2022年11月18日金曜日

DAZZLEHAIKU66[松王かをり]  渡邉美保

 秋の浜海は巻かれて貝の中   松王かをり


 夏の間、海水浴などで賑わった浜辺も、秋風が吹くころになると、人影も少なくなり、寂しい浜辺になる。目の前に広がる砂浜の少し遠くに、澄んで爽やかな海が光っている。引き潮の刻である。満ち潮の刻の水量豊かな海は、「巻かれて貝の中」という把握が愉快だ。

 野球場で雨が降った時にグランドにかぶせる大きな銀色のシートのことが、ふと浮かんだ。雨が上がり、ゲーム再開という時、銀色のシートは端から大急ぎで巻かれていく。シートは、銀色に波打ち、表面についた雨の雫を飛ばしながらくるくると巻かれていく。あの光景を思い出す。

 巻かれた海は、なんと貝の中に入っているという。貝に吸い込まれる海と、海を吸い込む貝。時空を超えた魔法のような展開。貝の中に入った海は、貝の中で徐々に膨らみ、広がっていくだろう。貝の中にもう一つの世界が生まれ、新たな海となる。そして世界は反転する。

〈『現代俳句』11月号(2022年/現代俳句協会)所収〉

          


2022年9月12日月曜日

DAZZLEHAIKU65[花谷 清]  渡邉美保

九月が好き崩れる雲が速いから   花谷 清


  九月に入っても、まだ暑い日が続くなか、見上げる空は、青空半分、雲半分の空模様。青を背景に白くモコモコした雲が浮かんでいる。一方で、うすい雲が、真綿を引くように徐々に広がっていく。

 暑気、涼気の行き合う空には、夏の雲と秋の雲が混在していて面白い。

 こんな雲の様子を見ることが出来るのは、季節の変わり目の短い間で、まさしく九月なのだと思う。九月になると、空を見上げ、雲の流れを眺めることが増えるような気がする。


 掲句、「崩れる雲が速い」からは、台風の影響で変化する雲の動きも思われる。風の速い流れに従い、形を変えながら移動し、途切れ散り散りになってしまう雲。壮大な天体の、不穏な空気を孕みつつも、次々に崩れてゆく雲の動きに魅了されそうだ。


   〈見つつ消ゆ雲あり秋の雲の中  皆吉爽雨 〉

   〈すさまじき雲の走りや秋の空  政岡子規 〉

   〈颱風の雲しんしんと月をつつむ 大野林火 〉

   〈鰯雲しづかにほろぶ刻の影   石原八束 〉


〈句集『球殻』(2018年/ふらんす堂)所収〉

2022年7月25日月曜日

DAZZLEHAIKU64[白石正人] 渡邉美保

空蟬の覗きをりたる淵瀬かな   白石正人


  空蟬は蟬のぬけがら。また、魂が抜けた虚脱状態の身という意味もある。からっぽの蟬の抜け殻には、ちゃんと目の跡が残っている。淵瀬は淀みと流れ。世の無常をたとえる語でもある。

 コンクリートの壁に蟬の抜け殻がしがみついている光景はよく見るのだが、今朝の抜け殻は少し様子が違う。真っ黒で不透明な殻なのだ。よく見ると、蟬は殻から出ることが出来ず中で死んでいる。

 羽化せんとして、背中のファスナーが開かなかったのか。その黒い塊は、小さいながら不発弾めいていた。

 幼虫期間の約七年を地中で過ごし、地上に出てはみたが、成虫として地上生活を始めることができなかったこの蟬。正確には空蟬とは言えないのだろうが、どんな淵瀬を覗いていたのだろう。

〈句集『泉番』(2022年/皓星社)所収〉

2022年6月9日木曜日

DAZZLEHAIKU63[久保田万太郎] 渡邉美保

  薄暮、微雨、而して薔薇しろきかな   久保田万太郎    


  庭の白薔薇が蕾をつけ始めた。蕾が成長し、花が咲き始めると、あたりには徐々に薔薇の香りが漂う。四分咲きくらいの状態がずっと続けばよいのに、と思うのだが、日差しが強いと、白薔薇はあっという間に開ききり、花びらは崩れるように散ってしまう。或いは、萎れて茶色く錆色になってしまう。花を楽しむ期間は短い。白い薔薇には、薄日の差すくらいがちょうどいい、と思っていたら、掲句に出会った。

 〈薄暮・はくぼ〉〈微雨・びう〉〈而して・しかして〉と続く漢文調に、一見漢詩の一節のような印象を持つが、〈薔薇・そうびしろきかな〉で俳句に着地。斬新な句の形だと思う。

 薄暮、微雨、この二語の名詞が並ぶだけで、読者はたちまちイメージを膨らます。舞台装置が出来上がる。而して「薔薇しろきかな」なのである。

 ここから、どんなドラマが始まるのだろうか。

〈『久保田万太郎俳句集』2021年/岩波文庫所収〉

2022年5月10日火曜日

DAZZLEHAIKU62[遠山陽子]  渡邉美保

  雪柳ざかりや鯉は泥を着て    遠山陽子


  雪柳は、葉にさきがけて、白い小さな花が、柳に似たしなやかな枝に群がって咲く。その盛りはまさに降り積もった雪のように美しい。丈が低いので花をつけた枝は地面すれすれまで垂れている。

 夕暮れの川沿いの道を歩くと、土手の雪柳は風に靡き、「おいで、おいで」と手招きしているように見える。近づけば異界へと引き込まれそうで、少し怖い。

 掲句、今を盛りの雪柳と「鯉は泥を着て」との取り合わせ。雪柳の白は鯉の泥を、また鯉の泥は雪柳の清らかさを互いに際立たせているようだ。

 雪柳の花の下、鯉が浅瀬に集まり、バシャバシャと水音を立て、泥にまみれて揉み合っている様子。春は、草木虫魚、生き物たちの喜びの季節だけれど、愁いの季節でもある。その象徴としての清濁なのかもしれない。

 また、「泥を着て」という擬人化が用いられることで、鯉が人に化身したかのようにも思われてくる。雪のように白く清らかな雪柳の精と、泥を着た鯉の精の出会う幻想的な光景を思い浮かべると、ここから不思議な物語が始まりそうな気配がする。

〈句集『弦響』2014年/角川学芸出版所収〉


2022年4月26日火曜日

DAZZLEHAIKU61[黛 執]  渡邉美保

  海ばかり見て待春の風見鶏    黛 執


 海辺に生まれ育ったものの、現在は海の見えない場所に住んで久しい。

 無性に故郷の海を見たくなることがある。コロナ禍の長引くなかでは、遠出もままならず、海ばかり見ている風見鶏が羨ましい。

 「待春」の本意は「早く春来よと願う心である」という。寒さも峠を越して、あたたかい日が続くようになると、春を心待ちにする気分がいっそう強くなってくる気がする。

 掲句では、風見鶏という、鶏をかたどった風向計が、海ばかり見て春を待っているよと描かれていて楽しい。その風見鶏は春を待つ作者に重なる。読み手もまた風見鶏になり、高台から広い海を見下ろしているかのような気分。

 強い北風が吹きすさぶ、荒れた海を見ることもあるだろう。よく晴れた日の穏やかな海もあるだろう。

 今、風見鶏が見ている海は、まだ寒さはあるが、きらきら光る眩しい海であり、どことなく春の兆しを宿しているに違いない。

〈句集『畦の木』(2009年/角川SSC)所収〉




2022年1月4日火曜日

DAZZLEHAIKU60[井越芳子]  渡邉美保

 山寺の冬空を掃く音と思ふ    井越芳子


  句会の兼題に「思う」が出されたことがある。句会メンバーの一人から異議が唱えられた。俳句は思っていることを書くのだから、句の中に「思う」を入れるのは如何なものかという趣旨だった。わざわざ「思う」を一句の中に入れなくてもよいという意見に一理はあるが、あえて「思う」と言いたい時もあるだろう。

〈妻がゐて夜長を言へりさう思ふ  森澄雄〉「さう思ふ」にとても惹かれる。


 掲句の「思ふ」も然り。〈冬空を掃く音と思ふ〉には、断定ではなく、敢えて「私はそう思う、思いたい」という微妙な心の綾が感じられる。

 山寺という人里離れた静謐な場所。冬空を掃く音とはどんな音なのか、ここには実体がない。けれどもなぜか惹かれてしまうのだ。

 天上の何か大きな存在が冬空を掃く。それが雪空だったなら、掃かれたものはふわふわと真っ白い雪になって地上へ降って来るだろう。その雪の降る音。

 冬空が冷たくからりと晴れているのなら、物みな鮮やかに青く冴えていく音。

 その音は心で聴く音。「そう思う」人のみに聴こえる音にちがいない。

句集『雪降る音』(2019年/ふらんす堂)所収〉