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2015年12月17日木曜日

人外句境 28 [小川軽舟] / 佐藤りえ



夕闇に冷蔵庫待つ帰宅かな  小川軽舟

一人暮らしの部屋にひとりで帰る。留守宅で待っていてくれる家財道具のうち、冷蔵庫はもっとも頼もしい存在と見なしてよいと思われる。一人暮らし用ではさほど巨大ではないかもしれない(2ドア、140センチほどの製品もあるし)が、通電して食品を冷やしていてくれること、人並みの大きさと存在感を有していること、扉を開ければ庫内灯がともることなど、実に頼りがいのあるものである。ここでの「冷蔵庫」は擬人化とみなすより、そのものが待っている、と受け取りたい。人には無理だが、冷蔵庫ならビールを冷やしていてくれる。腹の中で。

『掌をかざす』はふらんす堂のホームページ上に掲載された俳句日記をまとめた句集である。この日記は一日一句ずつ、きっちり365日更新されていくもので、2007年の東直子氏の短歌日記を皮切りに、年替わりで歌人・俳人が担当している。

句集の構成はホームページ掲載当時のままに、ページごとに一句とその日の短い日記が綴られている。こうした構成により、小川軽舟氏が当時単身赴任の独居であったこともわかった。句集からもう少し句を引く。

 爆竹を痛がる地べた春近し 
 梅散つてこの世のどこか軽くなる 
 白梅や死んでから来る誕生日 
 暗闇は光を憎みほととぎす 
 虫しぐれスターバクスの人魚照る 
 人間が人形に見ゆ冬の雨

「爆竹を痛がる地べた春近し」は春節の日の句。「白梅や死んでから来る誕生日」は虚子忌に詠まれた句である。「人間が人形に見ゆ冬の雨」は四谷シモン展を訪ねた日の一句。日記の記述と俳句との距離感もさまざまである。ページ一句組みの句集とはまた違った、歩調をゆるやかに読むことができる本である。

インターネットが一般に普及した、その開始時期をいつからと考えるか、定説といっていいほどに時期が定まっているとは思えないが、常時接続が広まった2000年代はじめ頃から、と考えたとしても、すでに10年以上の月日が流れている。通信速度の高速化、大容量化は進んだが、それによって詩歌の表現や伝播方法が大きく変質したのかというと、そうでもないのではないか、と、実感に照らし合わせて考える。

情報量が増えたとはいえるが、詩歌の見せ方そのものはインターネット黎明期と大きく違ってはいないのではないか。特に新しい技術を要しているわけではない、短歌日記、俳句日記といったコンテンツが今成り立ち、紙の本へとゆるやかにつながりを見せているのは、毎日更新する、という書き手と編集側の地道な努力によって培われているものである。
何ができるか、どうするか―と、「何を見たいか」が如何に噛み合うか、なのだろうか。短歌日記、俳句日記には即時性と一貫性の綾があると思う。

〈『掌をかざす』ふらんす堂/2015所収〉

2015年7月6日月曜日

今日の小川軽舟 52 / 竹岡一郎



巴里祭翅もつものは翅に倦み      「手帖」   

巴里祭は季語であるが、日本の7月14日に何か特別なことがあるわけではない。フランスの建国記念日であり、バスチーユ監獄の襲撃を記念する日でもある。実際には、バスチーユ監獄には革命家など収容されておらず、普通の犯罪者が7名囚われていただけだった。襲撃の実際の目的は、不当に囚われた革命家の解放ではなく、監獄の武器弾薬庫であったという。この日に、今なおフランスで行われるのは、国内最大の軍事パレードであり、エッフェル塔の花火である。皮肉な言い方をするなら、戦後の日本人が「革命」や「解放」や「自由」という字面から想像するようなものは何一つない。フランスの軍事力が如何に素晴らしいかを国内外に華やかに見せつけるパレードの日である。更に付記するなら、軍事力の頂点である核兵器を、フランスは350個保有している。米露に次いで、世界三位である。

「巴里祭」は日本だけの呼び方だ。日本人の間に「巴里祭」なる言葉が広まったのは、1932年に制作されたルネ・クレールの映画を翌年(昭和8年、満州事変の翌々年)日本で公開する際に、「巴里祭」と邦題を付けたのがヒットしたのがきっかけである。何ということはない、愛らしい初恋の映画であるが、パリの街並や風俗が、戦前の日本人には新鮮で、手の届かない上等舶来の夢だった。
パリは芸術の都というが、ウィーンだってフィレンツェだって芸術の都である。しかし、パリだけは同時に花の都であって、ウィーンのように仄昏くもなく、フィレンツェのように過剰でもない、日本人にはちょうど良いくらいの華やぎが季語として定着した理由の一つであろう。「ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し」と萩原朔太郎が『純情小曲集』中の「旅上」で歌ったのは、大正14年(1925年)。戦後でいうなら、「憧れのハワイ航路」みたいなものだ。

「巴里祭」という季語は、戦前の当時、多くの日本人は一生目にすることはなかったであろう、ヨーロッパの華やかな都への憧れを、夏の明るい光に託しているのだ。だから、この季語は実体のない、幻の美しさへの憧れ、そうであればいいなあという夢見る雰囲気であろう。もっと言うなら、戦後七十年経った今、我々が使う場合は、「巴里祭」というモノクロ映画に胸ときめかせパリに憧れた頃の日本人を偲び、その古き良き切なき心情を回顧する意味合いをも含んでいる。
(仮に、フランスの五月革命(1968年5月10日)を季語にするなら、「革命」「自由」「解放」の雰囲気は出るであろうし、世界中の学生運動に衝撃を与えた、このゼネラル・ストライキは団塊の世代が共感しやすいであろう。しかし、未だに「五月革命」という季語はない。)

さて、巴里祭が、戦前の日本人が憧れた「夏の蜃気楼」のようなものである事、そもそも映画の邦題であってフランス人には無意味な呼び名である事、現実の巴里祭の日にフランスで行われるのは専ら軍事パレードである事を踏まえて、掲句を読む時、「翅もつものは翅に倦み」が、如何に皮肉と哀しさを湛えているかは了解できると思う。飛ぶことに倦んでいるのだ。幻に、雰囲気に向かって飛ぶことに。羽ではなく、翅であるから、昆虫の類であって、鳥のように高く飛べる訳はない。

蝶々なら詩的に物凄く頑張って、韃靼海峡を渡れるかどうかであろう。或いは、露を金剛と観ずる眼にあれば、杏咲く頃に、びびと響いて受胎告知を知らせるくらいはできるかも知れぬ。だが、羽ではなく、翅しか持たぬものは、幻に、理想に、雰囲気に、憧れという実体の無いものに向かって飛ぶ事しか出来ぬだろうか。それならば、「倦む」とは、一つの救いの始まりかもしれぬ。現実を凝視する事によってしか、道は始まらぬからだ。平成15年作。

2015年6月29日月曜日

今日の小川軽舟 51 / 竹岡一郎



森出でてなほ林ある鹿の子かな     「手帖」  


森の道をゆくうちに前方の視界が開けて来て、明るくなる推移を詠っている。林には光も風も透る。森という半ば閉ざされた空間が嫌なわけではないが、少し視界が開けてほっとした。だが、木々の香りはまだ名残惜しい。その名残をいたわるように林というまばらな木々が広がっている。そんな心情である。

「なほ」が利いている。「林ありける」だと、森と林は分断されてしまう。「鹿の子」が眼目だ。物に怯えやすく、だが好奇心旺盛な小鹿が頼りなくゆっくりと歩いてゆく。小鹿はやはり森を出て林の中を歩いているのであろう。ここで作者は小鹿と歩みをともにしているというよりは、小鹿の心情に寄り添って景を見ている。

漸く歩けるようになり、世界の何もかもが新鮮に見えている小鹿の、その感覚で、森が林へとよどみなく移行してゆく様、視界が開け、森よりは風や光が大きくなってゆく様を享受する。緑の匂いを感じる濡れた鼻先、敏感に辺りの音を捉えて立つ耳、大きな瞳や細い四肢、小鹿の全身は、その五感で以て、森から林へと移り変わる様を敏感に受け取る。その喜びが作者の歩みと重なるのである。平成14年作。

2015年6月25日木曜日

今日の小川軽舟 50 / 竹岡一郎



曾根崎の水照らす灯や蚊喰鳥

 曾根崎は大阪・梅田の繁華街。近松門左衛門の「曾根崎心中」で有名な「お初天神」がある。お初天神は、正式には露天神社(つゆのてんじんしゃ)といい、上古は大阪湾に浮かぶ小島(曾根崎のあたりはもともと海であり、河口の砂が堆積して陸となった)に「住吉須牟地曾根ノ神」を祀ったのが初め。現在の祭神は、少名彦大神、大己貴大神、天照皇大神、豊受姫大神及び天神様即ち菅原公であって、お初と徳兵衛は祭神でも何でもない。二人は、天神の森で心中したのである。ところが、今では専ら縁結びの神社と化しているところが面白い。同じ近松の「心中天網島」に出てくる小春は、曾根崎新地の遊女である。江戸の頃は、淀川河口の瘦せた土地であった。明治以降、大阪駅が出来たのをきっかけに、繁華街として栄えた。

私にとっては子供の頃から馴染みの地域だが、曾根崎のあたりは不思議なところである。曾根崎警察署の傍からお初天神商店街に入ると、かなり広い道なのだが、なにもかも共存しているのだ。ゲームセンターがあり、薬屋があり、普通の飲食店や商店があり、キャバクラがあり、バーと一杯飲み屋があり、大人のおもちゃ屋があり、ペットショップがある。その果てにお初天神がある。曾根崎の向こうは、新御堂筋を隔ててラブホテル街があり、老松町の骨董街があり、更に裁判所がある。その向こうは堂島川と中之島だ。大阪の中心地は昔から何もかもごちゃごちゃで、職業や店種によって区分されていない。渾沌の中で、店も人も本音をさらけ出して生きている。

「曾根崎の水」とあるが、江戸の頃はいざ知らず、今、あのあたりに池や川があるわけではない。一番近い堂島川からも相当速足で歩いて二十分はかかるだろう。だから、掲句の水は単なる水ではなく、水に象徴される濁世の様々な事象である。

「曾根崎の水」といわれれば、大阪の誰でも思いつくのは、水商売の「水」である。ここで、中国の占術において水を表わす「坎」の象意に照らせば、水とは、低きに流れ、窪みに溜り、地の底を這い、流れを生じ、他の流れと交わりを結び、艱難辛苦の果に、遂には大海と化す。従って、「坎」の象意は、流動であり、浸透であり、溶解であり、更には遊蕩、煩悶、情交、秘密、疑惑、憂愁、暗黒、奸智、隠匿、敗北、放浪、零落などを表わす。人物では、智者、悪人、淫婦、遊女、病人、死者、服喪者など。人体では、陰部、子宮、尿道、血液、汗、涙、精液、眼球、傷痕など。職業では、船舶業、醸造業等、水に関わる全般から始まり、更に酒屋、水商売、風俗業など。動物ならば、豚、馬、狐、モグラ、水鳥、生魚類、螢、水に関係する生物一切、更に面白いことに蝙蝠も「坎」に属する生き物である。

掲句では、蝙蝠と言わず、「蚊喰鳥」を使っている。その方が、江戸時代の上方情緒が匂うからであろう。(蚊は水に生まれ、血液を吸って生きるから、これもまた「坎」に属する。)そして、曾根崎は上古、海であった。即ち、「坎」の終着である。掲句は「坎」の象意の集合を、灯が照らしているのである。

曾根崎のあたりで蝙蝠が飛ぶところといえば、歓楽街の中心でありながら広い境内を持つ「お初天神」以外考えられぬから、掲句は当然、曾根崎心中を意識している。曾根崎心中に語られる遊蕩、遊女、情交、秘密、煩悶、奸智、零落、これらは全て水の象意であり、従って掲句の水を照らす灯とは、今も盛んなる水商売の灯であり、同時にお初天神の献灯でもあり、曾根崎心中という物語を照らす灯でもある。この灯は、水商売の町に掲げられ、奸智と秘密と情交と煩悶が火蛾の如く群れ集う灯であると同時に、神に掲げられ、神を照らす灯でもある。醤油屋(醸造業であり、坎の象意)の手代・徳兵衛と遊女・お初の心中の物語、これは金銭と恋情の絡みが、坎の極み、死へと至り、死を超える恋が数百年を経て、神を照らす灯へと昇華したのである。大阪は水の都といわれる。水の象意に満ちた大阪の、その物語を照らす灯に、作者は大阪の哀しみを照らさんとする。

平成十五年作。

2015年6月22日月曜日

今日の小川軽舟 49 / 竹岡一郎




大工ヨゼフ忌日知られず百合の花


勿論、この大工ヨゼフは、聖母マリアの夫ヨゼフである。このヨゼフの行動は、福音書にはほとんど出て来ない。マリアの受胎の後、夢を見た事(マタイ1・18-25)、身重のマリアを連れて、住民登録の為にベツレヘムへ行った事(ルカ2・4-5)、ヘロデ王を避けて聖母子と共にエジプトへ遁れた事(マタイ2・13-15)、ヘロデ王の死後、イスラエルに戻り、ナザレに住んだ事(マタイ2・19-23)、過越の祭に聖母子をエルサレムに連れて行った事(ルカ2・41-51)。そのくらいであって、忌日どころか、ある時点から忽然と聖書から消えてしまう。

しかし、イエス生誕の前に、ヨゼフは最も重要な働きをしている。この働きなければ、イエスは恐らく世に生まれていない。

『イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を生みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。』
(マタイ1・18-25)

当時の律法では、姦通は石打ちの刑であったという。実質、死刑に等しい。処女懐胎が奇跡である以上、世間はヨゼフの子でなければ姦通の結果と見なすだろう。世間は奇跡を信じないものだ。即ち、もしヨゼフが、面子を潰されたと事を荒立てるような男であれば、マリアは婚約中に不貞を働いたとして石で打たれる。だから、事を公にしようと思わなかっただけでも、ヨゼフは相当に偉い人であるが、更にマリアと婚姻し、イエスを自分の子として育てた。これは天使の夢のお告げが無くとも、ヨゼフはいずれ、そう決断したような気がする。なぜなら、姦通の罪を厳しく糾弾されるような社会にあって、おぼこ娘で気の利いた言訳など何もできないようなマリアが実家に帰され、大きくなってゆくお腹を抱えて、穏やかに暮らせるわけがない。ヨゼフが黙って婚姻する以外、マリアが出産までを平穏に暮せるはずがないのだ。

だから、ヨゼフの形容として記される「正しい人」なる言葉は、誠に重い。如何に自らを空しくして、恋人を護るか。夢に現れた天使は、ヨゼフの良心の具現、義の顕現と重なるのではないか。人の為に律法があるのであって、律法の為に人があるのではない、そう分かってはいても、律法が支配する社会にあって、「律法を超える正しさ」を密かに貫くのは大変な意志力だ。それは律法よりも強靭な優しさであり、恋の極みであり、慈しみの極みである。ヨゼフを漢の鑑といっても良い。
ヨゼフは、ごく普通の人であったろう。何も奇跡を起こさず、その臨終の様も忌日さえも伝えられなかったが、恐らく福音書中、最も偉大な一人であろう。ヨゼフの無私の決断なくして、マリアのその後の人生は無く、イエスの生誕も無かったからだ。そして、ヨゼフは終生、自らの偉大さを全く意識しなかっただろう。彼が聖人に列せられたのは、ずいぶん遅かったらしい。労働者の守護聖人であって、シンボルは大工道具と、そして百合の花である。

掲句の上五中七は、市井の慎ましい労働者であったヨゼフの生涯を示している。下五「百合の花」は聖性を示している。そして、上五中七と下五は、等価である。だから、この句は、ヨゼフに託して、ごく普通の市井人に突然花開く聖性を、高らかに讃えているのだ。
「鷹」平成24年9月号。

2015年6月18日木曜日

今日の小川軽舟 48 / 竹岡一郎




そのあたり夜のごとくに百合白し


百合の神秘性を詠った句。百合以外はあり得ないだろう。百合はそのフォルム勁く、立姿凛然と、濃密な芳香を放つ。何よりもキリスト教世界で、白い百合は、マドンナリリーと呼ばれるように、聖母マリアの花であり、純潔の象徴である。受胎告知の天使ガブリエルは、白い百合を持った天使として描かれる。

「夜のごとく」とあるから、実際には夜ではないのだろう。百合があまりに白いので、百合の周囲は夜のように感じた、という事である。百合は単にその白さのみで、あたりを暗く思わせているだけではない。その純潔さ、その高貴さ、その芳香に比べると、あたり一帯はくすんで見えるのである。だから、この百合は単に植物の百合ではない。聖性を具現化した百合だ。眼ある者は見るが良い。此の世にはあり得ない百合である。

「ジャン二十二世が、最後の審判の前にはどこにも、天国にさえも、曇りのない幸福はありえないと主張するにいたったのも、地上のこの暗さのためではなかったろうか。実際そのとおりである。この地上が暗澹とした混迷にとざされているのをよそに、どこかに今から神の栄光に照らされている顔があって、天使によりかかり、神を観じるつきない喜びに渇きをいやされていることを想像するには、いかに頑固さと片意地とが必要であったろう。」
(リルケ「マルテの手記」望月市恵訳、岩波文庫、223頁)

 これは比喩の句であり、象徴の句なのであるが、この句の優れた技法は、普通なら句の焦点である百合の花を「ごとく」で喩える処を、百合を取り巻く環境が、百合によってどのように変化するかを「ごとく」で喩えたところだろう。また、その喩えも「夜」という茫漠な喩えであり、喩えられる周囲も「そのあたり」という、何ら具体性の無い環境である。

わざわざ抽象の極みのような環境に、更に茫洋たる喩えを用いることによって、掲句の示す世界には、もはや百合以外存在しておらず、その百合も、形容としては、「白し」と誠に素っ気なく、即物的に詠っているのみである。その即物性が、時も場所もわからぬ茫漠たる周囲と相俟って、百合の聖性を強く引き出している。

「鷹」平成24年9月号。

2015年6月15日月曜日

今日の小川軽舟 47 / 竹岡一郎




冷蔵庫闇にひらきて光抱く        

「闇にひらきて」とあるから、深夜、家族が寝静まった後に、喉が渇いたか小腹が空いたかして、開けたのだろう。或いは一人者なのかもしれぬ。日常の些細な事なのに、妙に切実な思いが滲むのは、下五の「抱く」による。作者自ら光に対して働き掛ける動詞を出したことにより、光への想いが出るのだ。

夜中に冷蔵庫を開けて、ぼんやりすると安心する、という人がいる。中にはある程度、食糧が詰まっていた方が良いそうだ。冷蔵庫の温度が上がって、ピーピー音が鳴り出すと、名残惜しく閉めるのだそうで、友人にも何人かいた。私などはドライな人間なので、そんなことは先ずしない。この行為は子宮回帰願望であって必要なのだ、と主張する友もいて、そうであれば中々切ない話である。食べ物が詰まっているのを見て、無意識に安心するのだとも考えられる。それならば本能の変形であって、また悲しい。

季語は作者自身であるとは、作者のかねてからの主張である。掲句は作者と季語が重なって読める例だろう。言葉通りに読めば、冷蔵庫を開いたのは作者である。冷蔵庫の光を抱いたのも作者だ。だが、冷蔵庫が作者の手に応じて、或る意志を以て開いた、と読む事も出来る。今の冷蔵庫はマグネットで閉じているだけなので、内側からも簡単に開く。満杯に物を容れていれば、何もしなくとも勝手に開くことがある。

光を抱くのは、作者であると同時に冷蔵庫でもある。冷蔵庫は完全に閉じてしまえば、中は闇だ。扉を閉じるぎりぎりにして、観察してみると、ふっと光が消えるのが判る。扉をゆっくりと開き始めると、中の物が横から見えるか見えないかの処で、明かりがともる。冷蔵庫は、外界の闇に囲まれて、密閉された闇を抱いているのだが、そこに人間の手が加わって、外界と通じさせた途端に、光が生じる。

食べ物が腐らないための工夫を凝らした箱の内が灯る、これは一時的にせよ安心感を与える。かつて三種の神器と言われただけの事はある。食糧を備蓄できるがゆえに餓えないという安心、そして闇の中でも開けば灯るという安心、やっぱり子宮回帰願望にどこか通ずる安心感なのだろうか。

「鷹」平成26年10月号。

2015年6月8日月曜日

今日の小川軽舟 46 / 竹岡一郎



線切れし黒電話より黴の声    「呼鈴」 


80年代までは、家庭の電話は普通、黒電話だった。私が学生の頃、東京の部屋で黒電話を使っていた。当時の黒電話は、もう一昔前の聳えるようなフォルムではなく、もっと丸っこい形だった。調べてみると、その数は激減したものの、今でも黒電話は使われているらしい。

掲句の黒電話が何処にあるかは記されていない。どこかの古いアパートの空き部屋に座っているのかもしれぬし、戸外に置き捨てられて廃品回収を待っているのかもしれぬ。或いは、掲句が、句集の平成二十三年の部に収められていることを考えるなら、東北の津波の後の惨たらしい景の中に転がっているのかもしれぬと思う。

掲句は黒電話の置かれている景には一切触れず、ただ、線が切れていて、もう使えない黒電話だけを描写している。だから、ここでは、黒電話はいずれの時代とも場所ともわからない虚無の景の中に打ち捨てられているに等しい。

黒電話にはうっすらと黴が生えている。または、目には認められぬが、実際に手に持ってみたら黴臭かったのかも知れぬ。そこにレトロな忘れられた雰囲気を味わうのも、一つの鑑賞だろう。この場合、「声」は、雰囲気、或いは書画を評する時に用いる「におい」を表わしていると取れる。

また、実際に黴のささやく声を聴いたというのも、一つの鑑賞である。黴は生きていて繁殖するのだから、全くの無音ということはない。人間の耳には聞こえないレベルの音というだけだ。その黴の声を、時代に置き捨てられた懐かしさと見るも良し、だが、時代に忘れられた怨みと見る事も有りだ。
黴は一見無害に見えるが、或る種の黒黴は、その胞子が人体に有害であって、例えば、部屋の壁の裏などにびっしりと繁殖した黒黴は、絶えずまき散らすその胞子によって、住人の肺を侵し、死に至らしめる事も有るという。掲句の電話の黒色に、黒黴に託した怨みの有害さを思う事も可能だ。

更に、下五の「声」に注目するなら、電話とは人の声を中継し、会話を取り持つための器械である。何千、何万遍と手に取られ、語りかけらけ、耳を傾けられた黒電話は、膨大な量の声を中継してきたわけで、それは人の膨大な思念を堆積して来たに等しい。

付喪神というのは、九十九年永らえた器物が物の怪と化すのだが、そこまで時を経なくとも置き捨てられた器物は化けるという。電話が化けるとすれば、長年堆積して来た人間の念がその核となる筈で、化けた電話が自らを表現する手段は、ベルを鳴り響かせるか、或いは受話器から慎ましく声を垂らすかであろう。掲句の電話は更に慎ましく、自らの身に繁殖する黴に、己が声を託している。
「黴の声」とは、実際に繁殖する黴の存在表明であり、打ち捨てられている電話という器物の存在表明でもあり、かつてその電話を介した人間の声と思念の存在表明でもある。そうなると、黒電話の色は、繁殖したい黴の思いであったり、化ける他ない器物の思いであったり、人間の過去の声や思念だったりする。そういう堆積の渾沌を、黒という色に観ても良い。

昔流行った電話の怪談といえば、引っ越してきたアパートの一室に黒電話が捨てられていて、線が切れている筈なのに、夜中に鳴ったりする。よせばよいのに、電話に出てしまったりして、受話器から女の恨み言が聞こえたりする。そこから色々バリエーションがあって、早々に部屋を引き払うが、引っ越した先にまた黒電話が転がっている、或いは新居の新しい電話からしつこく幽霊の声がする、自分は引っ越さずに電話を向かいの電柱の下に捨てるが、近所迷惑にも夜中に路上で鳴り響く、あるいは仕事から戻ると、捨てた電話が勝手に部屋に上がり込んでいる、と、まあ、様々な工夫が凝らされるわけだが、この怪談の芯は、置き捨てられ顧みられることの無い思念の、相手構わず縋りたいほどの孤独である。掲句の場合も、その芯となるのは、廃品と化した黒電話の孤独である。その孤独のか細さを、作者は「黴の声」と聴き取る事により、掬い上げたのであろう。

平成二十三年作。

2015年6月4日木曜日

今日の小川軽舟 45 / 竹岡一郎



冷奴庶民感情すぐ妬む

居酒屋の景であろうか。冷奴を肴に飲んでいたりするのである。それで芸能人や金持ちの話題になったりすると、直ぐ妬みが始まる。

華やかなスポットライトや豪奢な暮らしは妬まれるものだ。或いは、妬みの対象は、自分を差し置いて出世した同僚であろうか。

大体において妬みがみっともないのは、物欲しげであるからだ。嵩ずると、餓鬼の如くとなる。幾らでも欲しがるからである。金が欲しい、名誉が欲しい、地位が欲しいとなると、人間、切りがなくなる。で、得られぬ事が明らかになると、妬む。

これが芸能人や金持ちに対する嫉妬なら、酒席における鬱憤晴らしで済む。社会が悪いとなると、やがて煽る者達が現れる。国家の栄光でも良いし、人民の権利でも良いが、色々くっつける大義名分には事欠かない。どんな理由でも煽れるのである。

ここで掲句が、「庶民感情」と言い、「庶民」とは言っていない事に注目するのが肝要である。庶民には一人一人の顔がある。庶民感情には顔が無いし、実体も無い。一つの場の雰囲気であって、無責任な念の流れである。一億総火の玉、とか、造反有理、などのスローガンは、この庶民感情を非常にうまく利用して、贋物の義にまで捏ね上げたものである。

完璧に正しい義なんてものはかつて存在した例がないが、義というものは常に存在する。それが義であるかどうかの判断は、それが自らの正当性や利益のために利用されるものでしかないか、それを奉ずるために殉ずることが出来るか、であろう。

「命もいらず名もいらず官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」とは、西郷隆盛が山岡鉄舟を評した言葉。妬む者は、先ず命が惜しい、次に金が惜しい、それから地位や名誉が惜しい。要するに、痩我慢しないのである。瘦我慢する者を、もののふ、という。

もののふとは、強制できる性質のものではない。理屈ではなく、一念に属するものである。虚仮の一念といっても良いかもしれぬが、その一念は命の惜しい者には砕けない。一種の天性であって、善悪とは関係ない。無論、右翼左翼とも関係ないし、社会性とも関係ない。もっと言えば、生物の本能とも此の世とも関係ない。だから、もののふに成りたくない者は、別に成らなくて良いのである。
掲句は冷奴が利いている。冷奴は、「庶民感情」という甚だ捉えどころのない、厄介な妬み易さに対峙しつつ、親身に寄り添い、諫めている。これが肉の類なら妬みを煽るだろう。魚でも、その生臭さで以て、妬みに加担するかもしれぬ。野菜なら、ただ寄り添っているだけであり、果実ならその芳香によって妬みには無関心であろう。

冷奴は畑の肉と呼ばれる大豆から作られる、要は只の豆腐だ。主要成分は蛋白質で、筋肉の素となる。コレステロール低く、安価にして美味。形簡素にして色つややかに白く潔し。人にたとえるなら、質実剛健であろう。つまりは、もののふである。正確に言うなら、もののふの血腥さを切り捨て、私心無き高潔さだけを強調したような食べ物と言えようか。

また、豆腐とは、精進料理に使われるように、肉食の出来ない僧の為の主要な蛋白質でもあった。「碧巌録」五則の「英霊底の漢」という言葉を思い起こす。僧の理想が英霊底の漢であるなら、僧とは、非武装の「もののふ」か。

「英霊底の漢」の特色として、以下のように続く。「所以に照用同時、卷舒齊しく唱え。理事不二、権實並び行ふ」(ゆえにしょうようどうじ、けんじょひとしくとなえ。りじふじ、ごんじつならびおこなう)非常に簡単に意訳すれば、次のようになろうか。「相手の性質とその場の心の出方を照らし出すように明らかに観、その出方に応じた言動が即座に取れる。肯定否定の二元論を超えて事の流れを観ることが出来るゆえに、否定と肯定の二元論を自在に使いこなせる。物事の本質と外部に表われる事象を一つの流れとして認識することが出来る。権(かり)の、方便の教え、即ち、日常の出来事に対処する教えと、真実の教え、即ち、生死を超えた真理に迫る教えを、並行して説くことが出来る」これを、噂話や煽動による庶民感情の流れに抗する、自制の心構えとして学んでも良いのである。

冷奴は妬む者に黙して寄り添い、食われることによって、妬みを暗に諫めている。冷えた豆腐であることにより、冷静な判断の象徴を想わせる。掲句の冷奴は、庶民感情に流される者の筋肉となり、更には魂の筋肉になろうとしている。その一人の庶民が、地道な暮らしの中で、その誠実さこそが義であると感じ、日々の平穏さを自らが殉じてでも守るべきと感ずるようになれば、もはやその庶民は「もののふ」であるといえよう。血腥くない、冷奴の如く淡々とした、もののふである。

鷹平成26年8月号。

2015年6月1日月曜日

今日の小川軽舟 44 / 竹岡一郎



生国を沖に捨て来し海月かな



クラゲは目が無いから暗いという意で「暗(くら)げ」とする説がある。実際には傘の周りに感覚器官があり、明暗や方向くらいは判別できるらしい。海の月と書くのは、海中にいる時、月のようだからという。一方、水の母と書くのは、クラゲは目が無いから小蝦を目として用い、蝦はクラゲに従うゆえに、蝦を子に、クラゲを母に見立てての事だという。或いは、クラゲは死ぬと水に還るからだともいう。

生国を捨てて漂っているクラゲは、できれば海の月のように仄かに光っていて欲しい、という思いから、作者は「海月」と表記したのであろう。季語を作者自身と解するなら、流離の孤独が、波に霞みつつ映る月の如く光っているのである。

クラゲは受精卵が海中を漂い、それがやがてプラヌラという幼生となり、さらに海底に付着して、イソギンチャク状のポリプとなる。そのポリプが幾つもの節を持つストロビラという形態になり、節が幾つもの傘を積み重ねたような形になると、その傘が一枚一枚分離して、俗にいうクラゲの形となる。それならクラゲの生国は、一般には海底ということになる。

掲句では沖とあるから、沖の海底となると、これは日本で言えば、根の国、黄泉であろう。スサノオノミコトが総べるのは根の国であるが、スサノオは海神でもあることから、沖にも黄泉を設定するのは古代の神話観の一つである。

(ここで興味深いのは、クラゲの寿命は数か月から長くとも半年であるが、クラゲの元となるポリプは環境が適切な限り、不死に近いという事である。即ち、海底の根の国におけるクラゲのいわば「根」は不死なのだ。)

熊野を隠国(こもりく)、死の国と呼ぶならば、紀伊半島南部から広がる海は浄土へ赴く海路であろう。補陀落渡海も思い出される。

そうなると、掲句に相応しい舞台は熊野から見はるかす太平洋であろうし、掲句の源を作者の師系に探るなら、藤田湘子の「水母より西へ行かむと思ひしのみ」である。西は西方浄土であり、湘子が胸中に試みるのは補陀落渡海であろう。

掲句のクラゲは沖という根の国の生れであって、沖を捨てて月のように漂いつつ、恐らく陸、生者の国を目指すのである。体の成分のほとんどが水であるクラゲの形態は、例えるなら、まだ魂である状態であろうか。となると、掲句は転生の一場面を詠ったものと解する事も出来る。

鷹平成26年9月号。


2015年5月28日木曜日

今日の小川軽舟 43 / 竹岡一郎




咲(わら)ふごとく木耳生えし老木かな



「咲(わら)ふ」を、蕾のひらく様、果実の熟して裂ける様などに使うのは、やはり花や果実を見た時の豊饒の喜びが背後にあるのではないかと思われるが、掲句では木耳に使ったもの。木耳は乾燥している時は硬く灰色や茶褐色だが、雨などに濡れるとほの赤いゼリー状になる。木の耳とは良く言ったものだ。内臓とか腫瘍が木からはみ出しているように生々しく見える時もある。それを「咲(わら)ふ」と表現したなら、笑うとは感情の露呈の一種であるから、木の、隠されていた情念が、何かの拍子に、木肌を突き破って現れたようにも思えてくる。木耳は自然界では倒木や枯れ枝に良く生えるという。栽培する時にも、原木は伐ってから、半年は寝かせて乾燥させるという。木耳が、木の死に体の部分に生えやすいのであるなら、掲句の老いた木はもう寿命が尽きかけているのか。
「生える」ではなく、「生えし」とあるから、木耳は生え切っている。どのくらいの量生えているかはわからぬが、兎も角老木の、木耳を生やせる許容量一杯に生えきっているのである。木の最期の日々に、咲くごとく、笑うごとく生えた木耳であれば、それを老木の思いの丈と解しても良い。老木に人を託して観るなら、木耳は人生の最後に燃焼する生々しい情熱を表わすであろう。判りやすく言えば、恋である。仕事に対するものか、人に対するものか、財産に対するものかは知らぬ。かなしいかな、木耳はどこまでも木耳であって、木ではない。あくまでも木の表面に生える物であり、木の本質ではない。人生における恋もまた然りか。鷹平成26年9月号。


2015年5月19日火曜日

今日の小川軽舟 42 / 竹岡一郎



魚僧と化(け)し毒流し諭しけり  


民話を詠ったもの。「坊さんにばけたいわな」という題で、松谷みよ子の「日本の伝説」第4巻(講談社、昭和45年)に収録されている。私は子供の頃、全5巻のこの本ばかり読んでいたから、よく覚えている。丸木位里・丸木俊の暗い彩りの挿絵がなんとも切なく怖ろしく、その美しい恐ろしさに幾度慰められたか分らない。

南会津、水無川の上流に五人の樵がいた。根流しをしようということになり、準備を始める。山椒の木の皮を剝ぎ、焼灰と一緒に鍋で煮る。魚にとっては猛毒で、淵に流すと、皆浮いてくる。毒の煮えたぎる鍋を囲んで、男たちが飯にしようと黍団子を出していると、一人の坊さんが現れる。青く光る眼で、男たちを見据え、根流しは小魚まで根絶やしになるから止めろ、と言う。男たちは坊さんの話を受け入れ、黍団子を差し出す。坊さんは仰向いて、ただ一口に呑み込むのだが、その呑み方が、どうもおかしい。人の常の食い方ではない。坊さんは男たちが聞き分けてくれたことを喜んで去るのだが、男たちは結局、根流しをする。浮いて来る魚を手づかみで取れるだけ取ると、欲の出た男たちは、さらに上流で根流しをする。底無しのような淵に流すと、やはり面白いように魚たちは浮き始め、とうとう大人の背丈ほどもある大きな岩魚が浮き上がる。男たちは喜び勇んで、大岩魚を引き揚げ、さて、その白い腹を裂くと中から黍団子が転がり出る。大岩魚の目が青白く光って男たちを睨み、それがさっきの坊さんの目だと気付いた時には、一人、また一人、気が狂ったようになって息絶える。

同じ話は、「日本の民話 3 福島篇 第一集、第二集」(未来社、昭和49年)にも、「いわなの怪」として収録されている。こちらはもう少し詳しく、会津田島駅から東南の水無川沿い、山あいの角木(すまき)なる村落の話と。男たちの生業は記されておらず、ただ「男たち」とのみ。また、毒流しの材料は、山椒の木皮、樒の実、蓼などをつぶしたもの。僧が食べるのは、黒い黍団子と栗飯。大岩魚は村に持って帰ってから腹を裂いたとあり、死んだのは親分格の顎髭の男。残りの者は気が狂い、その村では長く岩魚を獲らなくなったという。
この民話が福島に伝わることを、作者が意識して作ったとすれば、毒流しは原発事故の暗喩であろうか。

句のリズムは畳み掛けるような、妙な緊迫感がある。次々に三度発せられる「し」が、句の速度を高めているが、「し」を「死」と読むならば、先ず魚たちの死、次にヌシである大岩魚の死、最後に男たちの死だ。「けり」が良く利いているのは、物語の結末を暗示しているからだろうか。「化し」に「け」とルビを振ったのは、変化(へんげ)、化生(けしょう)の意を強調するためもあろうが、下五を〆る「けり」と韻を踏ませるためもある。

大岩魚が坊さんに化けるのは、因果応報をその姿で説いているのだ。民話では山椒の毒流しであったから、当事者たちの死亡だけで済んでいる。

この民話から数百年経って、中川信夫の映画「地獄」(1960年、新東宝)では、こんなやり取りが出てくる。どんな毒を使ったか知らないが、川に毒を流して捕った魚を売りつける男と、養老院「天上園」の院長、そして養老院付きの医者の会話だ。

医者「大丈夫だろうな」 
男「先生、とにかく安いんですから。兎も角、腐っちゃいませんよ」 
医者「集団中毒事件があったら困るからな」 
院長「死んだって知ったこっちゃねえ。どうせあの年寄りたちに食わすんだ。俺たちが食うわけじゃねえんだ」 
男「旦那ぁ。太っ腹ですよぅ」 
(一同、笑い)
その結果、養老院の老人全員、悶死する。

中川信夫の映画から更に五十年経って、原発事故である。ヌシである大岩魚は、いまや誰に向かって仏道を説けば良いのだろう。



「鷹」平成26年9月号。

2015年5月14日木曜日

今日の小川軽舟 41 / 竹岡一郎



道ばたは道をはげまし立葵        「呼鈴」

                   

言葉の連環に何か違和感があるにせよ、一見、ヒューマニズムの匂いのする句に見える。誰も整備しなくて、だんだん荒れて来た道がある。山道と取るなら、もう人が通らなくなっているのだろう。野の道と取るなら、過疎化が進んでいるのであろう。町の道と取るなら、人心が、或いは行政が荒みつつあるのだろう。立葵が道ばたに生えている。道が道でなくなりつつある、その道の疲労を、道ばたの声を代弁するかのように咲いている立葵が感じているのである。立葵は道ばたという概念の具現化であり、作者の心情の暗喩でもあろう。なぜそのように読めるかというと、中七の終りが「はげます」と切れずに、「はげまし」と、微妙に下五の「立葵」につながるからである。この微妙な繋がりは、上五の「道ばた」が立葵へと変化してゆくような雰囲気を醸し出している。

と、解釈すると、中々良い話だ、と読み手は満足して終わるわけだが、ここで道というものの本質を考えてみよう。

道とは(獣道はここでは除く)、基本的に人がある地点からある地点へと楽に移動する為に作られるものである。人間の利便の為に作られるものであって、自然は別に道を歓迎しているわけではないし、道ばたは道の形成によって、道ばたという位置に追いやられるわけである。即ち、道とは人の営みであり、文明の誇りでもあるわけだが、同時に(大仰な言い方をするなら)、自然破壊の第一歩であり、人間の傲慢さでもあるわけだ。

例えば、殷の時代、中原は森であって象がいたという。今、中原には象などおらず、勿論、象が生息できる森も無かろう。何千年にも渡る絶えざる自然破壊、言い換えるなら、道に道を重ねるという行為が砂漠化を招来したのである。

道に象徴される人間の営みとは、自然にとっては傲慢以外の何ものでもなく、つまり、あらゆる人間は人間である限り、その本質において救い難く傲慢なのである。人間の文明、言語、芸術はその傲慢さの上に培われてきたのであって、そもそも傲慢でなければ、この狭い惑星に他の種を滅ぼしつつ七十億に至るまで繁殖する訳がない。

人間の傲慢さをどこまでも探ってゆくならば、例えば、仏教に謂う「三世の毒」である「貪、瞋、痴」の、痴にその根拠を求めることが出来るだろう。痴は漢訳であって、本来は「暗黒」の意を示すモーハである。モーハとは、生物が他を殺してでも生き残ろうとするような、盲目的な衝動を指すという。従って、傲慢さについて思いを馳せるなら、外界の様々な事象を観察し批判するよりも、先ず自らの内なる暗黒、モーハを観照すべく努めるべきであるか。それは取りも直さず、世界を自らの裡のものとして観照する事へとつながると言えば、幾ばくかの希望はあろうか。

更に、傲慢さというものが防衛本能に由来すると観察すれば、個々の人間の傲慢さの度合いについても考察できるであろう。人の傲慢さとは、その者の無意識に沈殿する恐怖の度合いに比例する。傲慢な者ほど、実は、或る大いなるものに糾弾される恐怖を抱いている。(聖性に満たされているわけでもない世俗の)人が、自らを「道」であり正義であると、傲慢にも称する真の理由は、その者が、人間にはどうにもならぬ大いなる何かに、遂に裁かれるであろう予感を、恐怖として感じているからである。その恐怖を打ち消すために傲慢にならざるを得ない、という切実にして憐れな内面を見る必要はあろう。

さて、掲句において、道という人間の傲慢さによって、道ばたという位置に追いやられた或る面積は、道を励ましている。立葵という道ばたの声は、道を励まし、ならばなぜ、励ますのだろう。

人間以外のあらゆる事物は、永遠の中でやがて衰え滅びゆくという運命を「盲目的に」受け入れ、掲句の場合は、道ばたは「道ばた」という位置に追いやられる運命を、「盲目的に」受け入れるからだろうか。

道が道という運命を全うし、道が道であり続ける意志を「盲目的に」使い切れば、後は(中原が遂に砂漠化するように)、道は簡単に滅び、「道ばた」は悠久の時を掛けて、道でも道ばたでも無いものに戻るからだろうか。

では、道ばたは早々に諦めているのか、或いは長い時を掛けて道が滅び、道ばたという位置から解放されることを期して雌伏しているのか。

なぜこんなにも、この句の解釈に手間取るかというと、冒頭に述べた如く、言葉の連環に違和感を感じるからだ。その捩れに、作者の醒めた眼差しが、巧妙に隠されているように思うからだ。
仮に、こうしてみたら、どうだろう。

道ばたを道は励まし立葵

こう変えた時の、なんとも言えない鼻白む感じは直ぐ分ると思う。「道」という人間の傲慢さが、「道ばた」という侵略され残された自然を励ますという構図の厭らしさ。高度成長期という、いけいけどんどんの時代、例えば光化学スモッグというものが登場し出した時代が孕んでいた無神経さとも通じるものがある。

そして、作者は、「道に励まされる道ばた」と認識したい人間の厭らしさ、人間が自然に対するときの「上から目線」の傲慢さを、(仮に意識下においてであれ)意識しているからこそ、敢えて道ばたに道を励まさせたのではないか。

それは「道」と「道ばた」の立場の逆転である。侵略されるものが侵略するものを励ますという、大いなる皮肉、惑星視点から見た時の人間に対する眼差し、といえば穿ち過ぎだろうか。

そうなると掲句において、最重要の位置にあるのは「立葵」である。立葵は道ばたに生え、道ばたの声を代弁するものであり、同時に季語であるから人間である作者の思いを代弁するものでもある。

立葵は、道ばたと道の、自然と人間とのあいだに有って、或る中立的な姿勢をもって立っている。それをシニカルな立場と言っても良かろうが、見方を変えれば、為す術もなく立ち尽くす姿勢であるともいえよう。ならば、立葵はせめて咲いていなければならぬ。

平成19年作。

2015年5月4日月曜日

今日の小川軽舟 40 / 竹岡一郎


筍に虎の気性や箱根山        「呼鈴」

筍の少し黄色く川重なるところが黒く筋になっている処に虎を感じたのであろうが、それよりも若々しく尖った筍の立ちざまに虎の気性を感じたのである。一旦こう謂われると、筍の気性あるなら、虎の如くであろうと思わせる。下五の箱根山は筍及び虎と、危うく繋がっていると思うのは、広重の東海道五十三次の「箱根」を思うからである。伸び上がるようにして少し左に傾く箱根山の様は虎が飛び掛からんとして勢いを溜めるようではないか。唱歌「箱根八里」に「箱根の山は天下の険」と詠われた険しさも虎を思わせ、且つ広重描く、緑や青や黄や土色が甲羅の如く組み合わさった箱根の山は、筍の幾重にも皮を纏った有様と通じる処が在るように思う。平成二十年。

2015年4月25日土曜日

今日の小川軽舟 39 / 竹岡一郎


菜の花や明るい未来暮れてきし      「呼鈴」

中七から見るに、一見、明るい伸びやかな句に見える。春の夕暮れの景であって、その穏やかさに明日も明るかろう世界を思うのである。しかし、「明るい未来」というのは、如何にも抽象的で、良く使われる類の標語、スローガンである。高度成長期の頃なら、誰もが気軽に使った言葉であるが、現在の世の中ではまた別である。明るい未来など、庶民はあまり信じていないのである。そうなると、この句が皮肉であると取れよう。「明るい未来」である筈だった「現在」と云う時が、為す術もなく夕闇に呑まれてゆくのである。「暮れてきし」とは、未来が暮れてゆく、即ち、神々の黄昏ならぬ人類の黄昏であると読む事も出来よう。中七を看板の文句であると読む事も出来る。そんな標語が書いてある看板は、如何にも時代遅れの、少なくとも三十年くらいは経った古い看板であろう。もしかしたらホーロー製で、ぼろぼろになった由美かおるが蚊取線香と共に微笑んでいる看板の横に掲げられているかもしれぬ。その看板が暮れてゆくのであれば、これは観ようによっては一種凄惨な、胸詰まる風景であろう。

いずれの場合にも上五の「菜の花」が重複する象徴性を持つことになる。今は失われつつある日本の田園であり、或いは臨死体験をした者が多く語る死後のお花畑を思うなら、この菜の花は中七下五の皮肉と相俟って、個人の死後の景、或いは人類滅亡の後の景を立ちあがらせる。山村暮鳥の「いちめんのなのはな」をも思い出し、暮鳥という名が夕暮れの鳥を思わせるなら、「暮れてきし」という下五はいよいよ悲しく、懐かしい。ふるさとは、かくもあどけなく未来を信じ、かくも惨たらしく懐かしい。平成十九年。

2015年4月22日水曜日

今日の小川軽舟 38 / 竹岡一郎


負鶏のぬけがらのなほ闘へり      「近所」

闘鶏は、もうとっくに勝負がついているのである。負鶏はもう、血まみれのずたずたで、目はまだ開いているのか、それともつぶっているか潰れているか、足元はおぼつかなく、嘴は宙を切り、蹴爪は蹴るに足る高さには上がらぬのである。その惨憺たる様を「ぬけがら」と表現した。もはや鶏は操り人形のようにしか動けぬのであるが、その死に体の鶏を操っているのは、鶏の闘争本能である。哺乳類は先ず大抵痛がり屋で、一旦勝負がつけば、双方大怪我をしない内に引く。蛇のような爬虫類になると、一旦戦いだすと自分が動かなくなるか相手が動かなくなるかするまで、戦いを止めぬという。鳥類はさしずめ哺乳類と爬虫類の間と云った処か。鳥の種類により、どの程度まで戦うかは違うのだろうが、軍鶏はその心情か本能かにおいて爬虫類に近いのかもしれぬ。抜け殻となって尚闘うのは哺乳類にも一種類だけいて、それが即ち人間だ。中でも武士と呼ばれる類、あるいは軍人と呼ばれる類である。本能ではなく、訓練された心情によって、或いは暴走する意地によって、死ぬまで闘う。掲句の負鶏にあわれを感じ、或いは共感するのは、哺乳類では人間だけであろう。平成八年。

2015年4月19日日曜日

今日の小川軽舟 37 / 竹岡一郎



野火走る絵巻解きのべゆくごとく    「手帖」


野火というものは透明でどこまで伸びたか一見して分らぬものである。草が黒くなってゆくので漸くそれとわかる。掲句では、どんな絵巻かについては言及していないが、平治物語絵巻のような戦記物の絵巻ではないかとの連想が働く。反乱が広がる事の喩に「燎原の火のごとく」とあるように、野火は戦を思わせるからである。

絵巻と限定している処から、あくまでも絵としての戦であり、流麗にして優雅な二次元の戦火であろう。「解きのべゆく」の措辞からは畳の上に絵巻物を拡げていって俯瞰する如く、高い位置から野火を見下ろしている印象を受ける。即ち、この措辞によって作者の視点を定めているのである。平成十八年。


2015年4月1日水曜日

今日の小川軽舟 36 / 竹岡一郎



眼光ととほきひばりともとめあふ   「手帖」

 作者は野にあって、空に鳴く雲雀を見ている。「とほき」とあるから、空に響き渡る声がなければ遠い一点にしか見えない雲雀である。その一点の雲雀は、眼光鋭く求めねばわからぬ姿である。だから、上五を「眼光が」として、下五を「もとめけり」としても、一応景が立つ句であるのだが、そこで上五の末尾に「と」をおき、下五の末尾を「あふ」としたのが、さらなる工夫である。

作者の目は雲雀を求めている。だが、雲雀の方はどうか。雲雀も、地の遙かな一点であるこちらを見ようとしているのではないか。雲雀の目と自分の目は、或いは互いに相手の姿を求め合っていて、もしかしたら期せずして雲雀と自分の視線は交わっているのではないか。こう考える処に、雲雀の立ち位置から自分を見ようとする客観性が生まれる。単なる客観写生ではない。雲雀と作者と、二つの主観が合い交わる事によって生まれる客観性である。平成十七年。


2015年3月24日火曜日

今日の小川軽舟 35 / 竹岡一郎


狐面狐を恋へる霞かな        『手帖』
平成十八年作。狐面自体が恋うと読んでも面白いが、実景として強いのは、狐面をかぶった者が狐を恋うという図であろう。狐面を被るものは狐になりたくて被るのである。狐を恋う余り、狐に連れて行ってほしいのだ。これは例えば、安倍晴明の少年期か。「恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」である。下五、「霞」も「かな」でおぼろげに流す終わり方も、狐とも人ともつかぬ母の漠然とした姿を象徴している。これを母恋の句と読めば、同じ作者の「いまも少年カンナに母を待つわれは」(「呼鈴」所収、平成二十三年作)のような、明瞭な母恋の句よりも、私などには胸に迫るのだ。

尚、作者には「狐面とりて狐目みやこぐさ」(「呼鈴」所収、平成二十一年作)もある。「狐目」で狐の血の混ざった者を思えば、「みやこぐさ」は朝廷に取り立てられ、都に住んだ安倍晴明の運命をも連想させる。


2015年3月18日水曜日

今日の小川軽舟 34 / 竹岡一郎


棒のごとき悲しみを持て霜を踏め     『手帖』
虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」を踏まえ、さて、虚子の言う「棒の如きもの」を普遍的なものとして捉えるなら何にあたるだろうと考える。時間、と考えるのは容易いが、では時間とは何だろう。世界の後戻りできない動きであり、世界を貫く或る法則なのだろうと思う。「一切は壊法なり。謹んで精進すべし」とは仏陀の臨終の言葉であった。「全てのものは壊れゆく。だから絶えず精進して道を求めなさい」の意である。「棒の如きもの」とは、一つには人間の感情などものともしない世界の激流に似た営みであり、一つにはその世界さえも永久の確たる実体など無いという法則であろう。ならば、「棒の如き悲しみ」とは、世界の一切が人間の感情などかえりみず、且つ一切が壊法であるという現実に対した時の人間の悲しみである。即ち、無常への悲しみであろう。そう読ませるのは、下五に、美しく儚い霜が配せられていること、且つ、その霜を「踏め」と云う作者の思いである。平成十八年作。