-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
2017年9月30日土曜日
超不思議な短詩232[伴風花]/柳本々々
恋人じゃないきみからの『おやすみ!』はみているだけのお菓子のように 伴風花
伴風花さんの歌集『イチゴフェア』は、歌集のタイトルのとおり、さまざまな食べ物がレトリックとして出てくる。
きみから『おやすみ!』のメールをもらっても、「きみ」は「恋人じゃない」ので〈食べる〉わけにはいかない。でも、それは、どこかおいしそうで、甘いものだ。「みているだけのお菓子のよう」なきみの『おやすみ!』。この歌は、食べ物がお菓子として甘いレトリックとして働いているが、食べ物のレトリックが効果的なのは、さまざまな味覚を有するとともに、その味覚があたたかい・つめたいによってグラデーションのような変化をもつことだ。
キッチンにわたし一人が生きていてラップのしたのカレー冷えてく 伴風花
ラップは「カレー」を「保存」するためのものだが、どうして「冷えてく」〈状態〉を語り手は「一人」でいま、感じているのだろう。それは〈待っている〉からだ。ここで「冷えてく」のは、もちろん「カレー」だけではない。待っているわたしの〈内面〉も「冷えてく」。
冷たい食べ物と言えば、こんな啄木の詩とあわせて読んでみたい歌もある。
われは知る、テロリストの
かなしき心を――
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らむとする心を、
われとわがからだを敵に擲げつくる心を――
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。
はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜りて、
そのうすにがき舌触りに、
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。
(石川啄木「ココアのひと匙」1911年)
おとうとの頬にココアの湯気がふれ終わらせてきた夢こぼれだす 伴風花
啄木の詩では、言葉と行動を分けることのできないテロリストのかなしいほろ苦い心が〈冷たいココア〉と掛けられているのだが、伴さんの歌では「おとうと」の言葉と行動が一致し、「終わらせてきた」はずの「夢」が「こぼれだす」瞬間が〈温かいココア〉と重ねられる。
1911年の冷たいココアの記憶は、2004年の温かいココアとして反転して蘇る。1911年大逆事件検挙者処刑の時代から、2004年のイラクの日本人人質事件による「自己責任論」の時代へ。
「終わらせてきた夢」とココアが出会ったが、伴さんの歌集では学生時代を詠んだ短歌に食べ物がでてくる。
売店で牛乳を買う 炭酸も髪のばすのも一緒にがまん 伴風花
香りさえ想像されることはなくりんごはxみかんはyに 〃
野球部のマネージャーとして野球部員と「一緒にがまん」しながら飲むときの青春の時間をパックするような「牛乳」。数学の授業であらわれた数式に消費されるだけの「りんご」や「みかん」。でもその名もなく、口に入れられることもない「りんご」や「みかん」たちは短歌のなかでパックされたまま青春の「終わらせてきた夢」として保存される。
〈イチゴフェア〉という食べ物のレトリックに彩られるわたしたちの生は、ときおり、節目となるような食べ物に保存されながら、ずっと、続いてゆく。順に忘れられながら、それでも順に、歌い出されるのを待ちながら。
やっといて、は三十個まで保存され順に忘れる(きみのを除き) 伴風花
りんごはまるく
でもそのまるさは
オレンジのそれよりもしずかで
にぎやかなオレンジにはにぎやかなオレンジの
しずかなりんごにはしずかなりんごの
一年がある
それぞれの皮の内側に
きっちりと閉じ込められて
髪を切ったり
冗談を言ったり
旅にでたり
風邪をひいたり
して
一匹の蚊にとってはSF的にながい一年を
私たちはやすやすと生きる
(江國香織「一年」『扉のかたちをした闇』)
(「夜の銀杏」『イチゴフェア』風媒社・2004年 所収)
2017年9月29日金曜日
超不思議な短詩230[江國香織]/柳本々々
身も世もなく恋をした果ての結婚も
なんとなくなりゆきで
気がついたらしていた結婚も結婚で
世界じゅうに結婚が
あふれ返っているのでした
たとえばこの
あかるい夏の夕暮れに 江國香織「世界じゅうに結婚が」
江國香織さんの詩を読んでいると、ひとが・ひとと〈いっしょにいる〉ってどういうことなんだろうと、考えさせられる。
あの路地にもこのビルにも
結婚したひとたちが住んでいて
あの電車にもこのバスにも
結婚したひとたちが乗っていて
あの花屋でもこの八百屋でも
結婚したひとたちが働いている
続いていくそれも
破綻するそれも
みずみずしいそれも
かさかさのそれも
饒舌なそれも
寡黙なそれも
結婚は結婚で
世界じゅうに結婚が
あふれ返っているのでした
たとえばこの
あかるい夏の夕暮れに
(江國香織「世界じゅうに結婚が」『扉のかたちをした闇』)
この「結婚」をめぐる詩は、「結婚」を制度的にとらえた詩ではない。ただ、〈おどろいた〉のだ。「世界じゅうに結婚があふれ返っている」ということに。そしてその「結婚」がどんなプロセスを含んでその「結婚」に行き着いていたとしても、それは〈わたし〉にとって等質な、あふれ返った「結婚」でしかないことに。
ただ、それを、びっくりしている。
〈いっしょにいる〉ひとたちが「あふれ返」るように〈いてしまう〉ことに語り手はおどろいている(そしてたぶんそのなかに〈この・わたし〉も含まれてしまうことに)。
「たとえばこのあかるい夏の夕暮れに」という時間の限定に注意してみよう。これは語り手が「たとえばこのあかるい夏の夕暮れに」「世界じゅうに結婚があふれ返っている」ことに〈気づいた〉ことをあらわしている。ある時間の区切りのなかに、「たとえば」というある任意の時間のなかに。この「たとえば」はわたしたちには関係のない時間だ。でも語り手にとっては関係のある時間なのだ。〈あるとき気づいてしまった〉時間として。
「世界じゅうに結婚が」いっぱいあること、は気づきさえすればいつでも気づけたはずなのだけれど、語り手は、とうとつに、「たとえばこのあかるい夏の夕暮れに」気づいてしまった。ひとが・ひとと〈いっしょにいる〉ことのふしぎさに。
江國香織さんの詩は、そうやって、〈いっしょにいる〉ことの不思議さに、あるとき、かみくだきながら(あの路地にもこのビルにも/あの電車にもこのバスにも/あの花屋でもこの八百屋でも)、きづいてしまう。そのときの、ふしぎさは、〈いっしょにいるってふしぎだね〉という〈あたしたちは運命的(非論理的)にであっちゃったんだね〉というほほえましいものではない。〈いっしょにいる〉ことが〈いっしょにいる〉の意味をぜんぶ剥ぎ取られながらも、それでも〈いっしょにいる〉ことしか残らないような、ちょっと、おののくような風景である。つまり、運命論とは別の、〈あたしたちの出会いなんてなんでもないのかもしれないね。それでもあたしたちはいっしょにいようとするんだね。これってなんなんだろうね。しかもそうした出会いで世界じゅうあふれ返っているんだ〉という風景。
こんな詩をみてみよう。
よく知らない男の人と
寝るときには緊張します
と言えば放埒(ほうらつ)なようですが
最初のときには
誰だってよくは知らない男の人です
すこしずつなじみ
いとしんだりいとしまれたり
あふれたりあふれさせたり
して
やがて
よく知っている男の人と
安心して寝られるようになります
(江國香織「よく知らない男のひと」同上)
ここには〈いっしょにいる〉になるまでのかみくだかれたプロセスが描かれている。たとえよく知っている男の人でもセックスのときに至っては、いったんゼロに、「よく知らない男の人」になること。それから「すこしずつなじみいとしんだりいとしまれたりあふれたりあふれさせたりしてやがてよく知っている男の人」として〈いっしょにいる〉のに「安心」できる「男」になること。けれどそのとき、その〈気づき〉に到達したとき、〈いっしょにいる〉ことの危機もやってくる。
けれど
でも
よく知っている男の人とのあれこれはみんな
おぼろであいまいな一つの記憶にすぎなくなり
記憶のなかでしたたかに微笑み
私を誘(いざ)ない
焦がれさせるのは
もうどこにもいない
よく知らない男の人
だったりします
(江國香織、同上)
「よく知っている男の人とのあれこれはみんなおぼろであいまいな一つの記憶にすぎなくなり」、〈いっしょにいる〉という「安心」に対して、「よく知らない男の人」からの〈いっしょにいよう〉という「誘い」がやってくる。「よく知っている男の人」との〈いっしょにいる〉は、「よく知らない男の人」の〈いっしょにいよう〉からの危機にさらされる。
語り手が、世界じゅうに結婚があふれ返っている、とある日、それまで〈当たり前〉だったことを、〈知らなかったわたし〉と〈知ったわたし〉を通して気づいたように、そしてそのことを通して〈いっしょにいる〉とはどういうことかに気づいてしまいそうになっているように、〈知らなかったあなた〉と〈知ったあなた〉を通して、やはり語り手は〈いっしょにいる〉とはどういうことかに気づいてしまいそうになる。
けさ
めがさめて
さいしょに
たこを一匹
まるごと茹でて
たべたいと
おもった
(江國香織「一月の朝」同上)
「めがさめて」「たこを一匹まるごと茹でてたべ」るような唐突で・圧倒的で・感覚的な〈気づき〉が、だれかと〈いっしょにいる〉ときに、〈いっしょにいる〉ひとをみたときに、江國さんの詩にはしばしば訪れる。それは「たこ」のように、どこか露骨に具体的で、しかし、つかもうとすると未知であるような〈気づき〉なのだが、〈いっしょにいる〉とき、〈いっしょにいない〉ときに、その「たこ」的な気づきはやってくる。
だれかといっしょにいることは、なんなのだろう。だれかといっしょにいないことは、なんなのだろう。すごくシンプルで、ありふれていて、根の深い問いだと、おもう。うまれたときから、しぬまで、ひとが、ありふれた顔をしながら、ずっと問いかけていく、問いだと、おもう。
そして私は
二月の音楽にとじこめられる
ミートソースの具体的な匂いまで
私はなぜまだここにいるのだろう
ひとりで この世に
この部屋のなかに
(江國香織「二月の音楽」同上)
(「世界じゅうに結婚が」『扉のかたちをした闇』小学館・2016年 所収)
2017年6月10日土曜日
続フシギな短詩125[高橋順子]/柳本々々
いつも誰かの電話が気になっていたこと
何もしなくてもいい一日があったこと
暗くなるまで詩を書いたこと
横着だと責めない男たちと
野山を歩いたこと
晩ごはんをぬいたこと
いつもご破算にできると思っていたこと
さようなら 高橋順子「いつも誰かの」
高橋順子さんの詩集に『時の雨』がある。48歳でふいにぶつかるように思いがけなく出会い結婚した小説家の車谷長吉との生活が軸に描かれたものだ(私は以前、この〈生活〉のことをこのフシギな短詩で車谷長吉の側から書いた)。高橋順子は詩集の「あとがき」でこんなふうに書いている。
晩い結婚の二年四ヶ月後、連れ合いが強迫神経症を発病しました。…ものに怯える家人は、私に対してもまた怯えたのでした。私たちは自由に息をすることができなくなり、緊張の日々を過ごしました。 連れ合いの書く小説には髪の毛一すじの狂気が宿っていることに私は無意識であったわけではありません。それは、文学だと思っていたのです。生活とは別次元のものだ、と。ところが或る日、文学が生活に侵入してきてしまった。日常が非日常の霧におおわれてしまった、ともいえます。そのとき、人はどうするか──。 生活を強引に文学にしてしまうこと。自分を全力で虚の存在と化し、文学たらしめること。
(高橋順子「あとがき」『時の雨』青土社、1996年)
上に引用した「いつも誰かの」という詩が収められたこの詩集『時の雨』は「あとがき」から解釈すれば、〈車谷長吉との生活〉を描いたものなのだけれど、私はこの詩集を〈二人〉というユニットをとことん詩によって考え抜いた詩集として読んでもいいのではないかと思う。
ふたり、で生きるとはどういうことなのか。ひとりじゃなくて。
たとえばそれは「いつも誰かの」〈わたし〉であった〈わたし〉が自分から〈失われ〉てゆくことだ。ひとりだった私の〈いつも誰かの〉に焦点化された生活は、ふたりになった私の〈あなた〉へと再焦点化されていく。あなたは、わたしから、なにもかもを奪っていくだろう。二人で生きるとは、そうした劇的な経験だから。
俺、ときどき思うんだけど、恋愛をするという行為は、人が一杯いる中で二人きりになろうとする行為じゃない? だから、恋愛は良いことなんだけど、もっと大きな目で見れば、ほとんど2人で破滅しようという行為に近いなと思って。絶対、その2人だけでは成立しないものが生まれてくる。「そのことを知っていて尚、なぜ人は恋愛をするのか?」というのを考えることがある。
(岩松了「対談:岩松了×若手写真家 第1回●中村紋子/世間に対してどう立ち向かっていくか?」)
すなわち。
いつも誰かの電話が気になっていたことが失われ(不特定関係の喪失)、何もしなくてもいい一日が失われ(不特定時間の喪失)、暗くなるまで詩を書くことが失われ(不特定表現の喪失)、横着だと責めない男たちと野山を歩くことが失われ(不特定気ままの喪失)、晩ごはんをぬくことが失われ(不特定生活の喪失)、いつでもできたはずの人生のご破算=リセットが失われる(不特定破壊の喪失)。
こうしたおびただしい喪失をくぐり抜けながら、「いつも誰か」になれる〈わたし〉を失っていく経験、同時に、「いつも誰かの」〈わたし〉になれる〈わたし〉を失っていく経験。それが、〈ふたり〉で生きるということだ。
この詩のすべての行末が「こと」で終わりになっていることに注意しよう。そして最後にこの詩が「さようなら」で終わっていることに注意しよう。
「こと」への「さようなら」の詩なのだ。〈ふたり〉で生きるということは、〈ことの終わり〉でもあるのだ。
自分が〈こうこうこうしたい〉をコト化しようとするとき、それに疑義や異議を挟む〈あなた〉が出てくる(これはこのフシギな短詩の千春さんの回でも書いた)。それが二人で生きてゆくときの〈あなた〉である。
だから、二人で生きるわたしは容易にコト化できず、コトの挫折を味わうようになる。わたしはコト化できない人生のなかに入っていくが、しかしそれは新しい人生の価値観になるかもしれない。この世界にはわたしが容易にコト化できないものもあるんだと。わたしと暮らす〈あなた〉はそれを教えてくれるから。あなたはわたしに豊かな挫折をくれる。
ふたりで生きるとはそういうことなのだ。
恋愛だってもしかしたらそうかもしれない。わたしとあなたは、たゆまずコト化できないコトにふたりで取り組む。きょうはこんな新しいコトがあったね。未知だったね。コト化できなかったね。すっごいね。とんでもないね。こんな詩を思い出してもいいね。
はてしのない場所にいた
草いっぽんはえていない
だれもいない
こころぼそい場所に
おとなになって
世の中は秩序だち
緑豊かな涼しい場所で
私は仲間と安心を得た
それなのに、また
あなたに会って
こんなに遠くまで来てしまった
草いっぽんはえていない
こんな荒れはてた
こんなさびしい
こんな茫々とひろがるはてしのない場所に
また
(江國香織『江國香織詩集 すみれの花の砂糖づけ』)
コト化できない場所、「はてしのない場所」、「草いっぽんはえていないだれもいないこころぼそい場所」、「こんなに遠」い場所、「荒れはてた/さびしい/茫々とひろがるはてしのない場所」、それがコト化できない場所だ。でも、そのコトがすべてうしなわれた世界には〈あなた〉がいる。なんで?
わたし〈たち〉は〈ふたり〉だから。
枯れ草のような しようもない男につかまった」
踊りやまなかった枯れ枝が風に飛ばされとばされ
土をつかんでじっとしていた枯れ草と出会った のだそうだ
時の雨の中で
せわしい雨だれの中で
(高橋順子「時雨」『時の雨』)
「草いっぽんはえていないだれもいないこころぼそい場所」で「枯れ枝」が「枯れ草」に出会う。「中で」とこの詩は文の〈途中〉で終わっている。体言=名詞=コトではなくて。コトがぐずぐずしたなかに、これから、出会ったふたりは、入っていくのだ。すべてを〈途中〉化させる世界に。雨の降り続ける時の雨の世界に(雨とは、〈途中〉の象徴なのだ)。
この詩集『時の雨』はこんな詩でおわる。
精神病院からの帰り道
休耕田の真ん中に生えている一本の
椎の木の下に坐り
おにぎりを食べた
野漆と耳菜草の名をおぼえた
模型飛行機をとばしている人たちがいた
川で釣りをしている人たちがいた
いつかきっとこの木のことを思い出すだろう
二人ともまだ若かったころ
木の下に坐ったことがあった と
(高橋順子「この木のことを」同上)
コトにお別れを告げたこの詩集『時の雨』は「この木」という世界でたったいっぽんの「木」を発見する。二人をめぐる「この木」。それは二人のコトである。その「木の下」で「おにぎり」を食べた。「おにぎり」=名詞=コトを手に入れた。野漆と耳名草の「名」をおぼえた。コトを手に入れた。模型飛行機を飛ばし川で釣りをしているひとたちという思い出を手に入れた。コトを手に入れた。そうして「いつかこの木」という「いつか誰かの」に代わるものを「二人」で発見した。「木の下に坐ったことがあった」と。
そういうかたちで、二人は、コトを手に入れた。
「あなたの部屋に行ってみてください」
と連れ合いになる男が言う
……
似過ぎているものをもっていることを
喜ばずに惧れた
知らなくてもいいものを
知ってしまうことがあるだろう そのときは
野の花がわたしたちを見ていてくれますように
(高橋順子「あなたの部屋に」同上)
(「いつか誰かの」『現代詩文庫163 高橋順子詩集』思潮社・2001年 所収)
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