-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
2017年10月13日金曜日
超不思議な短詩239[野口る理]/柳本々々
チャーリー・ブラウンの巻き毛に幸せな雪 野口る理
前にも書いたが、俳句とは、世界のアクセスポイントをさぐる試みでもあるのではないかと思っていて、たとえば、
おおかみに蛍が一つ付いていた 金子兜太
本の山くづれて遠き海に鮫 小澤實
「おおかみ」と「蛍」のアクセス・ポイント、「本の山」が崩れる瞬間と「鮫」のアクセス・ポイントなどがこれまで名句として発見され引用されてきた。俳句は、ただ、アクセス・ポイントを、提出する。こういうアクセスが、そのときありました、ということを(あるいは、アクセスしてしまいました、ということを)。
関悦史さんにこんな句がある。
内臓のひとつは夏の月にかかる 関悦史
ここでは「内臓」が「夏の月」にアクセスしている。「夏の月」という〈清潔〉そうなものに「内臓」が「かか」り、血みどろにしてゆく(海外ドラマ『ウォーキング・デッド』ではゾンビ避けのために登場人物が死体の内臓をぶらさげてあえて死臭を放ちながら歩くシーンがあった)。
冬の季語「おおかみ」に夏の季語「蛍」がアクセスし神話的な時間に、「本の山」の「くづれ」に「遠」い「海」の「鮫」がアクセスし可傷的瞬間に、「内臓」に「夏の月」がアクセスしプレーンなものが血みどろになるサブカルゾンビ的侵犯の時間に。
じゃあ、野口さんの句ではどうだろうか。
私はかつてもこの句を考えてみたことがあるのだが、「チャーリー・ブラウン」というマンガ・アニメの身体が、「巻き毛」という記号の線から実体を伴った「毛」を手に入れ、さらにその「毛」に「雪」がのることがこの句のアクセス・ポイントになっているのではないかと思う。
マンガ・アニメのチャーリー・ブラウン(線の記号的身体)
↓
巻き毛という毛をもったチャーリー・ブラウン(毛をもった実質的・脱キャラクター的身体)
↓
雪がちゃんと毛のうえにのるような巻き毛をもったチャーリー・ブラウン(モノの身体としてのチャーリー・ブラウン)
雪が毛の上にのるということは、その毛はモノであり、いつかは抜けるということでもある。抜けるということは、このチャーリー・ブラウンの身体は、やがては、老いて、死んでゆくということでもある。この「幸せな雪」の「幸せ」とはそういう身体をもちながらも、それでも〈いま・ここ〉の時間を「幸せ」と感じることのできることをあらわしている。
だからここでのアクセスポイントは、チャーリー・ブラウンが〈老いる身体〉と出会ったというそのことにある。それでも、その〈老いる身体〉のうえに、「幸せな雪」がふり・つもった。その〈重み〉がこの句の生になっていると、おもう。
チョコチップクッキー世界ぢゆう淑気 野口る理
(「Ⅰ おもしろい」『天の川銀河発電所』左右社・2017年 所収)
2017年9月1日金曜日
続フシギな短詩192[小澤實]/柳本々々
「はい」と言ふ「土筆摘んでるの」と聞くと 小澤實
前回、金子兜太さんの句のアクセスポイントの話で終わった。
おおかみに蛍が一つ付いていた 金子兜太
古代のWi-Fiのように「おおかみ」に「蛍」が「一つ付」くことで、「おおかみ」と「蛍」がイーブンになり、「おおかみ」から「蛍」へ、「蛍」から「おおかみ」へなにかがそそぎ込まれてゆく。それがなんなのかはわからないけれど、ともかくWi-Fiのように、アクセスポイントを発見したのだ。これを古代のアクセスポイントの発見と呼んでみたい。
思い出したのが、小澤さんの次の句だった。
本の山くづれて遠き海に鮫 小澤實
本の山がこちらに崩れてきたときに、アクセスポイントを発見してしまう。これは、現代の意識のWi-Fiのアクセスポイントと言ってもいいのではないだろうか。本の山がこちらに崩れるという唐突な可傷性を通して、遠い海にいる鮫と近接して遭遇するような可傷性とつながってしまう。意識は「遠き海」に伝送されている。しかし、傷は、ここにある。
俳句にはこうした意識のアクセスポイントを〈見つけてしまう〉ところがあるのではないだろうか。
掲句。「土筆摘んでるの」と聞くと「はい」と言われる。それが倒置法で句になっている。ここにも私は開通されてしまったアクセスポイントがあるような気がする。
土筆を摘んでいるひとをみた語り手が、あああのひとは土筆を摘んでいるのだと意識し、その土筆を摘んでいる行為を語り手は(土筆を摘んでいるのだな)と心的に言語化し、それを相手との適当な関係性のもと「土筆を摘んでいるのですか」ではなくラフな感じで「土筆摘んでるの」と声にして身体を通して聞こえるように発話し、その発話化された問いかけに対し、土筆を摘んでいるひとは無意識で土筆を摘んでいた行為を(ああ自分は今あらためて思ったが土筆を摘んでいるのだ)ということを〈意識〉化し、そしてそれが自分への問いかけだったので「はい」か「いいえ」で答えなければならず「そうです。土筆を摘んでいます」ではなく語り手への応答としてやはり適当な関係性を考慮した上で(うん)ではなくて(はい)を選択し、声に出して「はい」と言った。
これだけのことが、見いだされた意識のアクセスポイントをとおして、一瞬のうちに、伝送されるのが、俳句なのである。
そしてその「おおかみ」の、「本」の、「土筆」の、意識のアクセスポイントは、やがてメディアが〈進化〉し手元で戦争の動画を見られるようになって、「人類」の意識のアクセスポイントに到達する。〈戦争〉と〈団欒〉という人類の意識のアクセスポイントを発見してしまった句としてこんな句を最後にあげてみたい。
人類に空爆のある雑煮かな 関悦史
(『セレクション俳人5 小澤實集』邑書林・2005年 所収)
続フシギな短詩191[金子兜太]/柳本々々
きょお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中 金子兜太
さいきん小澤實さんと中沢新一さんの対談集『俳句の海に潜る』を読んでいるのだが、対談は最終的に〈俳句におけるアニミズム〉の話に流れ着いていく。
そこで興味深かったのが、肉体/魂という二項対立を意識してしまったらもうそれはアニミズムではない、という中沢さんの言葉だった(アニミズムとは一般的に、万物に意識があるという思想。中沢新一さんは「生物も非生物も、もともとは一体」という一元論的アニミズムを考えている。スピリットが世界全体を流動しつづけており、それがたまたまとどおこったときに、なにかが〈存在〉する)。
凍蝶の己が魂追うて飛ぶ 高浜虚子
この句は、一見アニミズムっぽいのだが、「魂」が出てきている時点で近代的なアニミズムになってしまっているという。凍蝶の身体/凍蝶の魂という二項対立。
生きている凍蝶の肉体が、別れ出てしまった魂を追っているということは、肉体と魂とを別に考えているということである。この考え方は中沢さんが次のように説く十九世紀の間違ったアニミズム論につながるものだった。そのアニミズム論とは「生命のないものにアニマが宿って、あたかも生命を持つように振る舞うようになる」という、中沢さんが誤りと断じているものである
(小澤實『俳句の海に潜る』角川書店、2016年)
魂も感じさせないような、万物が融合し流動しているような状態、それがそもそものアニミズムだというのだ。たとえば、
閑さや岩にしみいる蝉の声 松尾芭蕉
この句においては、「岩」と「蝉」が「しみいる」で融合した状態になっている。
中沢さんはこの句をアニミズム俳句の極致と呼び、「蝉を流れるスピリットと岩を流れるスピリットが、相互貫入を起こして染み込み合っています」と評されている。
(小澤實『俳句の海に潜る』)
魂はなく、ただ「岩」と「蝉」が相互浸透した融合状態がある。これが、アニミズムだという。
そんなとき私は金子兜太さんの掲句を思い出した。
「きょお!」という汽車の発話には言語レベルに還元できない不穏ななにかがある。誰かの人名を叫んでいるような(「清ぉ!」)、もしくは「狂/恐/凶/驚/胸/競!」と不吉な言葉を叫んでいるような(「KYOU」は不穏な漢字ばかりだ)。
汽車は夏目漱石『草枕』で描かれたように近代的な装置だった。国家のすみずみまで均質に知や物資や情報を届け、均一な国民を育てる。
汽車の見える所を現実世界と云う。汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に蒸気の恩沢に浴さねばならぬ。人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。
(夏目漱石『草枕』)
ところがその「汽車」が「きょお!」と不可解な非言語を「喚いて」しまう。この「汽車」はいったいどういうふうに位置付けられるのだろう。
ここで注意してみたいのが、「この汽車はゆく」である。語り手は「《この》汽車」と指示できる確かな位置をもっている。語り手の意識は、没入はしていない。事物を名指しできる場所にちゃんといるのだ。だから、「ゆく新緑の夜中」とベクトルも時間=場所叙述できる。
しかし、そうした「この」と指図ができて、時間ベクトルも場所ベクトルも叙述できる意識鮮明な語り手に対し、「きょお!」と汽車は喚き傍若無人な意識/無意識のふるまいをみせる。これはそうした語り手が、没入しそうになる一歩手前の、しかしその一歩を過ぎてしまえばもう汽車の意識のなかに怒濤のようになだれこんでいってしまうという、意識没入 対 近代的個の対立の句といえないだろうか。アクセスポイントは、もうすぐその手前に、きている。でもそのアクセスポイントがこれからどうなるかはわからない。
そういえばアクセスポイントが意識された兜太さんの句にこんな句があった。この古代のWi-Fiのように明滅するアクセスポイントは、どういうふうにかんがえればいいのだろう。
おおかみに蛍が一つ付いていた 金子兜太
(「俳句 短歌の魅力」『語る 俳句 短歌』藤原書店・2010年 所収)
2016年2月28日日曜日
今日のクロイワ35 [小澤實] / 黒岩徳将
湯豆腐の湯気の猛きが我が顎に 小澤實顎に湯気が付き、サンタクロースのような髭になった景を想像した。「猛き」と良いながら実際は大した事態でないというギャップがクールである。余談だが、形容詞連体形+(名詞省略)+述語という構造が決まるとかっこいい…とこういう句を見て思う。
『砧』より。
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