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2018年2月19日月曜日

DAZZLEHAIKU19[岩淵喜代子]渡邉美保


 飴舐めて影の裸木影の塔      岩淵喜代子

 飴、裸木、塔からの連想で、吟行中の一齣を想像した。
 散策に疲れ近くのベンチに腰を下ろす。飴を含み、口中にひろがる甘味にほっと一息をつく。冬空のもと、葉を落とした裸の木々は、枝枝とその蔭が重なり合い、美しい模様を描いている。高く聳え立つ塔は翳りを帯びている。冷えた体から吐く息はほの白く甘い。今眺めている景色は、現実のものであっても、現実のものではないかもしれないという浮遊感。眼前の裸木も塔も、それを見ている「私」も影でしかないのではないか。さびしい季節、実らぬ時間。そして、影を見ていることの心地よさ。
 掲句の、「飴舐めて」のやわらかな動作から導かれる「影の裸木影の塔」の硬質なイメージに惹かれる。


〈句集『穀象』(ふらんす堂/2017年)所収〉

2018年1月16日火曜日

DAZZLEHAIKU17[岩田由美]渡邉美保



   くひちがふあり枯蓮とその影と  岩田由美

冬の日を浴びて、枯蓮は水面にそれぞれの影を落としている。枯れた蓮の茎や葉、朽ちた花托などが残骸のように残っている姿は痛々しいが、青空と枯蓮と、水面に映る影が織りなす造形は現代アートのような面白さがある。
掲句、そんな枯蓮とその影とを一つ一つ確かめている作者を想像すると、なんだか楽しくなってくる。あるはずの影がないぞ、と作者自身も枯蓮の一本になって水鏡を覗いているかのようだ。
「くひちがふ」ところに動きがあり、明るさがある。枯蓮同士がじゃれあっているのかもしれない。作者の自在な眼差しを思う。



〈句集『雲なつかし』(ふらんす堂/2017年)所収〉

2017年12月18日月曜日

DAZZLEHAIKU16[安田中彦]渡邉美保

死にぎはの鯨見にゆく日曜日  安田中彦

何らかの理由により浅瀬や湾などの海浜に、生きたまま乗り上げた鯨のことを座礁鯨、あるいは寄り鯨というそうだ。
どこそこの海岸に鯨が迷い込んできたというニュースをたまに聞くことがある。そういった鯨は、人の手で外海に戻そうとしても生き延びるのは難しく、助かることは少ないそうだ。そして、その鯨を見るために、近隣から多くの人が集まって来るという。なかには自前のチェンソーとクーラーボックスを持参する人もいるらしい。
掲句、「死にぎはの」の直截的な措辞に、気の毒な鯨の事情と、それを見に行く作者の屈折した思いが想像される。
瀕死の鯨の悲しみ、あえてそれを見に行く、やみがたい好奇心、罪悪感。鯨にとっては、生き難くなってしまった地球、そうさせているのは人間なのでは?の煩悶。「死にぎはの」が投げかける意味は深い。



〈句集『人類』(邑書林/2017年)所収〉

2017年11月30日木曜日

DAZZLEHAIKU15[友岡子郷]渡邉美保

   掛け大根より白波の船現るる   友岡子郷

掛け大根の白と白波の白。
一句の中では白い色のみが述べられているが、そこには澄み渡る青い空、遠く広がる青い海原、青を背景にして、白の際立つ光景が目に浮かぶ。冬の冷たい空気の中で、青と白の対比がとても美しく、清々しい。
最近はあまり見られなくなった掛け大根。高々と干された大根の真っ白な列が並ぶ風景は、郷愁を誘う。掛け大根は、寒風にさらすほど甘味が増し、美味しい沢庵ができるという。沢庵を漬けるということが珍しくなった現在、掛け大根の風景は、失われゆく生活の実景の一つだと思う。
掛け大根に視界が遮られているとき、白波を立てて進んでくる船は突如、掛け大根の間から現れる。いつもとは違う光景がユーモラスである。船の音、波の音も聞こえてくる。


〈句集『海の音』朔出版2017年所収〉

2017年10月22日日曜日

DAZZLEHAIKU13[杉山久子]渡邉美保



  縞縞の徹頭徹尾秋の蛇   杉山久子


琵琶湖周辺の里山を歩いているとき「蛇がいる」という声を聞いた。近寄ってみると、縦縞の蛇が草の中に横たわっていた。人の足音や人声にも動く気配がない。ぱっちりと開いた目の周りには、蠅が集っている。その蛇は死んでいた。

掲句、「徹頭徹尾」が意表をついていて、とてもおかしい。頭から尾っぽまで一貫して縞が通っているということだろうか。秋になり動きが鈍くなった蛇が、ゆっくりと縞模様を見せてくれたのかもしれない。

この句の中にあって「徹頭徹尾」は、熟語本来の意味を離れて脱力。縞縞の蛇のためにある言葉のように思われてくるから不思議だ。しかも、この蛇のために使われると、字画の多い四文字の漢字がするするとほどけて、一匹の蛇になってしまいそう。
「徹頭徹尾」が軽やかに弄ばれているようだ。


〈句集『泉』ふらんす堂/2015年所収〉


2017年10月5日木曜日

DAZZLEHAIKU12[山口昭男]渡邉美保



   鎌の刃に露草の花のつてゐる   山口昭男


鎌の刃と聞くとなんとなく心がざわめく。三日月のような湾曲した形と、刃はつねに自分に向かってくるという怖さがある。だが本来、鎌は、草を刈ったり、作物を収穫するために日常的に用いられる農具である。刈った草が刃の上に乗り、そのまま一緒に運ばれて手元まで寄って来るので、効率よく草刈をすることができるという。

一方、露草は道端や畑にはえる一年草。夏から秋にかけて藍色の清楚な花を咲かせる。その清く儚いイメージとは裏腹に、生命力旺盛で、畑にとっては、蔓延すると厄介な雑草である。
容赦なく刈り取られていく雑草、露草。ふと見ると鎌の刃に切られた露草の花が乗っている。農作業の後の(もしくは最中の)見過ごしてしまいそうな光景に目をとめた作者。よく切れそうな鎌の刃と、目の覚めるような瑠璃色の可憐な花。

「鎌の刃に露草の花のつてゐる」ただそれだけで、瑞々しい映像が浮かぶ。美しくも、シュールにも想像できる一句である。
こちらは、さらに残忍(?)な一句
〈露草の瑠璃をとばしぬ鎌試し・吉岡禪寺洞〉


〈句集『讀本』ふらんす堂2011年所収〉


2017年9月19日火曜日

DAZZLEHAIKU11[西原天気]渡邉美保



   空港に靴音あまた秋澄める   西原天気



「空港に靴音あまた」と言われると、素直にそうだと思ってしまう。至極当然のことなのに、はっとするものがある。

秋になり、空気が澄み、遠方の山や木々がよく見えるようになる季節、「秋澄める」である。どこか遠い所へと、旅に出たくなるような、そんな時季、旅の出発点としての空港が目に浮かぶ。
空港の建物の中は旅行客が行き交い、雑多な音もまた行き交っている。一句の中、周囲のさまざまなものは一切省略され、靴音だけがある潔さ。普段はあまり意識しない靴音が、秋の澄んだ空気のなかで、高らかに弾んでいるような気分にさせてくれる。

空港には、空の広やかさがあり、遠くまで見わたせる明るさがある。澄みわたった秋空のなかを、これから飛び立つ旅への期待感が増す。


〈句集『けむり』西田書店2011年所収〉  


2017年9月6日水曜日

DAZZLEHAIKU10[鎌田 俊]渡邉美保



  蚊の仔細眺めんと手を喰はせをり  鎌田 俊


「刺されるのは嫌ですが、近寄ってきたら観察する余裕を持ちつつ、夏を乗り切りたい」という記事を読んだ。もちろん蚊の話。

 蚊のほとんどの種類のメスは、脊椎動物の血を吸うが、それは卵をつくるため。オスもメスも日々のエネルギー源としては花の蜜などを吸っていて、血と蜜が入るところは、体の中で分かれているのだとか。そんな話を聞くと、血を吸いにくるメスの蚊がいじらしく思えてくる。

 手にとまって血を吸っている蚊の様子を観察している姿は、ちょっとおかしく、俳味にあふれている。一句一章のおおらかさ、「手を喰はせをり」の大仰な言い方が効果的である。

 ここには、仔細に眺めた蚊そのものではなく、「手を喰はせをる」人(作者)の人となりが表れている。


〈東京四季出版「俳句四季」2017年9月号〉


2017年9月3日日曜日

DAZZLEHAIKU9[山口昭男]渡邉美保 



月を待つみんな同じ顔をして   山口昭男


 子どもの頃、私の住む町では、十五夜(中秋の名月)に町を挙げての綱引きが行われていた。まだ宵の口から、若者たちが綱引きの綱を担ぎ、何やら叫びながら町を練り歩く。月が上ったら、通りの真ん中で、隣接する地区同士で綱引きが始まる。綱引きの中心になるのは若者達だが、町中の老若男女、子供たちも参加する。手の届かない子供たちは、綱に細いロープを掛けてもらい、それを必死に引っ張るのだ。
 豊漁の神と豊作の神の対戦とかで、豊漁が勝つか、豊作が勝つか綱の引き合いとなる。やがて綱が二つに千切れることで引分けとなり、豊漁、豊作の両方がめでたく確定する。空には満月が煌々と輝いている。夢の中の出来事のような、遠い日の光景を思い出す。
 月の出を待つみんなは、同じ顔をしていた。

  つきの ひかりの なかで
  つきの ひかりに さわられています
  つきの ひかりに さわられながら


      (まどみちお詩集「つきのひかり」より抜粋)

〈句集『木簡』青磁社2017年所収〉 


2017年8月31日木曜日

DAZZLEHAIKU8[山口昭男]渡邉美保



  先生の言葉少なき茂かな  山口昭男


 夏の頃の樹木の盛んに茂っているさまはすさまじい。ことに夏山の茂りは日も差さず、枝葉にすっぽりとおおい隠されて、中がうかがい知れないような繁茂のしかたである。新緑の頃のような明るさもない。
 茂りの中を一緒に歩いている先生が言葉少なくなり、だんだん無口になる。先生は作者が敬愛し、師事する大切な先生なのだろう。「言葉少なき」先生とそれを諾う作者。師弟間の信頼の深さや、先生への傾倒ぶりがうかがえる。
 先生の言葉が少ないことで周囲の静けさは増し、茂りの質量もふえていく。鬱々と茂る草木の量感と熱気に圧倒されそうである。
 茂りの中に、先生の語られない言葉が満ちてくる。そして、それを享受する作者。そこには、言葉のいらない充足感のようなものが感じられる。微かなエロスの香りもまた。


〈句集『木簡』青磁社2017年所収〉

2017年8月22日火曜日

DAZZLEHAIKU7 [櫂未知子] 渡邉美保



簡単な体・簡単服の中     櫂未知子


ある日、母が「缶詰の服」なるものを買ってきた。缶から出てきた服は、一枚の布を筒状に縫い合わせただけのような簡単なものだった。母が着て、付属のベルトを締めると、あら不思議。服は体に添い、ちゃんとワンピースになっていた。妙に感心したことを思い出す。
〈簡単な体・簡単服の中〉のシンプルな語句の並列は、風通しがよく、涼しさを誘う。「簡単服」というレトロなニュアンスの季語が使われながら、とてもモダンである。
「簡単服の中」には「簡単な体」が入っているという発見は、どこか逆転していて、楽しい。簡単服の中の体、ついには、一本のチューブになってしまうのではないだろうかと心配になってくる。


〈句集『カムイ』2017.6 ふらんす堂 所収〉


2017年7月20日木曜日

DAZZLEHAIKU6[長谷川晃]渡邉美保



夜半の夏畳の縁を獏が行く   長谷川晃


初めて動物園のバクを見たとき、「これが夢を食べる動物なのか」と妙に感心した。しかし、動物園のバクと「悪夢を食べる霊獣」の獏とは別物であるらしい。
小さな目と間延びした鼻(吻)、奇妙な格好のこの動物は、本来、森林ややぶで暮らし、薄明・暮時に活動、草や芋、果実を食べるが、近年、絶滅の危機にあるという。
さて、掲出句の獏、「夜半の夏」「畳の縁」とくれば、やはり、悪夢を食べる獏なのだろう。とはいえ、映像としては、動物園のバクの姿が浮かぶ。
真夏の夜ふけ。夢なのか、夢から覚めた瞬間なのか、現実と夢の間に畳の縁を行く獏を見た。獏は何処へ行くのだろう。想像上の霊獣と言われる獏であれば、畳の縁が、異質な世界からの通路になっているかのようで、「畳の縁を行く」という表現に妙にリアリティを感じる。
悪夢を食べてくれる獏には、どこへも行かず、ここにとどまって欲しいものである。これから見るかもしれない悪夢を食べてもらいたい。悪夢は夜ごとに増えていく。


(句集『蝶を追ふ』邑書林2017年所収)

2017年7月3日月曜日

DAZZLEHAIKU 5 [長谷川晃]渡邉美保



梅雨真中抜いた歯根の長きこと  長谷川晃


虫歯のせいなのだろうか。痛み出した歯はついに抜くことになる。口の中にある時は歯根のことなどあまり意識していないが、歯の下に隠れている歯根は予想外に長い。抜いた歯を医者に見せられた時の、ちょっとした驚きと屈折。この歯根が歯を支えていたのだという感慨もあったかもしれない。
「梅雨真中」という季語から、この季節特有の鬱陶しさが、歯痛の鬱陶しさを増幅している。
「抜いた歯根の長きこと」しか述べられていないが、歯根の形を思い浮かべると、少しおかしく、少し切ない。そして、歯を抜くに至るまでの疼きや、抜かれる時の緊張感、抜いてしまった後の喪失感(たとえ歯の一本といえども…)や悔恨など、もろもろの思いが想像される。口中には、抜歯の際の麻酔のしびれが、まだ残っているにちがいない。


〈句集『蝶を追ふ』2017・5邑書林収〉

2017年6月14日水曜日

DAZZLEHAIKU4 [森澤程]渡邉美保



鯉跳ねる音の数秒夏銀河  森澤程


あっ鯉が跳ねた。その一瞬の水音を聴きとめたとき、作者は何をしていたのだろうか。どこにいたのだろうか。いろいろなシチュエーションが考えられる。どんな場合であれ、その数秒間の水音は、確かなものであり、夏の夜の静けさと、鯉の存在を浮かび上がらせる。澄んだ大気の中、空には銀河がゆったりと広がっている。
「鯉」と「夏銀河」の組み合わせにより、空間は一挙に広がりと奥行きを持ち始める。「鯉」から「銀河」への飛び方は、一見唐突なようで、どこか繋がっている。
鯉の跳ねる水音を聴いたその刹那、作者は銀河のほとりに立っていたのかもしれない。無数の星々がばらまかれた広大な銀河。その中で鯉が小さな点となって泳いでいる光景。鯉の寂寥感は、それを見ている作者の寂寥感でもあるだろう。


  鯉を抱く夢のつづきの夏の水

  真夜中の方から来たり錦鯉

  小雨から緋鯉の模様抜け出しぬ


いずれも同句集中の鯉の句。現実と異空間の間を行き来している鯉の姿は美しく、寂しげだ。


〈『プレイ・オブ・カラー』2016.10 ふらんす堂〉

2017年6月3日土曜日

DAZZLEHAIKU3 [恩田侑布子]渡邉美保



驟雨いま葉音となれり吾(あ)も茂る   恩田侑布子


新緑の季節から夏へ向って、樹木は枝葉を伸ばし、緑を押し広げてゆく。繁茂した緑の深さはエネルギーに満ちている。そんな季節の中、突然降り出した雨。驟雨は、急にどっと降り出し、しばらくすると止んでしまう雨である。

「驟雨いま葉音となれり」の一瞬の切り取りが、雨の勢いやスピードを実感させてくれる。

葉音となった驟雨は、作者の聴覚を通して、五感を刺激し、覚醒を促す。驟雨は作者の内部にも降ってくる。身体はすみずみまで潤い、緑に染まる。そして内部は外へ反転する。

樹木と吾は一体となり繁茂する。「吾も茂る」のだ。生命の源のような力を得て。
葉音はいつしか風の音を含んでいるだろう。

 〈句集『夢洗ひ』2016・8角川書店 所収〉

2017年5月24日水曜日

DAZZLE HAIKU 2 [岡田耕治]渡邉美保



帰らない人たちと居て春の山  岡田耕治


「春の山」というとき、まず明るい日差しや、芽吹く木々、鳥の囀りなどを思い浮かべる。反面、「春の山」という広い空間には、明るい日差しとは別の深い闇も内包されていて、どこか不思議な空気が漂う。

 その春の山に、「帰らない人たち」といる作者。自分の心の中にはいつもいるけれど、もういない人たち。自分の人生に深く関わった大切な人である。いま確かにここに一緒にいる、と実感できる瞬間。「帰らない人たち」の存在感がクローズアップされる。それが春の山の持つ力であり、「居て」という言葉の力ではないだろうか。

この句のシンプルな力強さに惹かれる。

 年齢を重ねていくにつれて、人は「帰らない人」を増やしていく。その感懐の深さが、春の山に呼応しているような気がする。


<句集『日脚』邑書林2017年所収>

2017年5月3日水曜日

DAZZLE HAIKU 1 [安倍真理子]渡邉美保



浮きあがる水平線や種袋 安倍真理子

              
 穏やかな春の日差しを反射して、海はきらきら光っている。遠くの水平線は、徐々に膨らみ、浮き上ってくるように見えることがある。

 そこに置かれた「種袋」という季語の意外性。この種袋は、花屋に並ぶカラフルな花の種袋ではなく、畑で農作物を植えるための種の入った武骨な種袋。春の訪れとともに始まる農作業を象徴している。種袋の中で、種子は、開花や収穫の期待感に大きくふくらみ、ひしめき合い、ざわめいているだろう。

 海の見える畑の、農作業の明るさや喜びが伝わってくる一句である。


<東京四季出版「俳句四季」2017年4月号>