2016年4月26日火曜日

フシギな短詩14[久保田紺]/柳本々々



  大好きな隙間に誰か立っている  久保田紺

隙間、ってなんだろう。

この句で語られているのは、〈大好きな誰か〉のことではない。「大好きな隙間」のことだ。

語り手が大好きなのは「誰か」ではなく、「隙間」なのである。すべては「隙間」から始まっている。隙間誌上主義者による句だ。ここにはヒューマニズムは、ない。

でも問題は「隙間」というのは文字通り〈透き間(スキマ)〉があるということだ。つまりどれだけ大好きであろうとも、そこに〈なにか〉や〈誰か〉が入り込むことを許してしまう〈余地〉がある。隙あってこそのスキマなのだから。

だからどれだけ隙間至上主義者であっても、そこには〈誰か〉がやってくる。「大好きな隙間」に入り込んだ〈誰か〉なのだからとうぜん語り手は気になってくるはずである。実際、「誰か立っている」と語り手は、もう、気にし始めている。

でも「誰か」という呼称にも注意してみよう。誰かがたとえそこにいたとしてもそれは「隙間」ほどのスペースしかないのだから、それが「誰」なのかを語り手は特定することができない。年齢も性別も、もしかしたら人間かどうかさえわからないかもしれない。「誰か立っている」ことしかわからない。語り手は、いま、〈大好き〉を通して〈未知〉にであっているのだ。

語り手はこれからどうするのだろう。「大好きな隙間」のためにその「誰か」を排除しようとするだろうか。それとも、その「大好きな隙間」にいる「誰か」を「大好き」になるのだろうか。

  ふたの隙間から鼻血が出ています  久保田紺

この句集のもうひとつの「隙間」の句である。「ふたの隙間から鼻血が出て」いる。ああそうか、って思う。「隙間」は生命とつながっているのだ。だから「鼻血が出て」くる。

だとしたら、「隙間」が「大好き」な語り手はきっとその「隙間」でこれから〈大好きな生命〉に出会うに違いない。

隙間は、どくどくと、息づいているんだから。

ひとは橋の上で、戦場で、月の下で、誰かとであうわけでもない。隙間のなかで出会う場合だって、あるのだ。

世界はわたしたちが思っている以上に、まだまだ、ひろい。その広大さを教えてくれるのは、文学であり、川柳である。
 
かつて、世界の果てが失われてゆく実感のなかで、スコット・フィッツジェラルドはこんなふうに述べていた。

「そうか、空を飛べば抜け出せたのか──」

 空さえも今や自由に飛び立てるようになってしまったわれわれには、いまだ未知のフロンティアとして次のことばが、残されている。

そうか、隙間があるじゃないか。ゆこう。

          (『大阪のかたち(川柳カード叢書③)』川柳カード・2015年 所収)

2016年4月24日日曜日

黄金をたたく30  [桑原三郎]  / 北川美美



生涯の顔をいぢつている春よ  桑原三郎 


「春よ」としたことで、春の歓喜を詠っていると解せる。冬の間の強張った顔がやわらぐ季節に顔をいじる。おそらく他者の顔ではなく自分の顔。鏡を見ずに眉や鼻や頬、髪や髭をいじるのであれば、何か考え事をしているとき、というのが大筋だけれど、「生涯の顔」であれば、「いじつている」行為をしばらく見ている、それが「生涯の顔」であると自分が認識する必要があり、その状況から、鏡の前のことなのではないかと想像する。 ふと、鏡の前の自分の顔が気になって「いじる」。また春が巡ってきた歓びと、いつかは死んでいく己の生きてきた顔かたちを自らの手で確めている。どうだ、お前元気か、と自分が自分に問いかける。なにはともあれ自分がつくってきた顔、今まで連れ添ってきた自分の顔なのである。

三郎の「顔」の句は春に詠まれることが多い。身体の中で一番先に春を感じる部位が、顔。逆を言えば、顔に気が付く季節が春である。一年中なにも纏っていない無垢な部位だから一番先に季節を感じるのだ。

手に乗せて顔はやはらか春あけぼの  「花表」
ちるはなや顔(かんばせ)は吹き荒らされて 「龍集」
顔を置く机上はひろし夜の鶯

<『龍集』1885(昭和60)年 端渓社所収>

2016年4月21日木曜日

人外句境 38  [曾根毅] / 佐藤りえ



立ち上がるときの悲しき巨人かな  曾根毅

「巨人」はこれまで扱ってきた「人外」のなかではちょっと特別な存在である。「擬人化」という言葉があるが、「巨人」は「大きすぎる人」であり、人になぞらえるどころか、大きさ以外の要素は人と同じであるように考えられがちである。神話・伝承に残る彼らの情報は、地形を作った、などの大きさを活かした特殊なことを除けば、山にすわった、川で足を洗った、など(スケールを除き)人間の行動と大差ないものとされている。

その「大きさ」というたったひとつ(ではないだろうけど、もっとも特異なところ)の異質さを、大きさゆえに、彼らはひとびとの目から隠すすべもない。

立ち上がるとき、と書かれているが、巨人はきっと立ち上がる以前も悲しい。敢然と立ち上がるとき、その大きさはより際立ち、見るものを圧倒することを、巨人は知っている。

地面に拳をつき、踵に力を入れる、動作の瞬間の、悲しみのきわまりを描く掲句は、やさしく悲しい響きを持っている。



掲句は句集『花修』冒頭に置かれている。編年体の句集なので、一冊の中では作者が最初期に詠んだ句、ということになる。本の冒頭に作者の本質が表れる、などと軽々に言いたくはないが、この作者のえがく、薄闇の気配をまとったような作品群と巨人の「悲しさ」には通底するものがあるように思う。


暴力の直後の柿を喰いけり
白菜に包まれてある虚空かな
我が死後も掛かりしままの冬帽子
山鳩として濡れている放射能
天蓋の燃え残りたる虚空かな
少女病み鳩の呪文のつづきおり
人日の湖国に傘を忘れ来し
春昼や甲冑の肘見当たらず
殺されて横たわりたる冷蔵庫
祈りとは折れるに任せたる葦か

暴力の直後の柿を喰いけり」は暴力の余韻を十分に曳く佳句。この句のように、事象の「瞬間」でなくその「のちのこと」を予感し、また、前後の時間を思わせる「言葉の経過」を持つ句も印象的だった(「我が死後も掛かりしままの冬帽子」「天蓋の燃え残りたる虚空かな」「人日の故国に傘を忘れ来し」など)。「殺されて横たわりたる冷蔵庫」など、暴力も含めた力の行使の果ての変容といったものも主題の底に流れているのだろうか。

山鳩として濡れてゐる放射能」集中にはセシウム、マイクロシーベルトといった語彙により、福島第一原子力発電所の事故による災禍を間接的に詠んだ句もあった。実際のところ、こうした言葉が作家自身、また読む者にとって「詩語として」共有できるようになるのか、現在すでにそうなっているのか、は判断が難しいところであると思う。放射能が「山鳩として」濡れているという表現は、放射能を「山鳩として」捉えている、ということでもある。言葉の世界のなかでそれら目にも見えないものを単に「言葉を使って」あらわすのではなく、捉え直し、形を与えようとする意思がよく見える。世界を「捉え直す」という、言葉、ひいては詩の本来の役割について、改めて考えさせられる。

〈『花修』深夜叢書社/2015)

2016年4月19日火曜日

フシギな短詩13 [喪字男]/柳本々々



  たまに揉む乳房も混じり花の宴  喪字男


季語は「花の宴」。お花見のさいちゅうである。宴の文字からもわかるとおり、すこし祝祭的で、やや入り乱れている。桜も、舞っている。

そのなかで語り手が注目しているのは「乳房」でとらえる世界である。お花見のなかで、語り手は「乳房」からいま・ここの感覚をとらえようとしている。そこでは誰それがいるということが問題になるのではなく、どのような乳房があるかが問題に、なる。

そして今回問題になっている乳房は「たまに揉む乳房」だ。頻繁に揉む乳房でも、揉むこともなかった乳房でもない。「たまに揉む」だから、すこし関係があって、すこし関係がない「乳房」である。

「混じり」という言葉づかいにも注意してみよう。「混入物」という言葉もある通り、〈混じる〉は通常そこに構成されなかった異物が加わるときに使われる言葉だ。だから語り手にとっていま・ここにある〈風景〉は新しい風景のはずだ。ふだんは混じることのない構成のなかに「たまに揉む乳房」も混じっているのである。

前回は、長嶋有さんの句の「不倫」と「ポメラニアン」の距離感をみてみたのだが、今回の「たまに揉む乳房」と「花の宴」はほとんど距離感がないことが特徴なのではないかと思う。むしろ「花の宴」というすべてがないまぜになっていく祝祭空間において、「よく揉む乳房」や「揉んだことのない乳房」、「たまに揉む乳房」が混成し、〈乳房の祝祭空間〉=「花の宴」になっていくという〈距離の消失〉こそが語り手にとっての〈春の祝祭感〉になっているのではないかと、思う。

そう、祝祭とは、距離の消失のことなのだ。そしてそれこそが語り手にとっての《宴(うたげ)》なのである。

舞って散る花びらの動きは予想がつかない。意想外のところに〈混入〉するだろう。宴のような人生も、そうだ。さまざまな人間が出たり入ったりする。人生は予想もつかない花びらの舞い散る速度で〈混成〉されていく。

すべては「花の宴」のなかで起きるのだ。

          (「ハイクラブ」『里』2013年5月号 所収)

2016年4月17日日曜日

黄金をたたく29  [桑原三郎]  / 北川美美




鉛筆は地獄を書いてゐたりけり   桑原三郎 


小学校入学の式典を終えた女の子がやってきて、ほぼ空っぽのランドセルにひとつだけ入っていた筆箱の中身を見せてくれた。未使用の削ったばかりの鉛筆、赤鉛筆、消しゴムが綺麗に並んでいた。児童、生徒、学生というのは、やはり鉛筆を使うのだ。大人になると芸術、技巧的な分野は別として、鉛筆を使う機会が激減する。

掲句の「地獄を書く」の措辞は、「地獄」という字を書いたのか、あるいは、「地獄」についての文章を書いたのか、ということになると思うが、地獄に相当する文書、手紙、メモ、作品を書いたのだと予想する。つらいこと、もう懲り懲りということ、経験するに堪えがたいことを書いたのだと思う。そして鉛筆で書いたのであれば、何度でも消して書き直すことが出来ることを意味する。

「で」ではなく、「は」であること、そして「ゐたりけり」により、過去の回想にとどまらず、時間の経過、つまり、鉛筆というものは、昔から、地獄のことを書いていて、今もそうなんだ、という作者の認識が含まれていると考察する。

鉛筆であれば、書き直すことができる。遺書、遺言、恋文、俳句…、それは地獄の黙示録に相当する。


鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ  林田紀音夫


鉛筆は無季にこそ、味わいがあると教えてくれる。掲句はその典型である。



<『龍集』1885(昭和60)年端渓社所収>

2016年4月14日木曜日

人外句境 37  [御中虫] / 佐藤りえ



今晩は夜這いに来たよと蛸が優しい  御中虫


『俳壇』の特集「妖怪百句物語」に寄せられた一連「蛸」からの一句。蛸とエロの掛け合わせといえば葛飾北斎『蛸と海女』が浮かぶが、この蛸は礼儀正しく、なるほど優しそうだなと納得して戸を開けてしまいたくなる。蛸がどうしたこうした、と細かなことを言わず「優しい」とほのめかされていることで、助平心が嫌が応にもくすぐられる。

「蛸」という、意思はありそうだけど感情が読めそうにもない生物に優しさを感受する、特殊すぎる状況なのに涙ぐましいほどに多幸感が溢れている。異常×異常=多幸、と駄洒落を言っているわけでなく、麻痺した幸せに包まれているような句だ。

特集では他に諸家のこんな作品が並ぶ。季語ということもあるためか、雪女の登場率が高めだった。

宗教に入ってしまう雪女  塩見恵介 
こんな顔でしたか月を闇籠めに  太田うさぎ 
くも に とぶ べむ べら べろは このは かな  高山れおな

御中虫氏の他の句群にも、異様なテンションのさきに阿片チックな境地が望めるものがある。

茶碗持つたまま夢のなかに来た  
『おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ』 
どつと笑ひながら出る胡麻の一粒で悪ひか 
じきに死ぬくらげをどりながら上陸 
関揺れるさうかそつちが死の淵か 『関揺れる』 
こんな日は揺れたくなるなと関は言った  
関揺れる人のかたちを崩さずに 
「揺れたら関なの?」「じゃあ私も関」「じゃあ俺も」

じきに死ぬくらげをどりながら上陸」サイケデリックな空模様を背景に、なぜか手足の別を持ったクラゲが阿波踊りよろしく集団で浜辺に現れる様子が生き生きと脳内再生されてしまう。
関悦史さんが揺れる=「関揺れる」を「季語として」、2012年2月24日にツイッター上で一気呵成に詠まれた「震災俳句」を編んだ句集『関揺れる』は、呼吸、緩急が「関揺れる」を軸として縦横無尽に繰り広げられる、見事な独吟だ。興行の様子をリアルタイムで見る事ができなかったのは残念だが、一冊にまとまり、本として読めるのは意義深いことと思う。

ところで今回の選句は実は孫引きである。歌人・飯田有子氏がおよそ年一で発行している文芸誌『別腹』8号に、石原ユキオ氏が寄稿した「妖怪俳句ウォッチ」の中で掲句が引かれていたのだ。記して感謝したい。なお、石原氏じしんも「憑依俳人」を自称し、こんな俳句を作っている。

ピノキオに精通のある朧かな  石原ユキオ
背負はれてきつと花野に捨てられる

〈『俳壇』2011年8月号/本阿弥書店〉

2016年4月12日火曜日

フシギな短詩12 [長嶋有]/柳本々々



  ポメラニアンすごい不倫の話きく  長嶋有

不倫で大事なことはなんだろうか。
不倫で大事なのはそれがいつも他者から評価をうける点にある。当事者が評価するのではないのだ。

不倫の当事者はじぶんたちの〈不倫〉を〈不倫〉とは言わずに、〈恋愛〉というだろう。〈不倫〉を〈不倫〉というのはこの句の語り手のように当事者〈以外〉に身を置いた人間なのである。

不倫をめぐる距離感。

私はこの句のポイントは語り手の《不倫をめぐ距離感》にあるのではないかと思うのだ。

「すごい不倫の話」を語り手はきいているわけだが、語り手はその不倫関係のなかにあるわけではない。でも、不倫の話をきいてしまった以上、それは〈知る〉という不可逆のなかに身をおいたのであり、その意味で語り手は不倫関係に関係したともいえる。

しかも、ただの「不倫」ではなくて、「すごい不倫」と語り手は語っている。語り手のある想定内をこえた「不倫」であり、その意味において〈他の不倫〉からは抜きんでた〈不倫〉でもある。

「すごい」という不倫の形容詞。

不倫をしているものどうしは、「今わたしたちすごい不倫をしているね」とは言わないだろう(「すごくだいすきだよ」とは言うかもしれないが)。それを言えるのは〈外〉にいる人間だけなのだ。でもその「すごい」という価値評価によって語り手は少なからずその「すごい不倫」に関わり始めている。なぜなら、きょうみがなければひとは価値評価なんてしないだろうから。その「すごい」によって語り手は「すごい不倫」と関係を持ち始めている。

そしてこの句にはもうひとつの大事な語り手が見出した不倫をめぐる関係性がある。「ポメラニアン」と「不倫」との距離だ。「ポメラニアン」という無垢な表情をした小型犬の〈あどけなさ〉と「すごい不倫」という人間のどろどろした〈すさまじさ〉の距離感。

「不倫」をめぐって語り手はこの距離感をひとつに束ねるために〈俳句〉を用意した。「ポメラニアン」と「すごい不倫」と語り手が〈俳句〉を通して〈不適切〉に出会ってしまう意味的な〈不倫関係〉がここにはある。

わたしたちはときどき「すごい不倫」の話をきく。わたしたちは「すごい不倫」のわきでなにげなく買い物をしたり、ブランコに乗ったり、小川のほとりでたたずんでおしゃべりをしたり、電車のなかでずっと読みかけのままだった文庫本を読み終えたりする。でも「すごい不倫」はいつもそこここにある。

わたしたちはいつも《位置》を要請されている。

でも、〈俳句〉がときどきその〈位置関係〉を教えてくれることがある。

「ポメラニアン」も、「すごい不倫」も、あなたの顔をじっとみている。あなたが、なにを言うのかと。《わたしたち》をどうするのかと。

そのとき、あなたははじめて口にするかもしれない。

いったい、なにを?

俳句、を。


          (『春のお辞儀』ふらんす堂・2014年 所収)

2016年4月10日日曜日

黄金をたたく28  [桑原三郎]  / 北川美美



春闌けて落ちるおちると川の水   桑原三郎

春爛漫の頃、花々や鳥たちが賑やかになり心落ち着かなく、外へ出たいと思うようになる。その頃は同時に水を感じる季節でもある。すべてが清々しく、あぁ春だと思う。掲句は春の中にいる作者に虚しく映っている水の景である。大自然の摂理の中に生きる人間の業の悲しみが伝わる。おそらくそれは中七の「落ちるおちる」にインパクトがあるからではないか。落ちていくことが解っている景を見ているにも関わらず、その危うさに虚無感が感じられる。落ちるおちる、あぁ落ちていった、というような作者心理が伺える。


春が闌けているのに「落ちる」という逆の構造、そして「落ちるおちる」のリフレインと表記が<散る>を徐々に連想させ、読者を空虚の世界へと引き込んでいく。


川の流れを見て、思い出すのは、下記の方丈記の冒頭だ。


ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず    鴨長明


水の流れを人の営みや、時の流れに重ね合わせてきたのが、詩歌の歴史でもある。落ちるもの・・・恋として見ることもできる。そしてすべては下五「川の水」へと繋がり流れていく。夢なのか現なのかとその境がわからなくなる間(あわい)に作者立っているのである。


<『龍集』1885(昭和60)年端渓社所収>

2016年4月7日木曜日

人外句境 36  [佐怒賀正美] / 佐藤りえ



脛毛なきロボット登るかたつむり  佐怒賀正美

かたつむりがロボットの脚を登ってゆくところ。ロボットの肌というと銀色のもの、またジュラルミンなどと素材を特定したくなるのは古い思い込みのせいである。
かたつむりにとっては登るものが有生物か無生物か、などといったことは知ったこっちゃないのだろうな、とは思いつつ、脛毛のない平滑な脚と軟体との対比が何とはなし明るい虚無を感じさせる。

咳の少女負の放物線画けば鮫     『青こだま』 
胸つきだして春の時間を舞ひすすむ 
白南風やひらけば浅き辞書の爪 
爆発をしない塊白鳥は      『椨の木』 
観音の下ろさぬ千手天の川 
人眠る頃のさくらの修羅の相 
色鳥ほどや縁起書の乎古止点       『悪食の獏』 
世界中トースト飛び出す青葉風 
春障子宇宙の渦に立ててあり 
ロボットは無季と蔑【なみ】されとぐろ巻く

佐怒賀氏の作風は、宇宙から古代まで自由で幅広い句材を、屈託なく且つ地球から軸足を外すことなく、真地球人(などという言葉はないので勝手に書いております)としての自覚、とでも名付けたくなるような、確たる重心を持ってあらわしているところに特異さがある。
『青こだま』のあとがきには「感動の対象が現実であれ仮構であれ、基本的にはその詩的真実の有り処をたずね、できる限り具体的で明確なイメージ化を心がけた(前後略)」という記述がある。句群を読んで後、然り、と思える一文である。

「胸つきだして春の時間を舞ひすすむ」は虚子の「春風や闘志抱きて丘に立つ」に対して、より軽やかにプログレス魂を見せた句となっている。「世界中トースト飛び出す青葉風」は、国から国へ、日付の変わる順にトーストをポップアップしていくトースターの画が脳裏に浮かぶ、楽しい句である。

〈『俳句』2014年8月号/角川文化振興財団〉

2016年4月5日火曜日

フシギな短詩11[榮猿丸]/柳本々々



  レジの列に抱きあふ二人春休  榮猿丸

レジに並んでいるとレジの列に抱き合っている二人がいる。コンビニなどでたまにみられる風景だ。

この突如あらわれた〈いちゃいちゃ〉を語り手は俳句を通してみつめている。この俳句化された〈いちゃいちゃ〉を〈法〉と〈無法〉という観点から考えてみたい。

まず「レジの列に」というこの句の出だしに〈法〉がある。ここでは〈列〉という規則性によって〈法〉が遵守されていることがわかる。

そこに対比されてあるのは、下五の「春休」という季語だ。「春休」は、いわば学校規則という〈法〉の外にある時空間だ。「春休」とは学校が管轄しないひとつの〈無法地帯(アジール)〉であり、この「レジの列」のなかの「抱きあふ二人」はいわば〈法のお休み〉のなかで抱き合っている。無法地帯における「抱擁」といっても、いい。

でも考えてみたいのは「二人」という呼称が使われていることだ。これは〈いちゃいちゃ〉を〈僕ら〉という〈内側〉からではなく「二人」という〈外側〉から眺めている風景なのである。だから抱擁する〈僕ら〉は無法地帯にいるかもしれないけれど(「僕らは今いちゃいちゃしている」)、それを俳句を通して外から眺めている語り手は「レジの列」という〈法〉のなかにいる(「この二人は今いちゃいちゃしている」)。

つまり中七の「抱きあふ二人」は実は〈法〉から〈無法地帯〉にいる「二人」を〈外〉から眺めている視点でもあるのだ。そして同時に、語り手は季語「春休」によってその〈法〉を〈無法〉へと緩和してもいるのである。

だから、この句における〈いちゃいちゃ〉は、法と無法の〈はざかい〉にある。すなわち、上六「レジの列に」という〈法〉と下五「春休」という〈無法〉に《文字通り》中七「抱き合ふ二人」が〈挟まれ〉るかたちで、ふたりは「抱擁」しあっているのだ。

法と無法の〈あわい〉のなかでの抱擁。

ここには、ひとは抱擁するとき、いったい〈どこ〉で抱擁するのかという問題がある。

ひとは、法のなかで抱擁するのか、それとも無法地帯で抱擁するのか、それとも法と無法のはざかいで抱擁するのか。

だから今度抱擁するときに少しだけ確かめてみてほしい。いま、〈僕ら/二人〉は〈どこ〉で〈いちゃいちゃ〉し〈抱擁〉しているのかを。

          (『点滅』ふらんす堂・2013年 所収)

2016年4月1日金曜日

フシギな短詩10[小倉喜郎]/柳本々々



  掻き分けて掻き分けている春の指  小倉喜郎

句集のタイトルは『急がねば』。おもしろいタイトルだ。語り手は、いま、急いでいる。あるいは、急ごうと思っている。急がなければならない状況に身をおいている。なんらかの〈多忙のプロセス〉に語り手はいるのだ。

掲句はまさにその〈プロセス〉にある。「掻き分けて」いる。「掻き分けて」いる。大事なことなので二回掻き分けている。たぶん、二回掻き分けたのだから、三回目もあるだろう。四回目も。五回目も。

しかも、指だ。語り手が注目しているのは「指」という身体のパーツである。「春の指」で「掻き分けている」対象そのものに注目するのではなく、今「掻き分けている」みずからの「指」そのものに意識を注いでいるのだ。

つまりこう言い換えることもできる。語り手の意識のなかで「掻き分け」られているのは、〈今まさに掻き分けている〉「指」そのものなのだと。

「掻き分け」て「掻き分け」て「掻き分け」ているなんまんぼんもの「指」が語り手の意識のなかでひしめいている。「掻き分け」る対象はひとつでも、「掻き分け」る「指」の〈行為〉に着目してしまった語り手にとって行為は〈えいえん〉に続くだろう。

「春の指」は、〈意識の繁殖〉のなかにある「指」でもある。意識のなかでぞろぞろと生えていくゆび。それはもう自分のゆびではなく、なかばモノとしてのゆびだ。うっそうと生えているゆびだから〈意識のなかで〉掻き分ける指そのものを掻き分ける。意識のひだをめくってもめくっても意識がやってくる。それだから、やっぱり、

掻き分けるのだろう。

  ゆびきりの指が落ちてる春の空  坪内稔典 

この「指」とおなじ位相にある「指」のようにも思う。それはすでに意味的統合から乖離してしまった指だ。だれのものでもない。あえていうならばそれは「春」が所持している「指」。

ただ、この句の語り手と小倉さんの句の語り手が違うのは、語り手がなんだか〈急いでいた〉ことだ。語り手は〈多忙さ〉のなかで「掻き分け」ることをやめない。

  永遠に続く自販機桃の花  小倉喜郎

「自販機」のような自動的なアクションの装置が「永遠に続く」風景。その「永遠」のなかで語り手は「急」いでいる。なにかが、欠けている。なにかが、うしなわれている。統合しえない〈部分の風景〉。

  立春の箱から耳を取り出して  小倉喜郎

  緑陰に脳がいくつも落ちていたよ  〃

語り手にとって〈身体〉はわたしを完成させる部位としてあるよりも、〈そこらへん〉に落ちている未完のモノだ。この句集のなかで身体は〈バラバラ〉であり〈未完成〉なのである。

だからこんなふうにも思う。語り手は身体を完成させるために「急」いでいるのかもしれないと。それならば私にもわかる。私もきっとこう言うはずだ。

「急がねば」。

でも、語り手は、人間の身体のパーツではなく、象のパーツを買いに行ってしまう。

  待春や象のパーツを買いに行く  小倉喜郎

だから私は再度いうだろう。「いや、ちがうんだ。別の仕方で《急がねば》」。


          (『急がねば』ふらんす堂・2004年 所収)