2015年10月29日木曜日

人外句境 24 [林望] / 佐藤りえ


回送電車軽々と行く秋の夜半  林望

すべての乗客が降りた後、車庫にしまわれるべく「回送」の表示を掲げ、ホームを出て行く電車。さっきまでのすし詰めが嘘のように、向こう側の座席や窓がよく見える、がらんと見通しのいい車両はいかにも軽そうだ。

「軽々と」の措辞が、ほんとうに軽い、重さからやっと解放された…といった趣を感じさせて、実は「質量のないひと」がびっしり乗ってるんじゃないか、という深読みを抱いてしまった。

酔っ払いや、騒々しい学生や、おしゃべりの堪えない女子や、駆け込み乗車をするものや、傍若無人な人間たちが跋扈する、混み合う車両を避けて、物理的に重量を持たない方たちが、ヤレヤレ、と乗っていくのが回送電車の車列なのかもしれない、なんてことを思うのは、秋の夜長の妄想に過ぎない。

〈『しのびねしふ』祥伝社/2015〉

2015年10月24日土曜日

黄金をたたく25  [宮崎斗士]  / 北川美美



スプーン並べる間隔いつのまにか秋 宮崎斗士


英語のスプーン(spoon)はオランダ語(spaaon)、ドイツ語(span)と同じく木の切れ端、もしくは木の裂いたものという意味が語源だそうだ。ちなみにフランス語のスプーンにあたるものは、キュイエール(cuiller)で、ラテン語の貝(cochleare)が語源。

西洋では「銀のスプーン」を出産祝に贈る習慣があり、「一生食べ物に困らない。」「一生お金に困らない 」...の願いが込められる。

この句のスプーンも、テーブルウエアのカトラリーとして使うスプーンだろう。「スプーン並べる」とあるのは、これから使用するかもしれないスプーン、あるいはオブジェとしてのスプーンを延々と並べている風景が想像できる。日本にシチュエーションを合わせるとホテルの宴会場やカフェで黒服のお兄さんがセッティングしている姿が想像できる。 スープ、あるいは、食後のコーヒーか、デザートでのスプーンあたりかと予想する。用途によって形や大きさが異なれどスプーンは「食」を連想させる。 ゴルフの三番ウッドもスプーンという別名があるが、これも食器のスプーンから来ている。

スプーンだけを並べている黒服のお兄さん(ギャルソンあるいは執事)は何を考えるのか、その間隔を正確に配置することが仕事なのだから、スプーンとスプーンの間隔に集中しているはずだ。 並べるという単調な作業に慣れて来ると、このスプーンを使うお客様、あるいはご主人が何を召し上げるか、誰とそれを召し上がるのか、どんな時間を過ごされるのか、、…などなど他人様の生活を想像して、それがギャルソンあるいは執事としての一瞬の業務上の愉しみであり、次の行動をとるためのヒントにもなる。黒服のギャルソンまたは執事は想像力が豊かでなければならない。

昼メロ風に場面を考えみる。フランス風カフェの道側の席にふと、美しいマダムが座る、ご婦人に黒服のギャルソンは、「奥様、何か御用でしょうか?」と尋ねる。 「珈琲を二つ」それから「タルトタタン(フランス風の焼き林檎のタルト)をひとつ」 連れのお客様がすぐに来るらしい。 今まで並べていたスプーンから、珈琲用のスプーンを二つとデザート用のスプーンをひとつ取る。 今まで並べてたスプーンがそこから無くなり、当然、今まであったスプーンが確保していた領域分の空間がそこに生まれる。

ここでは等間隔かの詳細がわからないが、今まで積み重ねて作って来たスプーンとスプーンの間隔に生まれていた安定性が、並べたスプーンが無くなる度に当然不安定になる。スプーンを並べる行為は、その間隔に何が起こるのかを考えていく作業である。間隔に緊張感が生まれて美しい配置となるのである。 トランプが並べられて美しいのと同じで、西洋様式のものは間隔の規則制をもって美しさの黄金律がある。 間隔を考えて並べている行為は馬鹿馬鹿しくもあり哲学的、美学的ともいえる。

「ニュートンのゆりかご」がカチカチと音をさせているような気にもなる。 そんなことを考えているうちに秋になった、ということだろうか。物思いにふけるには秋が最適だ。なので「いつのまにか」なのである。 

人生における真剣さと可笑しさが入り混じっている。知的なミスタービーン風。 いわば、俗と雅とを渡っている、まさしくそれは俳句の美味しいところなのではないかと思う。

<『そんな青』六花書林2014年所収>

2015年10月22日木曜日

人外句境 23 [車谷長吉] / 佐藤りえ


草餅を邪神に供へ杵洗ふ  車谷長吉

邪神に草餅を供える。どのようなよこしまな神かわからないが、供えるものとして草餅、はどこか素朴で愛らしい。真摯な願いなら白い餅でよいのではないか。悪鬼が相手なら生贄として生き物やら生血やらが喜ばれそうなものでもある。

しかもその餅は杵と臼で手つきされたものらしい。念が入っているのか、真剣なのか、巫山戯ているのか。杵を洗う男の背中はゆるぎなく、笑っていいのか怖れていいのか戸惑う。

農村においては草餅は年中行事などに関わりなく、よく作られる。食事を神仏に供えるように、もらい物や初物をまずはほとけさんに、という時に、異形の邪神がひっそりその端にいるような、微妙に歪な日常感がにじんでいる。

  中年やメロンの味に胸騒ぎ

同句集にはこのような句もあり、やはり男の胸中はわからないなと思う。

〈『車谷長吉句集』沖積舎/2003〉

2015年10月16日金曜日

黄金をたたく24  [飯田冬眞]  / 北川美美



時効なき父の昭和よ凍てし鶴  飯田冬眞


作者の父上にとっての「昭和」、それも「時効がない」。無期限の探し物あるいは喪失感、何か背負っているものが終らない気配がある。昭和を生きた父上の世代。おそらく戦前のお生まれで戦中、戦後を生き抜いてこられた世代だろう。何があっても身じろぎたじろぎをしない一本足で立つ凍鶴が父上の姿の象徴となって作者に映っているのだ。「父」が暗喩ではなく、実際の肉親、血族である「父」でことが伺える。

昭和という年号は、平成になり早四半世紀が過ぎているが、不思議と過ぎ去った感覚にならず終わりが見えない。時代に何を想うかは、生年による差もあるだろう。三橋敏雄の「昭和衰え馬の音する夕かな」、この作成時、昭和は確かに終わってはいなかったが、不穏とも思える「馬の音」が、いつまでも不気味な恐怖となって迫りくる予言ともいえる作品だと筆者は思っている。作者の父上はおそらく敏雄と同世代あるいは大きな歳の差は無いように思われる。作者の父上も敏雄も同時代を生きた「昭和」、そして作者と筆者もその「昭和」に生を受けた。簡単には言い尽くせない「昭和」。「昭和」は歴史上で長くそしてあらゆる事象を包括する激動の時代だった。「時効がない」というのは、過去形ではなく、今もその時効がないことが続いている、そしてこれからも続くのだ。「時効なき」ということにより、一層「昭和」に終わりがないことが伝わってくる。

ここで【時効】の意味を辞書で確認してみると、

ある事実状態が一定の期間継続した場合に,権利の取得・喪失という法律効果を認める制度。 「 -が成立する」 → 取得時効 ・ 消滅時効 
一般に,あることの効力が一定の時間を経過したために無効となること。 「もうあの約束は-だ」
<三省堂 大辞林>

法律上の用語として使われることが多い「時効」という言葉。句集のところどころに、社会というあるシステムの中で、生きることに懸命な作者に遭遇しなんともドラマチックである。

赤とんぼわすれたきことばかり増ゆ 
母の日に苗字の違ふ名を添えて 
がんばれといわれたくなし茄子の花 
捨てた名と捨てた町あり秋暑し 
始まりも終わりも素足失楽園


掲句から、親が背負ってきたものが子に引き継がれる累々とした血の脈略を感じる。作者自らその時効のない何らかの喪失を引き受ける姿勢が伺える。その遺失を探す態度が今後も俳句に反映すると予感する句である。 

<「時効」ふらんす堂2015所収>

2015年10月15日木曜日

人外句境 22 [対馬康子] / 佐藤りえ



国の名は大白鳥と答えけり  対馬康子

ひとつめに浮かんだ情景。

空港の入国審査場で、パスポートをみせながら質問に答えている。ふつう、出身国を問われることはないと思うが、なにかを聞き間違え「ハイ、大白鳥からきました」ときっぱり答えるひとり。入国審査官の目に、おびえともあこがれともつかない色が浮かぶ。

ふたつめに浮かんだ情景。

小学校の教室で、地理の授業が行われている。机も椅子も丈が低い。低学年の教室のようだ。黒板には見たことの無い世界地図が磁石で貼られている。大きな大陸は七つを超え、細々とした島々は天の川のように北東から南西へ向けて流れている。教師が一つの島を指示棒で指し、この島の名は何でしょう、と問いかける。ハイハイ、と次々手が挙がる。名前を呼ばれたひとりの女生徒が、「ハイ、大白鳥です」とひといきに言う。指示棒のさきの島は、白鳥が翼を広げ今しも飛び立とうとしているかのような形だった。

〈『純情』本阿弥書店/1993〉

2015年10月14日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 23[中村草田男]/ 依光陽子


秋の航一大紺円盤の中 中村草田男


印度洋を航行して居る時もときどき頭をもたげて来るのは   秋の航一大紺円盤の中  草田男  といふ句でありました 虚子    (中村草田男『長子』序)

句集『長子』に寄せられた高濱虚子の序文だ。印度洋航行という豪快な気分は残念ながら共有できないが、仮に伊豆七島を航行する東海汽船の船上であっても掲句の爽快感は十分味わえる。誰もが一読、胸がすくような爽快感と開放感を覚え、澄みきった空の下、真っ青な海原を進む船と丸みを帯びた水平線がイメージされるだろう。草田男の句の中で特に好きな句だ。

しかしそれだけの句だろうか、と立ち止まる。

私は二つの海を思い出していた。
一つは映画『永遠の語らい』(マノエル・ド・オリヴェイラ監督 2003)の海。
もう一つは映画『惑星ソラリス』(アンドレイ・タルコフスキー監督1972)の海。

前者はポルトガル人の母娘が歴史的遺跡を辿りながら夫の待つボンベイへ船旅を続ける。ただ優雅に見えるその船旅は、実は人々が何千年も前から戦争に明け暮れ、収奪と喪失を繰り返していた歴史を辿る凝縮された時間の旅と重なっている。最後は新しい悪の形であるテロの問題が提起されるのだが、人類の愚かさに対する海の美しさが重く心に残り続ける。

後者は海と霧に覆われた惑星ソラリスへ探索へ行った心理学者の眼にした海が、知性を持った「思考する海」として描かれる。心理学者はソラリスを前に自問する。「人は失いやすいものに愛を注ぐ。自分自身、女性、祖国…。だが人類や地球までは愛の対象としない。人類はたかだか数十億人、わずかな数だ。もしかすると我々は人類愛を実感するため、ここにいるのかも」

勝手な連想だ。だが、この句の前後に航海の句はなく、虚子の船旅に際し贈った句かどうか前書もないのだから鑑賞は自由だろう。草田男が哲学、わけてもニーチェに傾倒していたこと、求道的な句が散見される事を鑑みるに、掲句はニーチェの「遠人愛」的視点とも受け取れるし、人類の背負った運命を一つの航海に重ね描いたオリヴェイラの問いかけへ想が飛ぶ。また、タルコフスキーがソラリスの海に表わそうとした「人類愛」とも結びつくのだった。「一大紺円盤」の海。掲句が夏の航ではなく、秋の航ゆえに地球上の一存在としての自己を強く意識する。

併せて句集『長子』の跋文の次の言葉も引いておこう。

<私は、所謂「昨日の伝統」に眠れる者でもなければ、所謂「今日の新興」に乱るる者でもない。縦に、時間的・歴史的に働きつづけてきた「必然(ことはり)」即ち俳句の伝統的特質を理解し責務として之を負ふ。斯くて自然の啓示に親近する。横に、空間的・社会的に働きつづけてゐる「必然」と共力して、為すべき本務に邁む。即ち、時代の個性・生活の煩苦に直面し、あらゆる文芸と交流することに依つて、俳句を、文芸価値のより高き段階に向上せしめようとするのである>
草田男が虚子に師事したのは27歳。当時としては決して若いスタートとは言えない。第一句集『長子』で俳句作者として生きる決意をした後、草田男の句がどのように展開していったのか、以前とは別の角度から読めそうな気がしている。


つばくらめ斯くまで竝ぶことのあり
おん顔の三十路人なる寝釈迦かな
負はれたる子供が高し星祭
蟾蜍長子家去る由もなし
夜深し机上の花に蛾の載りて
手の薔薇に蜂来れば我王の如し
六月の氷菓一盞の別れかな
蜻蛉行くうしろ姿の大きさよ
貌見えてきて行違ふ秋の暮
山深きところのさまに菊人形
冬の水一枝の影も欺かず
あたたかき十一月もすみにけり
降る雪や明治は遠くなりにけり

(『長子』昭和11年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)



~およ日劇場~  youtubeより



Um Filme Falado (2003)
映画『永遠の語らい』(マノエル・ド・オリヴェイラ監督 2003)




 

映画『惑星ソラリス』(アンドレイ・タルコフスキー監督1972) 予告編
http://www.imageforum.co.jp/tarkovsky/wksslr.html



2015年10月9日金曜日

黄金をたたく23 [杉山久子]  / 北川美美



秋天やポテトチップス涙味  杉山久子

ポテトチップスは身近な乾き物(といってよいのか)である、口淋しいときにポテトチップスが小腹を満たしてくれる。こだわりのある作者であれば、ポテトチップスの新作味は相当試されているのではないかとすら想像できる。男梅味、夏塩風味、BBQ、コンソメパンチ、のりしお…etc. 最近は地域限定やら、季節限定やらで、日本のポテトチップス浸透も相当なもので国民的乾き物の地位を獲得している。

因みに筆者は、英国好みゆえに、ソルト&ビネガー(カルビーでは、フレンチサラダとなっているが酢が効いている味。あるいは“スッパムーチョ”でも代替えが効く。)が無性に恋しくなる。形状では、高級志向の厚切りポテトチップスはどうも好かない。パッケージデザインで買ってしまうポテチもある。フラ印のポテトチップスである。こんな感じです。(http://matome.naver.jp/odai/2139312140924061501


作者も筆者同様、きっとどんなときにもポテトチップス、通称ポテチが欠かせない存在で、コンビニに行って買う気もないのに手に取って買ってしまうのではないか、その境遇に共感するのである。ポテトチップスは、この国ならではの通称:ポテチに成長したのだ。

さて作者はこれを、秋天にポテトチップスを口にして、それを涙味としている。どんな時も小腹が減るのである。喜びに似た飲食という行為が一転して涙の味を感じるというのが人間の心理の複雑性を孕んでいるかのうようである。失恋かもしれない涙、もしかしたら昔の恋を思い出している涙なのかとも想像できるのだが、それをポテトチップスの味に仕立てているのが爽やかである。


<「泉」ふらんす堂2015所収>

2015年10月8日木曜日

人外句境 21 [和田誠] / 佐藤りえ



人形も腹話術師も春の風邪  和田誠

腹話術師の男が手にした人形に語りかけている。どうしたんだい、きみ、何やら声が風邪っぽいじゃないか。そういうあんたこそ、鼻がつまっているんじゃないか。

簡単にいってしまえば、あたりまえのことである。腹話術師が風邪っぴきだから、人形の声も風邪声になる。

一人のひとの春風邪が、人形とひとの会話という空間で見せられる。話者がほんとうはひとりであることを知りながら見る、腹話術の空間はモノローグとダイアローグの中間のようなものだと思う。
さかのぼると、腹話術は神託、呪術といったものと縁深いことがわかる。声の拠り所として人形が使われるようになったのは、腹話術の歴史においては最近のことであるらしい。

掲句では、人形と腹話術師が列挙されているからか、彼らが等しい存在のようにも見える。友人同士、兄弟同士が同時に熱を出す、みたいな雰囲気がある。

〈『白い嘘』梧葉出版/2002〉

2015年10月5日月曜日

またたくきざはし4  [大井恒行] / 竹岡一郎




夕べ泪朝歓声のナミアゲハ     大井恒行



一読、「朝に紅顔夕べに白骨」を思わせる。和漢朗詠集によっても蓮如上人の白骨の御文章によっても有名であり、平家物語の冒頭、「祇園精舎の鐘の音」にも通じる。

掲句が平家を連想させるのは、ナミアゲハにもよる。平家の一般的な家門は、並揚羽を図案化した揚羽紋だからだ。

仮に上五中七が「朝紅顔夕べ白骨」なら、面白くもなんともない。もう一ひねりして、傍観する如く人生の虚しさを観ずる心情を詠って、「朝歓声夕べ泪」としても、まあ普通の感慨である。

掲句の眼目は、先ず夕べの感慨を出し、次に朝の高まりを掲げたところにある。諸行無常など判り切っているのである。戦いは破れ、正義は滅び、昂揚は失われ、人は衰える。心静まる夕べには、涙する事もあろう。だが、朝になれば、日の昇るごとく再び歓声を上げる。無常は充分承知の上で、歓声を上げる。つまり、「朝紅顔夕べ白骨」或いは「朝歓声夕べ泪」なら、良く言えば客観、悪く言えば傍観者の感慨であるが、「夕べ泪朝歓声」は、当事者の主観である感慨であり、無常に抗して立たんとする気概である。

平家物語が遂に負ける戦いへ進んでゆく平家一門への鎮魂歌である事を思い、並揚羽が日本のどこにでもいる普通の揚羽ゆえに「並」がついていることを考え、更に作者が団塊の世代であり全共闘世代でもある事を鑑みるなら、あの日本中を席巻した全共闘の戦いは最初から負けるに決まっていたのである。

全国遍くどんなに頭数を揃えようと、普通の学生が、時の権力に勝てる訳がなく、ましてや海の彼方の不敗の軍事大国に勝てる訳がない。それでも自分たちの為し得るあらゆる手段を模索した。そして夕べのたびに自らに疑問を抱き、虚しさを感じて密かに涙した。朝になれば、性懲りもなく、歓声を上げた。それはひとえに若さという生命力のなせる業であった。生命力それ自体が、正義を、自由を盲目的に求めるのだった。

掲句は、先ず上五において沈潜し、次に中七において昂揚し、下五に至って普遍性を、ナミアゲハのごとく普通に遍く存する事を求めるのである。これは全体主義の枷にではなく、個人主義の自尊に期する姿勢である。そして全共闘の敗因も恐らく、その個人尊重の姿勢にあったのであろう。だが、それゆえにその精神はサブカルチャーの核の一つとして、現在広く融け込んでいる。ナミアゲハの如く、日本全国どこにでも各々の個人性の中を、普通にあまねく自由に舞っているのである。

<角川「俳句」2015年7月号「無題抄」より。>