2015年7月26日日曜日

今日のクロイワ 28 [曾根 毅]  / 黒岩徳将



万緑や行方不明の帽子たち  曾根 毅


実は私も、数ヶ月ほど前、買ったばかりの帽子を失くした。それは極めて個人的な体験なのだが、掲句は森か林の中で帽子を失くしてしまったのだろう。そこで、「私のように帽子を失った人がこの世界には…」と考えている。個人的な事象から全体の問題へとスムーズに話題を移行させている。この帽子は、黃ばんだ色か、茶色か、もしくは緑の帽子だと思いたい。

帽子は、人間の装身具の中で一番不安定なものではないだろうか。帽子は肉体になろうとしても、なりきれない。ネックレスや腕輪、イヤリングよりも頼りない。帽子と人間が手を取り合う、いや頭を取り合う日は来るのだろうか。もう来ているのだろうか。


<「花修」深夜叢書社2015年7月所収>

2015年7月24日金曜日

黄金をたたく22 [池田澄子]  / 北川美美


プルヌス・フロリドラ・ミヨシに間に合いし  池田澄子


些か時期的に遅い掲出になってしまったが、豈57号で気になっていた句である。知識が無い上で鑑賞してみると、この「プルヌス・フロリドラ・ミヨシ」が謎である上、眼目である。何故これが気になるのか…、それは、語感、音感なのだと思う。

何のソラミミなんだろうか考えていたところ、本家「俳句新空間」で語られている筑紫×福田書簡のバルトにあった。ロラン・バルトの書に、『サド・フーリエ・ロヨラ』(みすず書房)がある。哲学を語るつもりは無いが、「サド・フーリエ・ロヨラ」と「プルヌス・フロリドラ・ミヨシ」と語感が(若干無理矢理)似ている。ラテン語から来る響きがそう思わせるのだと思う。「サド・フーリエ・ロヨラ」(正確には中黒ではなく点を使用 「サド、フーリエ、ロヨラ」)のAmazonでのブックデータが以下。

呪われた作家サド、稀有のユートピア思想家フーリエ、イエズス会の聖人ロヨラ、背徳と幻視と霊性を象徴する、この三人の“近代人”の共有するものは何か。著者バルトは、言語学、記号学の方法によってのみならず、これに社会学、人類学、精神分析等の知見を加えて、彼らが、同じエクリチュール(書き方)をもつロゴテート(言語設立者)であることを明らかにする。ロゴテートとは、既存の言語体系に基礎をおきながら、これを超えた新しい言語宇宙の創設者をいう。この宇宙は、音声、記述言語によるだけでなく、さらに、行為としての言語(サド)、イメージとしての映像言語(ロヨラ)を含んでおり、ここにはバルトの現代的言語観が反映されている。本書の特色は、三人のもつ思想の内容にではなく、各人の表現形式に焦点をおき、分析を展開している点である。

具体的にどういうソラミミなのかというと、「プルヌス・フロリドラ・ミヨシ」が三人の登場人物に思えるからだ。まさに背徳と幻視と霊性を象徴する三人に逢った気がして更に「間に合った」のだから尚さら良いことだろうと想像が膨らむ。行為としての言語(プルヌス)、イメージとしての映像言語(フロリドラ)、そして実際に生きていた近代人の名称(ミヨシ)が新しい言語宇宙を繰り広げるのである。

いずれにしてもラテン語の三語がある宇宙感を作り出す。これを俳句に持ってくるにはロマンが感じられる語でないと効かないのだろうなと思う。

おそらく、言葉の並びから「プルヌス・フロリドラ・ミヨシ」が学名であることに気が付く読者もいるだろう。謎解きすると、「プルヌス・フロリドラ・ミヨシ」は中将姫誓願桜(ちゅうじょうひめせいがんざくら)という岐阜県岐阜市大洞の願成寺境内にある世界に一本だけある桜の学名だそうだ。

因みに、このミヨシは命名者名、三好学(みよしまなぶ)のこと。(1862年1月4日(文久元年12月5日) - 1939年(昭和14年)5月11日)、明治・大正・昭和時代の植物学者、理学博士である。日本の植物学の基礎を築いた人物の一人。特に桜と菖蒲の研究に関しての第一人者であった。Miyoshiは、植物の学名で命名者を示す場合に三好学を示すのに使われる。並びでいえば、属名+種小名+発見者名,ということになる。桜と同じ岐阜出身のプラントハンターだ。

植物学(あるいは植物画)は忠実な事実の写生の記録である。芸術は写生から始まる。この句の言葉から触発され、言葉が宇宙を創り出していく。俳句実作者は、バルト風に言えば、ロゴテート(言語設立者)、ということになる。




<俳句空間「豈」57号2015年4月所収>

2015年7月23日木曜日

処女林をめぐる 4  [森澄雄]  / 大塚凱


かんがへのまとまらぬゆゑ雪をまつ   森澄雄

僕がかんがえている。いったいなにをかんがえているのか。なにをかんがえるべきなのだろうか。

そもそも、なにをかんがえていたんだっけ。かんがえるということは、しばしば、かんがえるということをかんがえさせてしまう。そうしているうちに、かんがえはふかまっていくようであるし、輪をえがいてどうどうめぐりしているような気もするし、宇宙のかなたにとんでいってしまうみたいでおそろしくもなる。かんがえは僕を勇気づけてくれるが、僕を傷つけるときもある。そんなときは、せめてかんがえないようにすることをかんがえる。消しては書き、消しては、書き、そうやってふえていった消しかすのかたまりがほんとうの「かんがえ」なんじゃないかなあってかんがえたりするのです。

僕はなにをかんがえていたのでしょうか。なにかをかんがえていたのです。いつになったら、かんがえはまとまってゆくのでしょうか。雪がふるまで、かんがえているのです。あなたいま、雪のことをかんがえたでしょう?

(『雪櫟』昭和二十九年・書肆ユリイカ刊所収)

2015年7月22日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 18[楠目橙黄子]/ 依光陽子




本をよむ水夫に低き日覆かな 楠目橙黄子


本と水夫いえば誰もが次の句を思い浮かべるだろう。


かもめ来よ天金の書をひらくたび 三橋敏雄



三橋敏雄は戦中は横須賀海兵団に所属、戦後は運輸省所属の練習船事務長として船に勤務していた。この句が<天金のこぼるゝ冬日に翔ぶかもめ 南雲二峰>のオマージュであるにせよ、ロマンティシズムに徹した青春性の迸り出る敏雄の句が他の二句を遥かに上回っていることは改めて書くまでもない。

掲句は本と水夫という組み合わせは魅力的だ。さりげないが水夫の人物像がくっきりと見えて来て、絵としても美しい。船上と捉えるもよし、また港の風景と捉えてもいい。読んでいると異国のような気もしてきて、イメージする国によってこの水夫を取り巻く空気感が様々に変わって味わえる。

色は白。水夫の制服も、夏の日差も、日覆の下の明るい陰の中で開いた本のページも。日差の強さから日覆自体の色は消え、遠目にはただの白光となって目に映るだろう。船体もまた白いに違いない。

「低き」の措辞も効いている。日中の休憩時間だからまだ太陽は高い位置にあるが、だんだん光線が斜めに射し込んでくるので日覆を初めから低く下ろしているのだ。本に没頭している姿から、水夫には似合わぬ痩身で文学青年のような印象や、清潔感や若さも感じる。

掲句を含む句集『橙圃』は大正4年から昭和9年までの20年間で高濱虚子選の作品から抄録した665句から成る楠目橙黄子の第一句集。この間の橙黄子は間組代表取締役で、任地に従い朝鮮・満州、九州、大阪など様々な地を仮住しながらの句作であった。各地を転々としながらも俳句がいわゆる絵葉書俳句に落ちなかったのは、しっかりと地に足がついた句作りをしていたからであろう。花鳥諷詠で一句一句丁寧に作られているが、句数の割に視点も句風も単調で不充足である。作者の俳句への思いを汲み取るには読み手側に辛抱がいるかも知れない。

追従を許さじと扇使ひけり 
僧に尾いて足袋冷え渡る廊下かな 
野に遊ぶ日曜毎の路を又 
枯芦に大阪沈む煙かな 
定かなる蠑螈の姿泥動く 
をかしさや全く枯れし菊に傘 
潮ざゐに遠のく泡や春の雨 
蟷螂の飛び立ちて行くはるかかな 
水中にすがるる草や秋日和 
草刈のしとどぬれたる馬を曳き

(『橙圃』昭和10年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)

2015年7月20日月曜日

またたくきざはし2  [大井恒行] / 竹岡一郎



怒髪は焼け衡は焼けて透ける耳のみ   大井恒行

判らぬながら、美しい夕焼けの如き情景が浮かぶのは、「透ける耳のみ」によると思う。「衡」は何と読むのか。音読みで「コウ」と読むのか、訓読みで「はかり」か「くびき」か、秤によって量られることを頚木と思う憂さがあって、二重の意味を持たせる意図で敢えてルビを付けなかったのか。

「衡」には、別の意味もあって、一つには死を司る北斗七星の柄の部分である。もう一つには、はかり、目方から転じて、標準という意味がある。更には、物事の良し悪しや成否を考えるという意味もある。

怒髪天を衝く、という言葉を思うと、これは天を突き上げるような怒りであろう。時の為政者に対する怒りか、この世のあらゆる不正に対する怒りか。その怒りも、その発露である逆立つ髪も焼け、その怒りを呼び覚ます「くびき」または「はかり」も焼ける。標準という概念も焼け、危うい釣り合いを保っていた何かも焼け、今起こさんとし或いは既に起こした物事の善悪も成否も焼ける。焼けるのは、天の炎によって焼けるのか。或いは遂に炎となった怒りが、髪も、怒りそれ自身も焼き尽くすのか。衡には平らという意味もある。だから、何もかも焼け失せて真っ平らになった地平への連想も生じる。

「焼け」を二度繰り返すのは、反復のリズム効果もあろうが、それよりもむしろ焼ける順序を敢えてつけることにより(衡が焼ける結果として怒髪も焼けるのではなく、まず怒髪が焼け次に衡が焼ける)、怒髪という現象に対する考察にも及ぶ。即ち、怒髪自体がそもそも衡の一種ではないのか。
そして怒髪の燃え滾る刃のような鋭さも、秤の厳しさも頚木の鈍重さも持たぬ、透ける耳のみが残る。耳は何もかも焼けた後の静寂を、澄んだ夕焼けの内に聴くのである。作者には、「木霊降るいちずに夕陽枷となり」の句もある。(「秋の詩」所収)ここでは枷の正体が表されており、また耳が聴くのは木霊である。こちらの方が判りやすい句ではあろうが、私は掲句の怒髪の行き行きて帰らぬ様に胸打たれる。正義を欲し、糾弾を求め、公平な秤に憧れ、不正な頚木を憎み、あるいは戒律たる頚木を待ち望み、燃え上がる髪の如く怒りを突き立て、この怒りは我を焼き我が髪を焼き我が身を火柱と化して天を衝くことを欲し、だが一切は焼け、否、焼けつくしてしまえ、真っ平らな地平だけが残れ、夕焼色に似た静寂だけが残れ、その静寂を聴く清澄な耳だけが残れ、それは怒髪突き上げた者の耳ではなく、柔らかな透ける耳、その内に新しき血の巡りて耀う為に、あまた怒れる者が殉じた耳。

<「秋(トキ)の詩(ウタ)」現代俳句文庫49『大井恒行句集』1999年ふらんす堂所収>


2015年7月16日木曜日

処女林をめぐる 3 [森澄雄]  / 大塚凱


四肢衰へて見る白桃は夢のごとし   森澄雄
澄雄は昭和二十三年三月に結婚し直ちに上京するものの、同年五月に腎を病み、以降一年余りを病床で過ごした。澄雄の病状が最悪のタイミングで妻が出産のため単独入院したことに、〈霜夜待つ丹田に吾子生まるるを〉の句を残している。決して安らかな病床ではなかったようだが、その時間が澄雄のこころを育んだのもまた事実であろう。身体は衰えを隠せないが、彼の内的世界は膨張した。

腎を病んで衰えた自らに、剝かれた白桃が差し出されているのだろうか。澄雄はつややかな白桃を「夢のごとし」と捉えた。確かに、身体の衰えと白桃の豊かさが対比されている構図が中心であり、この生命のモチーフを一種のパターンであると批判する、あるいは「夢のごとし」という表現が俗に使い古されていると批判することもできるだろう。しかし、重要なのはこの句が「白桃が存在し、それを味わうことが夢のようだ」ということではなく「白桃そのものが夢のようだ」と表現されていることだ。病床で長い時を臥せる者にとって、夢は慰みだろうか。僕には想像することしかできないが、もしそうだとするならば、澄雄の戯れた夢の数々が白桃という存在に凝縮されて甘い汁を湛えているような心地がしてならない。眠る度に消費されていく夢を、四肢衰えた澄雄は「見た」のではないだろうか。澄雄の言語世界で白桃の白さは、そんなまぼろしの光を纏っている。

(『雪櫟』昭和二十九年・書肆ユリイカ刊所収)

2015年7月15日水曜日

 目はまるで手のように言葉に触れる 17 [山口誓子]/ 依光陽子




汗ばみて少年みだりなることを  山口誓子


誓子の冷徹な眼差しの捉えた肉体は、生ぬるい情感を受け付けない。人間の本質を突きながら、物体としての肉感が生々しく、時に揶揄を含み、エロティックでありグロテスクだ。

句集『黄旗』の中でざっと拾ってみると

北風強く水夫の口より声攫ふ 
纏足のゆらゆらと来つつある枯野 
ストーヴや処女の腰に大き掌を 
さむき日も臚頂見え透く冠を 
侯は冬の膚うつくしく籠ります 
しづかに歩める風邪のタイピスト 
玉乗の足に鞭(しもと)や夏祭 
ラグビーの味方も肉を相搏てり

声を攫われた水夫の口の動き、枯野を来る纏足の女の覚束ない脚のゆらめき、処女の腰に置かれた男の手の欲情、冠がなければ威厳も何もない貧相な臚頂、侯爵朴泳孝の男性ながら白く美しい肌、立ち上がってしずかに歩きだしたタイピストのふくらはぎ、鞭打たれ腫れているであろう侏儒の足、肉体を打ち合う音から伝わるラガーたちの熱気と男臭さ。

しかし掲句は上に挙げた句とは違い、どことなく戸惑いを匂わせる。連作「汗とプベリテエト」4句中の3句目。<おとなびし少年の手の汗ばめる><少年の早くも夏は腋にほふ>のあと掲句、<ほのかなる少女のひげの汗ばめる>で完結する。思春期の少年少女の姿を活写したもので、中では4句目が秀逸であろうが、私は掲句に惹かれる。「みだり」にどの字を当てるか。乱り・妄り・濫り・猥り。『雨月物語』の「かれが性(さが)は婬(みだり)なる物にて」の婬も含まれようか。これらは少年の秘めたる性質。しかしむしろ『源氏物語』桐壷の「かきくらすみだりごこちになむ」の「みだり」を読み取る。言い表しようのない心の乱れ。つまり当事者である少年が無自覚なエロスは汗ばんだことで現れ、その姿を見ることによって誰彼の「みだりごこち」を誘うのではないか、といった他者としての視線。同時にそれを見出してしまった自分。

トーマス・マン原作、ヴィスコンティ監督『ベニスに死す』で主人公のアッシェンバハが美少年タージオに向けた眼が「みだり」であり、彼の苦悩は「みだりごこち」であった。

掲句所収の句集『黄旗』は山口誓子の第2句集。詩精神と現実主義の上に立った句材の幅の広さ、個々の句に独立性を持たせた編集法による連作俳句と、それらを大表題の下に置き一大連作を成すという構成から、従来の俳句の固定観念を打ち破り感性を解放した新興俳句の金字塔といわれる句集である。


玄海の冬浪を大(だい)と見て寝ねき 
渤海を大き枯野とともに見たり 
枯野来て帝王の階わが登る 
陵さむく日月(じつげつ)空に照らしあふ 
笛さむく汽車ゆく汽車の上をゆく 
掌に枯野の低き日を愛づる 
駅寒く下りて十歩をあゆまざる 
映画見て毛皮脱ぐことなき人等 
夏草に汽罐車の車輪来て止る 
春潮やわが総身に船の汽笛(ふえ) 
籐椅子や海の傾き壁をなす 
檣燈を夏の夜空にすすめつつ


(『黄旗』昭和10年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)



2015年7月13日月曜日

またたくきざはし 1 [大井恒行]   / 竹岡一郎



椀に降る牢獄(ひとや)ながらの世は初雪   大井恒行
「世の」ではなく、「世は」であることが眼目であろう。この助詞のずらし方により、この世と初雪の位置が重なり、下五において句が飛躍的に広がる。牢獄のような濁世の儚さを端的に喩えているのであるが、同時に、作者にとっては未だに初雪の如く初々しく見える世をも称えてもいる。

椀とは何だろう。山頭火の「鉄鉢の中へも霰」を思う。「碗」ではなく、木製の「椀」であるから、これはたとえ霰が落ちても大して響かない。ましてや初雪である。初雪に喩えられる此の世は音を吸い、自らも静かなのである。或いはかくあれかしと作者は希うのだろうか。「牢獄」なる語から、囚われの身に出される貧しい食をも思う。椀に降るのは雪でもあるが此の世全体でもあるのだから、これは相当大きい椀であろう。世の果てまで広がる伸縮自在の碗とも考えられる。そう考えた時、そのように喩えられるものはたった一つしかない。人間の心である。だから、この椀は作者自身の象徴であろう。作者が此の世を越えてはみ出したいと思っているように見えてならぬ。何の為にそこまで広がりたいかといえば、それは初雪を受けるが如く、この世を静かに受け止めたいからだ。「秋(トキ)の詩(ウタ)」
<現代俳句文庫49『大井恒行句集』1999年ふらんす堂所収>

2015年7月9日木曜日

処女林をめぐる 2 [森澄雄]  / 大塚凱


鬼やらひけふ横雲のばら色に    森澄雄
鬼はなぜ赤いのだろう。もちろん、「泣いた赤鬼」には思慮深くて切ない青鬼が登場するし、緑鬼もいるらしい。けれど、やっぱり鬼と言ったら赤鬼である。なまはげや天狗も赤い。赤鬼と彼らは兄弟みたいなものだろう。人間界でも、矢沢永吉のYAZAWAタオルは赤い。アントニオ猪木が新宿駅前で街頭演説をしているのを見たことがあるが、そのときも赤いマフラーをしていた(しかし、あれは果たしてマフラーなのか?)。赤鬼と彼らも従兄弟みたいなものだろう。やはり赤という色は、物の怪のちからの象徴である。天地のちからが漲っているのだ。

「横雲のばら色」にはそんなエネルギーを感じるし、節分の時期の清澄な空気、その冷えた日暮れの季節感がある。冬薔薇の気品すら感じる天地である。これから日が落ちれば、それぞれの家から豆撒きの声が漏れてくることだろう。その前の静かな夕暮れのひととき。

(『雪櫟』昭和二十九年・書肆ユリイカ刊所収)

処女林をめぐる 3 [森澄雄]  / 大塚凱
四肢衰へて見る白桃は夢のごとし 森澄雄
澄雄は昭和二十三年三月に結婚し直ちに上京するものの、同年五月に腎を病み、以降一年余りを病床で過ごした。澄雄の病状が最悪のタイミングで妻が出産のため単独入院したことに、〈霜夜待つ丹田に吾子生まるるを〉の句を残している。決して安らかな病床ではなかったようだが、その時間が澄雄のこころを育んだのもまた事実であろう。身体は衰えを隠せないが、彼の内的世界は膨張した。
腎を病んで衰えた自らに、剝かれた白桃が差し出されているのだろうか。澄雄はつややかな白桃を「夢のごとし」と捉えた。確かに、身体の衰えと白桃の豊かさが対比されている構図が中心であり、この生命のモチーフを一種のパターンであると批判する、あるいは「夢のごとし」という表現が俗に使い古されていると批判することもできるだろう。しかし、重要なのはこの句が「白桃が存在し、それを味わうことが夢のようだ」ということではなく「白桃そのものが夢のようだ」と表現されていることだ。病床で長い時を臥せる者にとって、夢は慰みだろうか。僕には想像することしかできないが、もしそうだとするならば、澄雄の戯れた夢の数々が白桃という存在に凝縮されて甘い汁を湛えているような心地がしてならない。眠る度に消費されていく夢を、四肢衰えた澄雄は「見た」のではないだろうか。澄雄の言語世界で白桃の白さは、そんなまぼろしの光を纏っている。
(『雪櫟』昭和二十九年・書肆ユリイカ刊所収)

2015年7月6日月曜日

今日の小川軽舟 52 / 竹岡一郎



巴里祭翅もつものは翅に倦み      「手帖」   

巴里祭は季語であるが、日本の7月14日に何か特別なことがあるわけではない。フランスの建国記念日であり、バスチーユ監獄の襲撃を記念する日でもある。実際には、バスチーユ監獄には革命家など収容されておらず、普通の犯罪者が7名囚われていただけだった。襲撃の実際の目的は、不当に囚われた革命家の解放ではなく、監獄の武器弾薬庫であったという。この日に、今なおフランスで行われるのは、国内最大の軍事パレードであり、エッフェル塔の花火である。皮肉な言い方をするなら、戦後の日本人が「革命」や「解放」や「自由」という字面から想像するようなものは何一つない。フランスの軍事力が如何に素晴らしいかを国内外に華やかに見せつけるパレードの日である。更に付記するなら、軍事力の頂点である核兵器を、フランスは350個保有している。米露に次いで、世界三位である。

「巴里祭」は日本だけの呼び方だ。日本人の間に「巴里祭」なる言葉が広まったのは、1932年に制作されたルネ・クレールの映画を翌年(昭和8年、満州事変の翌々年)日本で公開する際に、「巴里祭」と邦題を付けたのがヒットしたのがきっかけである。何ということはない、愛らしい初恋の映画であるが、パリの街並や風俗が、戦前の日本人には新鮮で、手の届かない上等舶来の夢だった。
パリは芸術の都というが、ウィーンだってフィレンツェだって芸術の都である。しかし、パリだけは同時に花の都であって、ウィーンのように仄昏くもなく、フィレンツェのように過剰でもない、日本人にはちょうど良いくらいの華やぎが季語として定着した理由の一つであろう。「ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し」と萩原朔太郎が『純情小曲集』中の「旅上」で歌ったのは、大正14年(1925年)。戦後でいうなら、「憧れのハワイ航路」みたいなものだ。

「巴里祭」という季語は、戦前の当時、多くの日本人は一生目にすることはなかったであろう、ヨーロッパの華やかな都への憧れを、夏の明るい光に託しているのだ。だから、この季語は実体のない、幻の美しさへの憧れ、そうであればいいなあという夢見る雰囲気であろう。もっと言うなら、戦後七十年経った今、我々が使う場合は、「巴里祭」というモノクロ映画に胸ときめかせパリに憧れた頃の日本人を偲び、その古き良き切なき心情を回顧する意味合いをも含んでいる。
(仮に、フランスの五月革命(1968年5月10日)を季語にするなら、「革命」「自由」「解放」の雰囲気は出るであろうし、世界中の学生運動に衝撃を与えた、このゼネラル・ストライキは団塊の世代が共感しやすいであろう。しかし、未だに「五月革命」という季語はない。)

さて、巴里祭が、戦前の日本人が憧れた「夏の蜃気楼」のようなものである事、そもそも映画の邦題であってフランス人には無意味な呼び名である事、現実の巴里祭の日にフランスで行われるのは専ら軍事パレードである事を踏まえて、掲句を読む時、「翅もつものは翅に倦み」が、如何に皮肉と哀しさを湛えているかは了解できると思う。飛ぶことに倦んでいるのだ。幻に、雰囲気に向かって飛ぶことに。羽ではなく、翅であるから、昆虫の類であって、鳥のように高く飛べる訳はない。

蝶々なら詩的に物凄く頑張って、韃靼海峡を渡れるかどうかであろう。或いは、露を金剛と観ずる眼にあれば、杏咲く頃に、びびと響いて受胎告知を知らせるくらいはできるかも知れぬ。だが、羽ではなく、翅しか持たぬものは、幻に、理想に、雰囲気に、憧れという実体の無いものに向かって飛ぶ事しか出来ぬだろうか。それならば、「倦む」とは、一つの救いの始まりかもしれぬ。現実を凝視する事によってしか、道は始まらぬからだ。平成15年作。

2015年7月2日木曜日

処女林をめぐる 1 [森澄雄]  / 大塚凱



家に時計なければ雪はとめどなし    森澄雄

第一句集『雪櫟』は学生時代を中心に、応召・野戦時代を空けて帰還以後の作によって編まれた。結婚・上京後に住んだ武蔵野の櫟林に囲まれた自宅を詠んだ一作が掲句である。

時計、つまり「時間感覚」と「雪」との連想をめぐる俳句はしばしば詠まれている。草田男の〈降る雪や明治は遠くなりにけり〉や波郷の〈雪降れり時間の束の降るごとく〉は言わずもがな、子規の〈いくたびも雪の深さをたづねけり〉にも、そこには確かな静けさを湛えた時間が流れている。そう考えていくと、「雪」と「時間」の連想というよりは、きっと「雪」そのものに「時間」が包摂されている。

僕も時計のない家にひとり、暮らしている。得体のしれぬ喪失感や満たされなさを抱えているうちに、時は過ぎ去ってゆく。時計の針が時間を教えてくれることもない。とめどない雪が、そして茫々たる時間が、僕のからだにふりかかる。時計がなければ、瞳は時を捉えきれない。そんなちいさな家に、雪がふりかかる。澄雄の住んだ家は、戦後の窮乏のなか妻子四人と暮らしたちいさな家であった。

(『雪櫟』昭和二十九年・書肆ユリイカ刊所収)





2015年7月1日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 16 [川端茅舎]/ 依光陽子




伽羅蕗の滅法辛き御寺かな  川端茅舎


句意は読んで字の如し。この寺は、出してくれる伽羅蕗がとんでもなく辛い寺なのだよ、ということ。

ではこの句、どこが面白いか。それは文字である。
「伽羅」「滅法」「御寺」どれも仏教に因んだ言葉だ。

香木である沈香の中で最も質の良いものが伽羅。インドでは仏を供養する荘厳のために香を焚き、身体に香粉を塗った。さらに出家者の戒律を定めた『四分律』にも、身体に塗る薬剤の一つとして伽羅があり、高級な線香の材料にもなる。東大寺正倉院に収蔵されている蘭奢待(らじゃだい)も伽羅だ。煮つけると黒く伽羅色になるところから伽羅蕗という言葉は来ている。

滅法はそもそも、因果関係に支配される世界を超越して、絶対に生滅変化することのないもの、真如や涅槃のことである。滅法界はこの世のものではない所。よって滅法とは、この世のものとは思われないほどという意味になる。

これだけの言葉が盛られれば普通なら相当抹香臭くなるところ。だが茅舎の天才を以ってすれば、この仰々しさも俳諧味と言えよう。

川端茅舎は明治30年生まれ。医師を目指していたが受験に失敗。志望を変更して洋画家を志し、武者小路実篤の「新しき村」の会員となり、その縁で岸田劉生に師事。異母兄に日本画家の川端龍子がいる。句作は18歳の頃から。画業の気分転換として始めた。朝日文庫の『現代俳句の世界・川端茅舎集』の三橋敏雄の解説によると〝茅舎〟の号は、姓〝川端〟と合わせて、旧約聖書のモーセがイスラエルの人々の祖先が曠野にさまよった〝遊牧の民〟の生活を記念するために、ヨルダン川のほとりに「結茅節(かりほずまいのいはい)」を定めたことに基づくそうである。

大正4年「ホトトギス」初入選。画業に専念しつつ「渋柿」「雲母」などにも投句していた。関東大震災後、京都東福寺の正覚院に寄宿。昭和5年頃より病がちとなり、画業から遠ざかった。同年「ホトトギス」巻頭を占めたことをきっかけに「ホトトギス」一本に投句を絞る。居は池上本門寺裏の青露庵。茅舎は脊椎カリエス、結核性の病に侵されながら珠玉の作品を数々遺し、昭和16年、44歳で鬼籍に入った。戒名は青露院茅舎居士。露を好み、露の名句を数々遺したことから、露の茅舎と呼ばれた。

露の茅舎も、『川端茅舎句集』の夏の露の句としては<迎火や露の草葉に燃え移り>の一句を認めるのみである。茅舎の句は最晩年へ向かうほど凄みを増してくるのだが、まだ第一句集であるこの句集では清新に登場した新人という趣である。

中学生で聖書を精読、キリスト教の影響を受けながら、仏教に近くいた茅舎の句群には、双方の要素が混在している。これも特徴の一つ。掲句の他にも<金輪際わりこむ婆や迎鐘>など、仏教用語を飄逸に使用した句も散見され、茅舎の本来的な茶目っ気を垣間見ることができる。

以上を踏まえた上で、再び掲句に戻ろう。この寺の伽羅蕗の桁外れの辛さは不変不動、この世のものとも思えないほど辛いと言うのである。有無を言わせぬ辛さのである。未来永劫絶対に変わらぬ辛さなのである。なんともとんでもない御寺に茅舎は厄介になってしまったものだ。一言でも辛いと口に出そうものなら「辛いと思うから辛いのじゃ」という御僧の喝が飛んできそうな、実に味わい深い一句である。


金剛の露ひとつぶや石の上
露の玉蟻たぢたぢとなりにけり
新涼や白きてのひらあしのうら
御空より発止と鵙や菊日和
蚯蚓鳴く六波羅蜜寺しんのやみ
放屁虫かなしき刹那々々かな
芋腹をたたいて歓喜童子かな
舷のごとくに濡れし芭蕉かな
しぐるるや目鼻もわかず火吹竹
一枚の餅のごとくに雪残る
眉描いて来し白犬や仏生会
蛙の目越えて漣又さざなみ
蟻地獄見て光陰をすごしけり

(『川端茅舎句集』昭和9年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)