-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
2017年9月9日土曜日
超不思議な短詩208[佐々木紺]/柳本々々
妖精の嘔吐や桜蕊ふりぬ 佐々木紺
この句には横に「#金原まさ子resp.」(金原まさ子さんをリスペクトして作った句)と詞書がついている(もともとTwitterのタグだったのかもしれない)。
この句の「妖精の嘔吐」に注意したい。紺さんの句をみてはじめて気づいたような気もしているのだが、金原さんの俳句は、出会うことのないふたつの物を強い悪意によって出会わせる、という質感がある。
たとえばかつて取り上げた金原さんの句。
蛍狩ほたる奇声を発しおり 金原まさ子
「ほたる」と「奇声」が出会っている。私はかつて金原さんの句を川柳だと思っていて読んでいたことがあったのだが、たぶんその勘違いは、この強い《悪意の出会い》にあったようにおもう。
ただ《悪意の出会い》というのは前回BLをめぐって話したように関係性の詩学である。だから『庫内灯』創刊号で、佐々木紺さんと金原まさ子さんが往復書簡をしているのは、《必然的》なようにも思うのだ。BLとは、このような関係もある、あのような関係もある、と関係的想像力の強度を高めることであるならば、金原さんの俳句とはまさにその関係的想像力の強度がそのまま俳句になっているからだ。
紺さんは往復書簡でこんなふうに述べている。
また他の人の俳句をBL読みすることは、萌えを見つける遊びであるのに加え、世界に対する小さな反旗を翻すことでもあると考えています。
(佐々木紺「往復書簡 金原まさ子×佐々木紺」『庫内灯』)
ここで興味深いのは、「BL読み」は「萌えを見つける遊び」だけでなく「世界に対する小さな反旗」と〈小さな戦い〉にもなっていることだ。それは、〈関係〉は《こうあらねばならない》という強制される関係への「反旗」なのだ。
たとえば、妖精は嘔吐してはいけない、光って踊って楽しげにふるまっていなくてはならない、蛍は美しく光り続けていなくてはならない、奇声を発してはいけない、そうした要請=強制された関係を、関係的詩学のBL的枠組みは問い直し、抑圧された関係性をひっぱりだす。妖精の嘔吐、蛍の奇声として。
金原さんは紺さんの「ここ最近でときめかれた作品はありますか?」という手紙に「仮面の告白」「塚本邦雄」「マイケルジャクソン」「森茉莉」「ドグラ・マグラ」など作品を羅列したのだが、そのなかにこんな漫画家たちがいた。
萩尾望都 山岸凉子 竹宮恵子
漫画史的には24年組と呼ばれる1970年代に少女マンガの革新を行った漫画家たちだ。
萩尾望都たち24年組の特徴は、死や異世界や過去へのノスタルジーという、いわばロマン主義的な「退行」を作中に必ず抱え込むことだ。それが彼女たちの甘美さを担保している。その上で「死の世界」と「現実」との往復が主題となる。これは24年組の末裔としての岡崎京子の「リバーズ・エッジ」にまで通底する。
(大塚英志『ジブリの教科書9 耳をすませば』)
考えてみると、金原さんの蛍の「奇声」も、紺さんの妖精の「嘔吐」も、「死の世界」への「退行」ととらえることもできる。ところがその「退行」が俳句で行われたときに、新たな関係性を俳句にもちこむ。
最近たまたま私も山岸凉子と竹宮恵子を読んでいたのだが、彼女たちは、凄絶にキャラクターの抑圧された〈内面〉をひきずりだす。それが「美少年」でも、その「美少年」性を食い破るような〈内面〉やそのたびごとの枠を逸脱するような関係性を描こうとする。
この佐々木紺さんと金原まさ子さんの往復書簡における《関係性》を読みながら私がみえてきたのは、BL読みは楽しみとしてだけでなく、ときに、〈そうあらねばならない〉関係性をそれがほんとうに〈そうあらねばならないのか〉、たまたま偶有的に〈そうあっただけでないのか〉という、関係の「小さな反旗」になるということだ。
逸脱することで、偏差がみえてくる。関係は決して対称的なものではないこと。それが逸脱によってみえてくる。すごくシンプルなことなのだが、なかなかできそうにないこと。
逸脱のたのしさでヨットに乗らう 佐々木紺
(「A Film」『庫内灯』2015年9月 所収)
2017年9月8日金曜日
超不思議な短詩207[藤幹子]/柳本々々
銀河行くふたつの旅行鞄かな 藤幹子
『庫内灯 BL俳句誌』の「鞄はふたつ」から掲句。
『BL進化論』の溝口彰子さんによれば、女性読者がポルノを読む際の感情移入の対象は複数化していくという。
「受」、「攻」にそれぞれアイデンティファイするというふたつのモードに加えて、もうひとつ、物語宇宙の外側に立つ読者としての視点、いわゆる「神の視点」へのアイデンティフィケーションもある。…
三つのモードのうち、どれが最も強く働くかは、読者それぞれのファンタジーや物語の内容によっても異なる。…
強弱はあれど、読者の頭のなかでは、この三つは同時進行であろう。「攻」、「受」そして「神」、すべてが「私」=読者なのである。
(溝口彰子『BL進化論』)
ここで興味深いのは、BL的視点は決して〈攻め・受け〉の二項対立だけでなく、それらを俯瞰する第三者の視点をも同時にもつということである。
掲句をみてみよう。この句が、〈BL俳句〉である点は、どういう点にあるのか。
まず「ふたつの旅行鞄」で〈関係性〉を示唆している。〈攻めの旅行鞄/受けの旅行鞄〉と〈攻め/受け〉の二項対立が想起される。ここで注意したいのは、旅行鞄の所持者への関係性だけでなく、旅行鞄それ自体への関係性へも視点が潜り込んでいることだ。どういうことか。
たとえばこう考えてほしい。所持者に関係性がなくても、ふたつの旅行鞄が隣り合っておかれるだけで〈BL的想像力〉は働かせることができるのだと。BL的想像力は複数化の視点だから。
恋愛がヘテロのものでない可能性があること、あるいは恋愛とは違っても互いを求め合う(対等な)関係性があること。BL俳句/短歌は、自分にとってそのひとつの象徴です。ときに異性愛に満ちて息苦しく感じられる世界への、ささやかな抵抗でもあります。
(佐々木紺「編集後記」『庫内灯』2015年9月)
しかし/だから、もちろん〈攻め/受け〉の二項対立だけではない。
「銀河行く」という俯瞰の視点。この句ではこの「ふたつの旅行鞄」が「銀河行く」のを〈みている〉俯瞰の〈神〉の視点がある。BL的関係性を発動させている神の視点のような。
こうしてさまざまな複数的関係性を一句に折り畳んでいるのがBL俳句と言えないだろうか。
抱くときは後ろ抱きなり春の月 岡田一実
〈背後から抱く(攻め)/後ろ抱きされる(受け)〉関係をみている「春の月(神の視点)」。
ともだちを抱くこともある夏の果て 佐々木紺
〈抱く(攻め)/抱かれるともだち(受け)〉の関係をみている「夏の果て(神の視点)」。
ここでたぶんもっと大事なのは、いま・これをBL的に読もうとしている柳本々々もこの関係的想像力にかかわっていることである。これは柳本々々をてこにしたBL的想像力の関係性であり、この基点としての視点をだれが・どこから・どのように読むかによってまた関係性の束は変わってくるだろう。たぶんその意味で石原ユキオさんは『庫内灯』序文にこんなふうに書いている。
BL俳句に決まった読み方はありません。
でも、「俳句なんて読むの初めてだし、まず何をどう読んでいいかわかんなよー!」という方もいらっしゃるかもしれないので、BL俳句を楽しむコツを書いておきます。
情景を想像し、ストーリーを妄想せよ!
(石原ユキオ「BL俳句の醸し方」『庫内灯』)
関係性の束のなかにさらに読み手としての〈わたし〉をも関数として、関数的想像力として、その関係性の束のなかに関わらせること。BL的想像のダイナミクスは、読み手としての〈わたし〉に関係性の詩学を教えてくれる。
穂村弘の「こんなめにきみをあわせる人間は、ぼくのほかにはありはしないよ」という明智と怪人20面相との関係を描いた短歌がありますが、私の理想はまさにこれです。
「たったひとりの、代替不可能な互いの理解者であり、敵」という関係性にきゅんとします。
(佐々木紺「往復書簡 金原まさ子×佐々木紺」『庫内灯』)
(「鞄はふたつ」『庫内灯』2015年9月 所収)
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