛本能に由来すると観察すれば、個々の人間の傲慢さの度合いについても考察できるであろう。人の傲慢さとは、その者の無意識に沈殿する恐怖の度合いに比例する。傲慢な者ほど、実は、或る大いなるものに糾弾される恐怖を抱いている。(聖性に満たされているわけでもない世俗の)人が、自らを「道」であり正義であると、傲慢にも称する真の理由は、その者が、人間にはどうにもならぬ大いなる何かに、遂に裁かれるであろう予感を、恐怖として感じているからである。その恐怖を打ち消すために傲慢にならざるを得ない、という切実にして憐れな内面を見る必要はあろう。

さて、掲句において、道という人間の傲慢さによって、道ばたという位置に追いやられた或る面積は、道を励ましている。立葵という道ばたの声は、道を励まし、ならばなぜ、励ますのだろう。

人間以外のあらゆる事物は、永遠の中でやがて衰え滅びゆくという運命を「盲目的に」受け入れ、掲句の場合は、道ばたは「道ばた」という位置に追いやられる運命を、「盲目的に」受け入れるからだろうか。

道が道という運命を全うし、道が道であり続ける意志を「盲目的に」使い切れば、後は(中原が遂に砂漠化するように)、道は簡単に滅び、「道ばた」は悠久の時を掛けて、道でも道ばたでも無いものに戻るからだろうか。

では、道ばたは早々に諦めているのか、或いは長い時を掛けて道が滅び、道ばたという位置から解放されることを期して雌伏しているのか。

なぜこんなにも、この句の解釈に手間取るかというと、冒頭に述べた如く、言葉の連環に違和感を感じるからだ。その捩れに、作者の醒めた眼差しが、巧妙に隠されているように思うからだ。
仮に、こうしてみたら、どうだろう。

道ばたを道は励まし立葵

こう変えた時の、なんとも言えない鼻白む感じは直ぐ分ると思う。「道」という人間の傲慢さが、「道ばた」という侵略され残された自然を励ますという構図の厭らしさ。高度成長期という、いけいけどんどんの時代、例えば光化学スモッグというものが登場し出した時代が孕んでいた無神経さとも通じるものがある。

そして、作者は、「道に励まされる道ばた」と認識したい人間の厭らしさ、人間が自然に対するときの「上から目線」の傲慢さを、(仮に意識下においてであれ)意識しているからこそ、敢えて道ばたに道を励まさせたのではないか。

それは「道」と「道ばた」の立場の逆転である。侵略されるものが侵略するものを励ますという、大いなる皮肉、惑星視点から見た時の人間に対する眼差し、といえば穿ち過ぎだろうか。

そうなると掲句において、最重要の位置にあるのは「立葵」である。立葵は道ばたに生え、道ばたの声を代弁するものであり、同時に季語であるから人間である作者の思いを代弁するものでもある。

立葵は、道ばたと道の、自然と人間とのあいだに有って、或る中立的な姿勢をもって立っている。それをシニカルな立場と言っても良かろうが、見方を変えれば、為す術もなく立ち尽くす姿勢であるともいえよう。ならば、立葵はせめて咲いていなければならぬ。

平成19年作。

2015年5月13日水曜日

黄金をたたく20 [金原まさ子]  / 北川美美



塩漬の牛肉(ぎゅう)をください十字切る  金原まさ子

映画『ゲルマニウムの夜』(原作:花村満月)は、少年が殺人を犯し、警察の手の届かない修道院へ戻り、教会で殺人の告白をするシーンから始まる。そこに雪の中を走る黒い牛たちが映る。映画・小説ともに、暴力・セックス・同性愛を通して、神聖なるものへの欺瞞を描いた作品といわれる。上掲句は『ゲルマニウムの夜』と被るからくりが見える。

「ください」で懇願あるいは欲求を示し、「十字切る」によりキリスト信仰を表現する。<塩漬けの牛肉>は、干せばビーフジャーキー、缶詰であればコンビーフといったところだろうか。ちなみに缶詰瓶詰、発酵食品にいたる保存食が急速に発達する影に、いつの時代も戦争が関連してきた歴史がある。例えば、ナポレオン時代の政府は兵士の滋養がとれるよう懸賞金を懸けて考案を募集し、二コラ・アペールという食品加工業者が12000フランを獲得する。日本の戦国時代も陣中食として、にぎり飯、干飯、梅干し、切り干し大根、芋がら、吉備団子…手軽にエネルギーを補うための食事方法が発達する。保存を効かせた食材は貴重なエネルギー源であり、生き延びるための方法なのだ。

作者が欲している<塩漬けの牛肉>はもしかしたら戦争あるいは災害時のための非常食かもしれず、あえて牛としているのは、都会で育った作者の食へのこだわり、すなわち生に対するこだわりと解した。

古来日本では牛は農耕を助ける貴重な労働力であり神聖な動物であった。元来日本では家畜の獣を食す習慣がなく、牛肉が庶民的になるのは文明開化以降になる。なので<十字を切る>は文明開化後の食習慣を表すに理にかなっている。おそらく作者が育った時代も牛肉を食するのは限られた家庭だっただろうと想像する。

掲句は豈57号<招待作家・50句>表題「パラパラ」の冒頭句(一句目)である。<塩漬けの牛肉>を欲するのは、生きているこだわり。そのこだわりにこそ人類の救いと希望があるという作者の信条がみえてくる。そしてこの句からはじまる50句の作品を読む倫理は各読者の中にある、という読者へのメッセージと読める。

<俳句空間「豈」57号招待作家・50句「パラパラ」2015年4月所収>

2015年5月12日火曜日

今日のクロイワ 24 [峯尾文世]  / 黒岩徳将



桜蘂降るまつたりと土に雨   峯尾文世

桜の花びらよりも、土・雨との接着が確かな感じを与える「桜蘂降る」。

「まつたりと」の使い方に驚いた。「まったり」と言われると筆者などはNHKアニメ「おじゃる丸」の主題歌にもなった「詩人/北島三郎」などを思い出すが、ここでは景に人間は直接描かれてはいない。しかし、主体が自然と静かに交信を図っていることが伝わってくる。

<角川「俳句」2015年5月号「まつたりと」より>

2015年5月11日月曜日

1スクロールの詩歌  [富澤赤黄男 ] / 青山茂根 



黒い手が でてきて 植物 をなでる   富澤赤黄男


 ここに書かれているのはこれだけ。一字空けの多用により一句中に休符が差し込まれ、絞り出す言葉のような、ほつほつと出る独語にも似た音としての効果。表記として分かち書きがこの句に空白の、何もない空間の怖さを与えている。一読、冷たい風に首筋を撫でられたような不気味さを感じるが、そのあとで慰藉ともいえる感覚が沸き起こる。

 この句が書かれた時代背景を考えていくと、「黒い手」は「黒い雨」からの連想、「植物」は、原爆投下後70年は何も生えないといわれた地に数カ月で草が芽吹き始めたことを含んでいるのかもしれない。そのようにも読めるし、また、これは赤黄男自身の姿とも読める。召集され戦地を経験した作者自身のいわば「汚れてしまった」「手」を、作者自身が描き、その精神的苦痛から立ち上がり自己を再生していく、作者自身の心のありよう。それは、復興へ向かう周囲の多くの人々の姿でもあり、当時の、混沌の中から立ち上がりゆく社会を見渡してのことでもあるだろう。胸の奥には消しきれない負の記憶を抱えながら。

 描かれているものが何か、は断定しきれないのが俳句であり、一読わかる俳句ばかりになってしまったら、俳句という土壌は痩せていくしかない。どの語が何を象徴しているか、ではなく、この句から受け取る世界は、悲劇と再生、それが人の手によって生み出されることの重さと柔らかさ、その大きな雲状の、時間軸を超えた概念に包まれる感覚だろう。様々な情景をフラッシュバックさせながら。

 たしかに、十七文字の表現を幾つも横に排列して垣根を結うような連作俳句は、さほどの苦労もなしに、常に何ごとかを吐露し得たごとき錯覚を生みやすい。しかし、それを無反省に継続すると、俳句形式によって言葉を鍛えるという俳人としての当然の修練と、そこから始まる方法への目覚めを、おのずから忘れてしまうのである。
  (中略)
 そのとき富澤赤黄男が信条としたものは、すべての作品は、その作品のみのもつリアリティによって完結しなければならず、作品以外のどのような条件や要素によっても、そのリアリティを決して保証されてはならないという、きわめて厳格な考え方であった。 

(「富澤赤黄男ノート」 高柳重信 )

玉ねぎが白くて風邪をひいてゐる
黄昏はなにかをだいてゐたいこころ
屋根屋根はをとこをみなと棲む三日月
ゆく船へ蟹はかひなき手をあぐる
蛇よぎる戦(いくさ)にあれしわがまなこ
鶏頭のやうな手をあげ死んでゆけり
雪晴れのひたすらあふれたり微笑
切株に 人語は遠くなりにけり
月光や まだゆれてゐる 絞首の縄
偶然の 蝙蝠傘が 倒れてゐる

(『富澤赤黄男全句集』 沖積社 H7所収)

2015年5月8日金曜日

今日の関悦史 2 /竹岡一郎




玉菜二個「われら死者のみにて生きん」  

慄然とするのは、中七下五の台詞部分である。この作者の場合、どこかからの引用ならば、必ずその旨を併記するから、この括弧書きの部分は作者の言であろう。ただ、括弧書きによって、作者の思いではなく、第三者の台詞という設定で書かれている。作者の脳裏に聞こえてきたのか、或いはどこか昏い彼方から聞こえてきたか、いずれにしても不思議な台詞である。

「われら」が死者を表わしているのなら冥府からの言であるし、「われら」が命ある者なら、この世のどこかで何か覚悟している者の台詞とも、或いは異次元からの台詞とも見えよう。

「生きん」というのが、ある決意或いは嘆きを表わしていると取るなら、これは作者の脳の深く、作者の無意識が認識し、決意し或いは嘆く台詞とも取れる。

この「われら」が死者であると同時に、生者でもあるという設定は可能だろうか。実は私は、その設定が一番現実味があるように思う。というのも、未だに繰り返す或る体験を私は思い出すからだ。
昼間、街中を歩いていて、大勢の行き交う人々の姿の間を歩き、過ぎ行く人々の顔を流し見ている内に、ふと彼等の顔に多くの顔が重なり、多くの者達の姿が重なって揺らぐことがある。そんなとき、私は、行き交う人々の存在の構造を見ているのだと気付く。

生きている者の顔に多くの死者達が重なり、死者達は多く断片であり、或る思いが凝り固まり特化したものであり、生きている者達が血肉と骨から出来ているのは当然だが、その血肉と骨という物質を動かしているのは「生者の心」であり、そしてその「生者の心」は実は多くの死者達の断片、様々に特化した思いから構成されているのだという認識が生ずる。

では、血肉と骨を伴って動くか否かを除いた場合、死者と生者の違いは何なのか。死者もかつては生きていたのだから、死者の心も生前は、多くの死者の心の断片から構成されていた筈だ。ならば、死者の心も生者の心も等しく、多くの凝り固まり特化した思いの断片が集合したものではないか。(ここで「思い」という語の定義を述べよと問われたら、刺激に反応して生ずる認識のパターンであると言おうか。)

例えば、数十年或いは百年または千年を耐えうる頑強さに固められた氷の歯車が、ある時は他の歯車と密接に絡み合って一つの機関を構成し、ある時は外れて他の機関に入り、その機関が自らを「単体の固有のもの」であるとして、外界を認識し思惟する。また、どの機関にも属さずに、ぽつねんと昏い片隅に回り続ける歯車もあろう。

ここで機関に喩えられるのは、生者の心であり、歯車とは死者の特化した思いである。恐らく、全ての歯車は、一定の悠久を耐えた後に、明らかなる光によって、水と融けるのであろうが、それはいつのことであろうか。

そこまで考えて、「われら死者のみにて生きん」とは、人間の心に対する、或る観照を、作者の無意識の直感が示しているとの思いに至るのだが、勿論、私の認識が単なる妄想であると一笑に付すのも有りだ。

上五の「玉菜二個」が良い。キャベツでも甘藍でも台無しである。

玉が魂に通じる事から、「玉菜」に魂の比喩を思い、キャベツが多くの葉が重なり玉形を構成していることを思うなら、それは魂の構成を示唆しているように思えてくる。(神道に「わけみたま」なる概念がある事をも思い出す。非常に簡単に言えば、魂は複写し分割する事が出来るという概念である。)

ここで改めて、中七下五の台詞を、玉菜の台詞として読む事も可能であると気付く。玉菜にそんな認識があるとは思えないから、そうなると、この玉菜は人間の象徴であり戯画であろう。
「二個」が惨くて良い。二個の方が、孤独を際立たせるからだ。人が孤独なのは、実は一人でいる時ではなく、二人でいる時であろう。人間は同じものを見ていても、各人の認識が必ず違う。だから、孤独を感じるのである。

 富澤赤黄男の「草二本だけ生えてゐる 時閒」を思うたびに、ジャコメッティの針のように細い彫像が浮かび、「草二本」は人間の孤独であろうと思い、ならば一文字の空白=沈黙を挟んで、「草二本だけ生えてゐる」と等価の如く置かれる「時閒」は、永遠に対比した時の、人間のまるで一点に過ぎないかのような生であろうと考えていた。

キャベツは多くの葉っぱ=草=断片が重なっている。重なっていても、やっぱり孤独なのだ。重なってキャベツという玉を構成する葉たちは、果たして互いを認識し合うことが出来ているだろうか。


「コッホ曲線」(ガニメデ第61号)より。



2015年5月5日火曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 11[芝不器男]/ 依光陽子



白藤や揺りやみしかばうすみどり 芝不器男

全て述べてしまわず、読み手が自由に想を広げられる席を空けておくことが大切な俳句という表現形態の中で、色を使う時には細心の注意を払う。出来ればそれを言わずに色が浮かんでくるのが理想とされ、なるべく安易に使わないようにしている。

中でも「うすみどり」には身構える。なんといっても先行する不器男の名句があり、他にも福永耕二に<子の蚊帳に妻ゐて妻もうすみどり>、現代では正木浩一に<芹といふことばのすでにうすみどり>などがある。前回採り上げた篠田悌二郎にも<暁やうまれて蟬のうすみどり>があった。

つい使いたくなる「うすみどり」だが、どれだけその「うすみどり」に必然性があるだろうか。そう考えたとき改めて掲句の秀逸さを思うのである。ここには作者の才気と眼光がある。

言わずもがなこの白藤は下り藤だろう。空気は動いているから大抵はわずかな揺らぎがある。さらに風が強まれば藤房は大きく振れ、少し遅れて藤の花の香りが降りて来る。そしてその香に陶酔する。そんな藤もピタリと静止する瞬間がある。

掲句の「うすみどり」はムードではない。一房の藤を凝視したリアルな「うすみどり」だと思う。白藤は珍しい。だから自然と白さに目を奪われる。しかし凝視を続けていくとそこに含まれる緑に気付く。白藤の幹に近い部分の、一粒の花の奥には緑が微かに残っている。もちろん山本健吉が『現代俳句』に書いたように、その頃の辺りの全体的な「うすみどり」と捉える解釈もあろう。茎も葉も緑であるから、遠目には白ではなく「うすみどり」に見えることは確かである。しかし、この白藤と作者との距離はもっと近い。揺れ止んだところに気付くには遠目では駄目だ。
全体感の「うすみどり」や、白に透けて見えた「うすみどり」であったなら、ここまで印象深い句とならなかっただろう。一房の藤に深く踏み込んだからこそ、作者の心が藤の花に乗り、読み手の心に触れるのだ。

不器男は書簡の中で「俳句にも主観がしらべによって波立っていなければならない」と書いている。掲句はこの精神が見事に昇華している。眼前の動から静、さらに内面的な動へ。「揺りやみしかばうすみどり」というゆるやかな調べによって不器男の主観の波が読み手に伝わる。

句集『不器男句集』は昭和9年刊。不器男の死後、吉岡禪寺洞選、横山白虹により編まれた。不器男23歳から死の前年27歳までの176句を収録。その12年後、石田波郷が復刻版を出す。「昭和に入ってからの物故俳人の中で現代俳句につながる作風の先駆として、先づ紹介したい作家は芝不器男であった(復刻版後記)」。さらに昭和45年に飴山実が『定本芝不器男句集』を出版。平成14年には生誕100年を記念し芝不器男新人賞が創設された。「俳壇に流星のごとく現はれて流星のごとくに去った(『不器男句集』序)」芝不器男の名は、今やその作品よりも名前の方が知られている作家であろう。名前だけが一人歩きしないように不器男の遺した作品に今一度目を向けたい。

下萌のいたくふまれて御開帳
白浪を一度かかげぬ海霞
ささがにの壁に凝る夜や弥生尽
人入つて門のこりたる暮春かな
卒業の兄と来てゐる堤かな
向日葵の蕋を見るとき海消えし
風鈴の空は荒星ばかりかな
蓑虫の鳥啄ばぬいのちかな
あなたなる夜雨の葛のあなたかな
枝つづきて青空に入る枯木かな
炭出すやさし入る日すぢ汚しつつ

(『不器男句集』昭和9年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)

2015年5月4日月曜日

今日の小川軽舟 40 / 竹岡一郎


筍に虎の気性や箱根山        「呼鈴」

筍の少し黄色く川重なるところが黒く筋になっている処に虎を感じたのであろうが、それよりも若々しく尖った筍の立ちざまに虎の気性を感じたのである。一旦こう謂われると、筍の気性あるなら、虎の如くであろうと思わせる。下五の箱根山は筍及び虎と、危うく繋がっていると思うのは、広重の東海道五十三次の「箱根」を思うからである。伸び上がるようにして少し左に傾く箱根山の様は虎が飛び掛からんとして勢いを溜めるようではないか。唱歌「箱根八里」に「箱根の山は天下の険」と詠われた険しさも虎を思わせ、且つ広重描く、緑や青や黄や土色が甲羅の如く組み合わさった箱根の山は、筍の幾重にも皮を纏った有様と通じる処が在るように思う。平成二十年。

2015年5月1日金曜日

黄金をたたく19 [利普苑るな]  / 北川美美


是非もなく長女なりけり梅を干す  利普苑るな 

長女の重圧が伝わってくる。作者はそれを否応なしに受け入れざるおえず、日本の伝統保存食、梅干しを作っている。多分、子供の頃より自分の立場をわきまえて我慢してきた人とご苦労を感じる。「おねえちゃんなんだから」という声がいつも頭に響いている人なのだ。梅干しの酸っぱさがしみじみと伝わる。

あとがきに因れば、作者の母上は27年前に他界されている。きっと母上亡き後の家の整理、家族の世話など、諸々を引き受けて来られたのだろう。丹精込めて作った伝来の梅干しもこの作者は惜しみなく兄弟姉妹にも配ってしまう方だろうと想像する。<なりけり>の<けり>の効果がある。

失せやすき男の指輪きりぎりす><壺にして竜胆の声鎮まりぬ><あつけなく猫の逝きたる桜かな><すかんぽやこの世に会えぬ師のありし>など共感できる句が詰まっている。
作者は1959年生まれ。自分と同世代の女性である。

今年は梅干し作ろうかどうしようか、梅の実が色づき、五月がはじまった。

<『舵』(2014年9月 邑書林)所収>