-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
2017年8月31日木曜日
続フシギな短詩189[与謝野鉄幹]/柳本々々
われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子あゝもだえの子 与謝野鉄幹
この歌に関して、穂村弘さんが面白い解説を書かれている。
鉄幹の「われ」は、その弟子世代の「われ」と較べても、あまりにもダイナミックかつ多面的、しかも引き裂かれていて把握が難しい。
『紫』の巻頭に置かれた「われ男の子」は、その見本のような作である。一首の中に七つの「われ」が犇(ひし)めいている。それは混乱して「もだえの子」になるよなあ、と思う。
(穂村弘『近現代詩歌」河出書房新社、2016年)
この七つの「われ」ってロマンシングサガ2の七英雄みたいでちょっと面白いが(『ONE PIECE』の七武海でもいいけど)、たぶんこの七つの「われ」をまとめあげているのが「あゝ」である。
どんなに分裂し「もだえ」ていても、〈ああ!〉と感嘆できる人間はひとりしかいない。この「あゝ」のなかに「男」も「意気」も「名」も「つるぎ」も「詩」も「恋」も「もだえ」も入っているのではないかと思う。
つまり、この「あゝ」がとっても近代的であり、縫い目を綴じ合わせる近代独特の〈ボタン〉のような働きをしているのではないかと思う。または、こんなふうに考えてみてもいい。どうして詩から「ああ!」は消えてしまったのだろう。どうして今「ああ!」を使うと古くさく感じられることがあるのだろうと。
すごく雑な言い方だが、近代はどれだけ〈わたし〉がカオスにおちいっても、「あゝ」でまとめあげようと思えばひとりの〈わたし〉にがっつりまとめあげられてしまう。
じゃあ、現代の〈わたし〉は、どうだろう(という言い方も雑でどうかと思うけれど)。
ちょっとどうかと思うけれどもわたくしにわたしをよりそわせてねむります 斉藤斎藤
(『渡辺のわたし 新装版』港の人、二〇一六年)
「わたくしにわたしをよりそわせ」る〈添い寝〉の距離感のような「わたし」。あなたに添い寝する〈あなた〉と〈わたし〉がいくら抱きしめても〈同一〉の人間にはなれないように、ここには微妙でソフトな距離感がある。しかしそれは、そんなに遠いわけでもない。抱擁しようと思えばできるくらいの距離には、あなたから離れたわたしはいる。「あゝ」ほど暴力的でもない。絶妙に、ソフトに、離れて、「ちょっとどうかと思うけれども」、でも、そこにいる、わたしのわたし。
斉藤斎藤さんの『渡辺のわたし』では、〈わざわざ限定して〉「渡辺のわたし」と歌集が名乗っているくらいに、きづくと〈わたし〉が少し離れた場所に遊離してしまう。でもそれはカオスでもなく、そんなに遠く離れて、でもない。それは、すぐそばにいる。すぐそばにはいるのだが、同一でもない。だから今は「渡辺のわたし」かもしれないが、次のしゅんかん、「わたし」は、「Xのわたし」になるかもしれない。そういう偶有的〈わたし〉にこの歌集はみちている。
ぼくはただあなたになりたいだけなのにふたりならんで映画を見てる 斉藤斎藤
ずっと疑問だったのだが、なぜ「ぼくはただあなたと一緒になりたいだけなのに」じゃなくて、「あなたになりたい」なのだろう。いったい、《なって・どうする》のだ。
こう、考えてみたい。「ぼく」は、「あなた」の視点が所持できないことが、「あなた」の視点で世界を考えられないことがいやなのだと。いやなんだけれど、けれど、仕方がない。「わたくし」に「わたし」をよりそわせることはできるが、「あなた」とは絶対的な途方もない、しかし並んでそんなに離れてもいない、絶対的な距離感がある。わたしのわたしとあなたのあなた。
「わたし」は語法によっては操作できる。わたしがわたしに添い寝できる。しかし、「あなた」を《語法で操作したくない》。あなたの位置から・わたしは・映画を観たくない。というか、なれない。絶対不可能ということを死守する。でも、「なりたい」という気持ちは隠さない。でも、ならない。なりたいけど。
それが、この歌ではないだろうか。いや、今、わたしも気づいたんだけれど。
あなたの空もちゃんと青くてサンダルはあなたのかかとにぴったりしてる 斉藤斎藤
(『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)
2017年8月30日水曜日
続フシギな短詩187[北野岸柳]/柳本々々
歳時記の中で密会してみよう 北野岸柳
飯島章友さんがたしかそう書かれていたのだと思うのだが、川柳でも季語は使われることはあるのだけれど、川柳においては季語は〈私的(プライベート)〉に活用されるのだという。だから俳句にとって季語は公的でありオフィシャルなものなのだが、川柳においては季語はアンオフィシャルなものなのだ。この指摘をきいたとき、わたしは、なるほどなあ、と思った。俳句と川柳では、季語にたいする態度がちがうということ。
変な話なのだが、もし川柳に私性というものがあるのだとするならば、それは〈私的活用〉という意味での〈私性〉なのではないか。
私が今すぐ思いつく季語の入った川柳にこんな句がある。いちど取り上げているけれど。
わけあってバナナの皮を持ち歩く 楢崎進弘
「バナナ」が夏の季語である。わけあって「季語」を持ち歩いている語り手。この句が、川柳の季語に対する態度をとてもよくあらわしているのではないかと思う。「わけあって」と「季語」を所持している理由はプライヴェート(私秘的)に隠されている。おまえには関係がない、と。こうして季語は、《私的活用》されている。
長い前置きになってしまったが、岸柳さんの掲句をみてみよう。「歳時記の中で密会してみよう」。これはまさしく〈季語が展開する場〉を「密会」の場として〈私的活用〉する句と言えないだろうか。俳句で、密会ということばを使うのは危うい。たぶん、俳句で「密会」ということばを使うと、季語の「歳時記性」のような公共性が保てないのではないかとおもう。ところが川柳ではよく「好き」や「逢う」を使う。こうした偏りのある〈私的(プライヴェート)」な動詞を使っていいのが川柳である。だから、「密会」も使う。
川柳は詩になりそうもないどんな言葉でも使い、季語に束縛されない。この自由があるかぎり、どんな不可能な、不気味な、奇妙な、あいまいな場所にも踏み込んでいくことができる
(樋口由紀子『MANO』4号)
だからそうした公共的な場所である「歳時記」も密会の場所として私的活用してしまう。もしかしたら川柳の眼目というのは、このあらゆるものの〈私的活用〉にあるのかもしれない。以前、取り上げたこんな句を思い出してみる。
非常口セロハンテープで止め直す 樋口由紀子
非常口の緑の人と森へゆく なかはられいこ
「非常口」は公共性のあるものだが、つまり決して私的活用されてはならないものだが(私的活用されては非常口にならない。それでは、〈勝手口〉である)、これら句では〈私的活用〉されている。セロハンテープで止め直すのも私的活用だし(そんな非力な耐久性では公共性は守れない)、非常口の緑の人と森へいってしまうのも〈私的活用〉である(緑の人に逃げられては非常口を指示する記号がなくなるので公共的に困る)。
「歳時記の中で密会してみよう」という〈公共性〉と〈私秘性〉の出会いそのものをあらわしたような句は、まさにこの俳句と川柳のジャンルの違いそのものをあらわしているようにも、おもう。
ただ問題がある。川柳は私的活用が非常にうまいのだが、だんだん〈私尽くし〉のようになってきて、〈私地獄〉の世界になってゆくのだ。私がゲシュタルト崩壊してゆくというか。だから、こんな、句がある。
何処までが私で何処までが鬼で 北野岸柳
(『動詞別 川柳秀句集「かもしか篇」』かもしか川柳社・1999年 所収)
2017年8月24日木曜日
続フシギな短詩174[米山明日歌]/柳本々々
鏡から帰って米を研いでいる 米山明日歌
『川柳ねじまき』からもう少し続けてみようと思う。
前回、川柳の主体は〈想像界〉からやってくると述べて終わったけれどまさにこの明日歌さんの句がそれをあらわしている。
「鏡」というイメージの想像的写し合わせの世界から「帰って」きて、まったくなんの違和感もなく、助詞「て」でつながれて、日常的に「米を研いでいる」。「鏡」のなかにいたことは、まったく、違和感がない。そこはもといた場所であり、いつでも帰ることのできる場所なのである。
そうした想像的イメージは、「影」として、やはり日常的に・違和感なく、分離させることもできる。
募集中私の影を担ぐ人 米山明日歌
「募集中」という俗な言葉遣いから、「私の影を担ぐ」という想像的な詩的イメージに接続される。ここでもやはりその連絡には違和感がない。想像的な世界と、日常的で卑近な世界は地続きである。
この想像的イメージとしての〈わたし〉は分離し、あちこちに散種される。飛散ではない。種として飛び、ねづき、わたしそのものになる。
地図で言う四国あたりが私です 米山明日歌
「あたりが」という言葉遣いに注意しよう。それは〈わたし〉にもよくはわかっていない。アバウトなものだ。たぶん「四国あたり」なのだ。ここは秩序で厳密に分離された〈象徴的〉世界なのではない。鏡のような、影のような、イメージのゆるやかな〈想像的〉世界なのだ。わたしはどんどん飛散し、散種される。もっと、させてみよう。
葉がおちてしまってからの私です 米山明日歌
わたしを拾うあなたを拾う秋の道 〃
吊り橋をゆらしてるのは私です 〃
わたくしの中であなたは跳ねている 〃
どんどんわたしが分離されていくとともに、そのなかであなたもまた分離され生産されていく。川柳において、わたしは無限増殖する。だから、〈ひとり〉になったときには、ちゃんと、音がする。こんなふうに。ちゃんと、だ。
ひとりにはひとりになった音がする 米山明日歌
(「四国あたりが」『川柳ねじまき』2014年7月 所収)
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