-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
2017年9月15日金曜日
超不思議な短詩219[糸井重里]/柳本々々
フライングマンは「古池や・蛙飛び込む・水の音」なんです。 糸井重里
名作RPGと言われる『MOTHER』をつくった糸井重里さんがインタビューのなかで『MOTHER』を俳句と関連づけながら語っている。『MOTHER』と俳句という取り合わせは意外だったのだが、しかし考え直してみると、『MOTHER』の説明過少な朴訥で〈無口〉な語り口には、たしかに俳句と通底しているところがある。
セリフは、ひらがなで作りましたから。声に出して、そのまま耳に響く音として、自分で受け止め直して、反響させてみて「これは違うな」と思うなら消す。原稿書きのように、自分でひたすら推敲していました。だから、敢えて言うなら俳句ですよね。「古池や・蛙飛び込む・水の音」って俳句には「だからどうした?」ってリアクションをしたくなりますよね。古池があって、蛙が飛び込んだ? 水の音がしたんだ? それはどんな音だった? ポチャンと音がしたのか、しなかったのか。自分にマイクを突きつけられたような、コール&レスポンスがあると思うんですよ。
(糸井重里『ゲームの流儀』)
また『MOTHER』と〈写生的認識〉のかかわり合いをめぐるこんな記述も見逃せない。
糸井重里の作り出した劇中人物に「~じゃ!」というおじいさんは出てこなかった。ゲームシナリオに自然主義的写生文を持ち込んだわけで、決まり文句で構成する古典の手法は音楽同様に否定されている。
(『別冊宝島 決定版! 僕たちの好きなTVゲーム』)
任天堂から『MOTHER』が発売されたのは1989年。プラットフォームとなるファミリーコンピュータ発売の1983年の6年後に発売された。この間には『スーパーマリオブラザーズ』や『ファイナルファンタジー』『ドラゴンクエスト』など後々までそのブランドを維持していくゲームが発売されている。
糸井さんは俳句の「だからどうした?」性を『MOTHER』のなかに持ち込んだというが、そもそも過少な容量で広大な物語世界を表現するドットをベースにしたファミコンには、そもそもの「だからどうした?」性があった。
たとえば今でも『マリオメーカー』でプレイできる初代ファミコンマリオ。クリボーとはいったいなんなのか、なぜクリボーにふれただけで死ぬのか、死ぬといってもマリオはいったい画面外のどこにいくのか、マリオにとって命とはなんなのか、穴に落ちるとなぜ死ぬのか、穴に落ちて死んだのになぜ陽気な音楽がかかるのか、キノコを食べるとなぜ大きくなるのか、なぜキノコがブロックのなかにあるのか、キノピオは食われるキノコをどう見ているのか、花を食べて火を放つのはどういう仕組みなのか、なぜクッパは何体もいるのか(クリボーやノコノコがクッパに化けているから)、或いはなぜクッパはたびたび自ら出向いてくるのか、なぜクッパはマリオがぎりぎり自らのもとまでたどりつけるようコースをつくってあげたのか、ピーチとキノピオの関係はどうなっているのか、この国の〈種差〉のありかたは? ピーチ姫はさらわれている間何をして過ごし生きていたのか、食べ物や排泄はどうしていたのか、助けにいけないままだとどうなるのか、クッパはピーチをどうしたかったのか、なぜマリオはおじさんなのか。
これらはほとんど説明されることなく、プレイヤーはプレイのなかに投げ込まれていく。しかし大事なことはそうした不条理をドットという過少な表現が支えていてしまったことにあるように思う。こうしたゲームへ投げ出されながら、プレイしていくなかでリアリティを確保していく様子は、定型に投げ出されながらその定型のなかでリアリティを確保していくようすに似ている。とりあえず・やっていくこと、体験や経験のプレイがリアリティを支えていく。プレイ・リアリズム、というか。
その意味で、ゲームや定型詩のリアリズムとは、《すること》が《すること》を支えていくという同語反復的なゲーム・リアリズムに支えられているのかもしれない(だからゲームをプレイしたことのないひと、定型詩を詠まないひとにはわかりにくい。《プレイ》していないから)。
プレイすることに加えて、もうひとつ大切なのは、というより、糸井さんが強調したのは、足りない部分を補っていく想像力だ。足りないからこそ、補う。
『MOTHER』は、ただでさえ足りない情報量の世界を、テキストにまで俳句的足りなさをもちこむことで、さらに想像力をひきだした。
たとえば『MOTHER』のキャラクターには、「お前は○○なのか?」と聞いておきながら「そうか」と答えるだけの奴がいるんです。そういうぶった切るやり取りが、すごくある。だから、その短い言葉の中に、相手の気持ちを斟酌する“想像力”が必要になってくる。「『そうか』ってどういう意味だよ!」という、単なる三文字の中に、想像力に応じたオマケがついてくるんです。
(糸井重里『ゲームの流儀』)
RPGは世界観を構築するために、またはゲームの容量上制限された視覚情報を補うために、膨大なテキストを用意するが、『MOTHER』はそのテキストをあえて俳句的に〈外し〉ていく。
『MOTHER』にはフライングマンという主人公をかばうだけの、一見強そうななりで、ひ弱なキャラクターがいる。かれらはすぐに死ぬのだが、しかし、寡黙なかれらからは使命感が伝わってくる。俺らが主人公をかばわなきゃ誰がかばうんだと。わたしたちは命を賭けて主人公をかばい死んでいくと。「わたしはフライングマン。あなたのちからになる。そのためにうまれてきた」とかっこいいセリフも用意されている。でも、かれらは弱い。弱いうえに、ゲーム上どうでもいいキャラなのである。だから、おもう。いったいなんなんだ? と。でもその「いったいなんなんだ?」が組成していく世界が『MOTHER』だった。俳句のように。
ゲームの中に「フライングマン」という、勝手に冒険に加わって死んでいくキャラクターが出てくるんだけど、この感想も人によって全然違う。……その人の想像力に応じて、フライングマンが役割を果たすわけで。フライングマンは「古池や・蛙飛び込む・水の音」なんです。リズムが五・七・五ではないのだけれど、問いかけの構造。未完成のものをポンポン置いてあるってのが、僕のテキスト世界じゃないかな。
(糸井重里、同上)
モンスターを駆逐し、父親のようなラスボスを倒し、世界を領土化し、仲間をふやしていく〈完成型〉のRPGが多いなかで、『MOTHER』はそのタイトルから〈父権的〉なものを喪失しており、未完の世界のなかで、未生の赤ん坊をめぐる物語だった。主人公たちが最後に出会うのは赤ん坊であり、その赤ん坊の〈母親〉になれるかどうかが『MOTHER』には賭けられていた。さいごに主人公たちは、〈たたかう〉ではなく、〈うたう〉を選んだ。
ときどき、なんで『MOTHER』は3D化できる機会を失ったんだろうと考える。『MOTHER3』は当初3Dで開発が進められていたのだが結局頓挫し、2Dになった。でも、その〈達成しがたさ〉としての未完のありかたは、マザーっぽいと言えば、マザーっぽい。マザーというゲームは、くじけること、たたかわないこと、無意味なこと、いちごとうふ、意味不明なこと、素朴なこと、あたたかいこと、いきてゆくことを考えさせてくれる。
『MOTHER』は1989年というバブル・カルチャーが終わりに向かってゆく年に発売された。もう後5年で1995年という〈世界の終わり〉をサブカルチャーが描くような変わり目の年がくるのだが(新世紀エヴァンゲリオン・オウム真理教事件・阪神淡路大震災)、その5年前にこうした淡々とした俳句的世界観のゲームがあった。
人生はゲームよ。休んだり戻ったりも大事よ。
(『MOTHER』)
(『ゲームの流儀』太田出版・2012年 所収)
2017年8月30日水曜日
続フシギな短詩188[神野紗希]/柳本々々
コンビニのおでんが好きで星きれい 神野紗希
川柳と「好き」「逢う」「密会」の話が出たので、この句をとりあげてみたい。私は神野さんのこの句をはじめてみたときから、なんだかこの句に俳句のあたらしい秘密があるような気がして、ことあるごとに思い出しては、考えてきた。というか、俳句なのに「好き」という言葉があったのが、とても衝撃的だったんだとおもう。もちろん俳句に「好き」という言葉はでてくる。かつてとりあげた池田澄子さんの句、
屠蘇散や夫は他人なので好き 池田澄子
ここにも「好き」があるのだが、「夫は他人」と言う認識によって、また「屠蘇散」という薬の季語によって、「好き」の位相はズラされている。ここには、ベタッとしたままの「好き」はない。夫は他者であり、季語も他者である。
神野さんの句の面白いところは、句のなかの「好き」が〈ほんとう〉に「好き」なんじゃないかと思うところだ。この語り手は「コンビニのおでん」がほんとうに「好き」なんじゃないかと。しかもここにはなんの他者もいないんじゃないかと。そう思われるのが、「コンビニのおでんが好きで」の後に続く「星きれい」だ。この語り手は、「コンビニのおでん」がためらいなく好きなひとで、かつ、「星」がためらいなく「きれい」だとおもうひとだ。
この助詞の「で」をどうとるかは実は難しいのだが、ひとつ言えることは、「コンビニのおでんが好き」という感情=内面と「星きれい」という風景が助詞「で」によってためらいなく等価につながってしまうということである。つまりここにはその「で」という連絡=接続を阻止する他者はいないのだ。
ただもっと面白いのが、そうした他者を埋め込まない句によって、句そのものが〈他者〉を呼び込んでくるところである。たとえば、「コンビニ」と表記するか「コンビニエンスストア」と表記するか(俳句の書記意識をめぐる問題)、ほんとうに「コンビニのおでん」をおいしいと思うかどうかもっとちゃんとしたところで食べたい(俳句をめぐる階層的問題)など、この句そのものが「コンビニのおでんが好きじゃなくて星もきれいじゃない」と思うような〈他者〉を呼び込んでくる(俳句の《そもそも》をみんなが考えはじめてしまう)。
とすると、私がこの句にみた俳句のあたらしい秘密は、この句が、たまたまそういう俳句の臨界のようなところに、ふっと身をおいてしまったことにあるのではないかとおもうのだ。でもそういった臨界の俳句は、他ジャンルの他者に呼びかけてもいく。えっこんな俳句があるの、と。なんでだろう、と。そもそも俳句ってなんだったのか、と。自分が知らないうちにずいぶん古池蛙から遠くなってる、と。
この国で、わたしが眠るのと地続きの地面で、これからも生きて、働く、それがむくわれてあなたは幸せになる。絶対に。ねえ、これまでのようにこれからも、ときどきでいい、たいせつな、日本語で、わたしに話しかけて。わたしはそれ以上、なんにも望まない。
(岡田利規『現在地」)
ただ私は同時に現代の〈かえるの飛び込む水の音〉はこんなところにあるような気もしている。なにも考えずに、あえて意図的に意識をもたずに、無意識のなかで、じぶんの生活意識を〈録音〉した場合、ふっとこのような意識を録音できてしまうのではないだろうか。ああなんかほんとこれおいしいのかよと思って買ったけどコンビニのおでん意外にめっちゃおいしいしなんかふっと帰り道空みあげたらなんかなんていうかめっちゃつきぬけたように星きれいだったしなんかいいこともわるいこともなんにもないけど明日もまたコンビニのおでん帰り道買おうかなソーセージなんかもあれ入ってたよなおでんなのにソーセージってなんなんあれになんかいろんなものを吸わせてるのそのなんかおでんの養分みたいなうまくいえんけどなんかきづくとあれめっちゃ星、と。それが現代の意識の水の音のような気もしている。直感だけど。
でも、意識に、実は、他者はいらない。他者は意識を阻害するので。他者は、その句の、外にいて、外からやってきて、たえずその句にふれればいいのだ。だから、気になって、なんどもこの句に帰ってくる。わたしもよく思い出す。毎日、コンビニにいくので。あのひと毎日コンビニにくるよなあとおもわれてるしそれはそれでぜんぜんいいって中腰でお餅の入ったグラタンとか手にしながらおもうし、それにコンビニはぜんぜん滅びるようすはないし、おでんも毎年絶対にわすれないアニバーサリーのようにやってくる。なんかわたしが気にかけなくてもおでんはむこうからわたしの意識のなかにやってくるし意識いじくるし、なんか、あの、わたしたちの意識は、コンビニやおでんや帰りになにげなくみあげた星にあるような気もしているし、なんかいまや、古池の意識作用は、コンビニにあるのではないだろうかと思うし、なんかめっちゃ思うし、なんか。
ともかくむかしむかし、天から降り立ったコンビニな、それが変えたんだよ人類を。人類を、深夜小腹減ったって問題から救った、それから、夜道暗くてこれ心細いぞって問題からも救った、くわえて、どこでバイトしたらいいんだ問題、僕のわたしのバイトできるとこありません問題からも救った、ようするに、人類のすべての問題を、コンビニは解決したってことだ!
(岡田利規「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」『悲劇喜劇』2015年1月)
(『光まみれの蜂』角川書店・2012年 所収)
2016年9月16日金曜日
フシギな短詩41[松尾芭蕉]/柳本々々
古池や蛙飛(かはづとび)こむ水のおと 松尾芭蕉
松尾芭蕉がゾンビになったらどういう俳句を詠むんだろうと考えたことがある。
というのはかつて俳句とゾンビをめぐって書いてみたことがあるからだ(参照、拙文「【ぼんやりを読む】ゾンビ・鴇田智哉・石原ユキオ(または安心毛布をめぐって)」『週刊俳句』 )。
松尾芭蕉がゾンビ化した地点から俳句を考えてみること。たとえばゾンビ芭蕉が上の「蛙」の句を詠むとしたらどう〈変わる〉だろうか。「蛙」の句は、濁音いっぱいの意味不明な俳句になるのだろうか。
もし過去のわたしのそうした問いかけに、現在のわたしが、今、あえて答えてみるならばこうではないだろうか。
「いいや、なにも変わらない。《そのまま》だよ」
芭蕉はゾンビになっても、くちたくちびる、ぼろぼろのゆび、うろのような眼で、まったくおなじかたちの、
古池や蛙飛こむ水のおと
を詠むのではないか。
思想家の中沢新一さんがこのあまりにも有名な芭蕉の「蛙」の句のなにが新しかったのかということについてこんな説明をしている。
この句の特徴は、「圧縮の効果」がまったく働かないように、つくられているところにある。イメージの共通性や音価の同一性によって、意味の場に過剰接近や短絡やひきつりがおこり、その歪みをとおって、なにかすばやい流動的なものが、意識の中に浮かび上がってくるような、それまでの俳句特有の機知やユーモアが、すこしも効いていない。……
芭蕉の創出した俳句という芸術は、…人間主義の底部をぬいてしまう、革命をおこなったのである。…比喩が働きだすことをできるだけなくして…、言葉と現実とが、あいだに想像的な媒介物をなにもいれることなく、裸の状態で、行ったり来たりを実現する、そういう言葉の、新しい機構を作りだそうとした。それが、芭蕉のおこなった革命なのだ。……
芭蕉の俳句の世界は、閑寂で、ものさびている。そこに描かれている自然も、人の世界も、すこしも生産的であるようには、感じられないのだ。
(中沢新一「人間の底を踏み抜く」『日本文学の大地』角川学芸出版、2015年)
つまり中沢新一さんにならって言うなら芭蕉が行った革命とは、俳句に〈ないない尽くし〉を持ち込むことだったと言っていい。言語の剥き身を、言語の粘膜のような裸をそのままにさらけだすこと。
この〈ないない尽くし〉をゾンビ(映画)の特徴として指摘したのは、哲学者の小泉義之さんである。
ゾンビ映画のキモは、無い無い尽くしにある。ゾンビは生きても死んでもいない。男でも女でもないし白人でも黒人でもない。支配者でも被支配者でもない。主体でも対象でもない。ゾンビは二分法を横断するのでも攪乱するのでもなく、端的にどちらでもないのだ。したがって、ゾンビは順応するのでも抵抗するのでもない。ゾンビは生物でも怪物でも機械でもサイボーグでもない。ゾンビは増殖するにしても生成変化することも進化することも退化することもない。ゾンビに未来はない。サヴァイバーもそのうち死ぬだけである。ゾンビ映画にはいかなる解決もカタルシスもない。ゾンビ映画に対してはいくらでも解釈や批評は加えられるとしても、ゾンビ映画のキモは、現代思想がエンドゲームにしかならないと告げているところにある。
(小泉義之「デッドエンド、デッドタイム」『ユリイカ』2013年2月)
私はこの小泉さんの言葉の「ゾンビ」に「俳句」を置換しても実はそんなに違和感がないのではないかと思う。つまり、「俳句は順応するのでも抵抗するのでもない。増殖するにしても生成変化することも進化することも退化することもない。俳句にはいかなる解決もカタルシスもない。俳句のキモは、現代思想がエンドゲームにしかならないと告げているところにある」。なぜなら、芭蕉が俳句を〈ないない尽くし〉のものとしてゾンビ化したから。
その意味で、芭蕉とは、ゾンビそのものだったのではないだろうか。
もし俳句がゾンビに近い形式であるならば、かつて『スピカ』に連載された石原ユキオさんの「HAIKU OF THE DEAD」を私たちはもう一度ちがったまなざし(俳句ゾンビ的まなざし)で読み直してもいいように思う。そこには俳句とゾンビが遭遇し、お互いがお互いを侵食する過程が描かれている。そして最終的にお互いがお互いのボディを食らいつくし、それは、次のたった一音=無音として結実するのだ。音ですら《無い》芭蕉ゾンビ化された音として。すなわち、
۵ 石原ユキオ
(「HAIKU OF THE DEAD」『石原ユキオ商店』 )
(「人間の底を踏み抜く」『日本文学の大地』角川学芸出版、2015年 所収)
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