2015年2月28日土曜日

貯金箱を割る日 19[一万尺] / 仮屋賢一



水仙や小さき白と生きること  一万尺

 十代目坂東三津五郎、俳号は一万尺。昨年のテレビドラマ『ルーズヴェルト・ゲーム』でお見かけしたのも最近のことに思えるし、2015年2月27日放送の『美の壺』(BSプレミアム)で放映されたインタビュー映像(2月7日収録)の様子を見ても信じられないくらいの早世である。ご冥福をお祈りする。

 この句は、優しい言葉で仕立てられていて、声に出せば心地よい調べに安らぎを感じる。ただ、その心地よさは母親のような包容力というよりも、どこか男性的な頼もしさゆえの安心のようなものを感じる。それは、選ばれた一つ一つの言葉が凛としていているだけでなく、作者が型の持つ力というものを誰よりも信じているその姿勢が伝わってくるように感じているからなのかもしれない。
 白い花を咲かせる水仙。それを写実的に表現したのがこの句だとして、「小さき白」という表現は非常に魅力的である。水仙の花だけを見ているわけでなく、群生する水仙を俯瞰的に見るわけでもなく、一本の水仙をそれ以上でもそれ以下でもない存在として尊厳を持って見ている。この句における「生きる」という措辞には聊か擬人的な響きがありながらも、俳句としての世界観が損なわれないのは、この尊厳を持った眼差しによるものだろう。

 この作品の横に作者の名前が並んだとき、そこにはさらなる世界の広がりがある。踊りの名手として、「楷書の芸」で人々を魅了した坂東三津五郎氏。曲線的な美しさと洗練され筋の通っているような姿を持ち合わせた水仙が、氏の姿とどことなく重なりあうよう。また、氏は雑誌の対談にてこう語っている。


女性の一年がいい役者を育てるという部分もあって…(中略)…女性の執念、一念は一人の役者を育てるような気がいたしますね。
(角川『俳句』2014年12月号)
決して歌舞伎の表舞台には立たない女性の存在。小さいながらも確かな存在感を持つ「小さき白」。どこか重なりあうような、そうでないような。絶対的な確証はないのだが、少なくとも、「小さき白」は、この作品の中で逆説的に大きな存在となっていることは確か。水仙に見えるのは、歌舞伎の精神世界そのものなのだ。


《出典:2015年2月24日朝日新聞朝刊『天声人語』》

2015年2月27日金曜日

黄金をたたく14 [和田悟朗]  / 北川美美


春の気と春の水あり池をなす 和田悟朗

気と水。 

気は見えない。しかし、集合体となり凝固して可視的な物質となり、万物を構成する要素とする解釈がある。水は液状のものの全般であり、日本語では湯に対比して使われる。池は溜まるものであり、窪みがないと溜まらない。地形を成すことと解釈する。春は地球を意識する。万物の根源が春にはじまる宇宙的概念を想う。春は繰り返され、生命が生まれる。

春大地水を湛えて渚なす  『風車』
多時間の林を抜けて春の海 
空間を貫く時間鳥渡る
空間を曲し一徹やいかぐら
たましいの膨れんばかり黄砂の中

水も気も雲も土も、宇宙に存在する一切のもの。森羅万象の「森羅」は樹木が限りなく茂り並ぶことであり、「万象」は万物やあらゆる現象である。あらゆる存在物を包容する無限の空間と時間が広がってゆく。

和田悟朗氏が春の日に逝ってしまった。魂が宇宙に存在しつづけることを思う。黙祷。

2015年2月26日木曜日

人外句境 10 [辻征夫] 佐藤りえ


雉は野へ猿は山へと別れゆき  辻征夫

昨年からはじまったペプシNEX ZEROのCFを面白く見ている。「Momotaro」と題された動画は小栗旬が桃太郎に扮し鬼退治に行く、というもので、共の犬・猿・雉も人間が演じている。各人のコスチュームや鬼の造型には絵本によくあるような所謂昔話くささがほとんどない。特に雉のヴィジュアルは映画『プリシラ』のドラァグクイーンを彷彿とさせるようなものである。

ストーリーの大筋は昔話通りのようだが、「桃太郎にとって鬼退治は二度目で、一度失敗した後、宮本武蔵のもとで剣の修行をした」「犬は狼に育てられた人間の子供で、鬼によって壊滅された狼たちの仇をとろうとしている」などの挿話が加えられている。そうした挿話や無国籍風な映像に70年代ロック風な音楽が妙にマッチして、予定調和な物語にあらたな緊張感を持たせようとしているように見える。

掲句は桃太郎の後日譚として読んだ。鬼ヶ島から無事に戻った桃太郎が、奪還した財宝を手に翁と媼のもとに戻り、末永く幸せに暮らしました、という話は知っている。

しかし、犬・猿・雉はどうなったのか。説話は無責任なもので、めでたしめでたし、で時間がぶった切られ、状況を仕舞いまで報告してはくれない。

戯画化はなはだしい絵本なら、帰ってきた桃太郎の傍らで犬猿雉が笑顔でぴょんぴょん跳び跳ねていたりする。彼らはどこからか、途中から共になった間柄ではなかったか。

細かい話、犬は桃太郎宅に番犬として残ったのかもしれない。すっかり気心のしれた主人に生涯仕えたのかもしれない。雉と猿は、おのおのもとの暮らしへ戻れたのだろうか。

野と山、それだけの言い方で、この一句は解散した彼らの行く末を見せてくれている。

物語亡者な読者に「つづき」を読ませてくれている。

〈『貨物船句集』書肆山田 2001〉

2015年2月25日水曜日

今日の安井浩司 5  / 竹岡一郎


輝やくも雁の糞もて鎌研げば         安井浩司
この前の句集「空なる芭蕉」においては「雁の空落ちくるものを身籠らん」という、聖的高鳴りの句が見られたが、世の現実に落ち来るのは糞なのである、とは作者の絶望であろう。それでも詩と云う鎌は研げるのである。なぜなら、遙か高みを目指してこれまで来たから。だが、こんなものではない、その無念が「輝やくも」の「も」の一字に籠められている。

<「宇宙開」92頁。>




2015年2月23日月曜日

貯金箱を割る日 18[和田誠] / 仮屋賢一



春光や家なき人も物を干す  和田誠

 物を干すという言葉には、極めて家庭的な響きがある。洗濯物を干すにしても、魚や野菜や果物を干すにしても、何にしても。

 「家なき人」という言葉が堂々と中七にありながらも、読後感は非常に気持ち良い。そこにあるもの全てにいきいきとした輝きを与える春光ではあるが、「春愁」という言葉もある季節、ポジティブさとネガティブさは表裏一体。「春光」と「家なき人」との組み合わせは、ともすれば感傷的になり叙情に流されかねない。でも、この作品においては「物を干す」という措辞によって「何ら特別でない日常生活」という主題が浮かび上がる。特別でない、というのは、当人たちにとって、というのもそうだけれども、この作品の作者自身がそう感じているのだろう。優劣の一切ない、すべて横並びの「生活」として捉えている。「同情するならカネをくれ」(『家なき子』)なんてことは決して言われそうにない。というよりここには「上から目線の同情」(『リーガル・ハイ』)なんてものは存在しない。だから、安心して気持よくこの作品を鑑賞することができるのだろう。

《出典:和田誠『白い嘘』(梧葉出版,2002)》

2015年2月21日土曜日

黄金をたたく13 [橋閒石]  / 北川美美



陰口もきさらぎ色と思いけり  橋閒石

色名から色調を想像するのは楽しい作業である。一斤染、紅梅色、裏柳、若竹色、青丹、松葉色…色名と数々の色彩を眺め、色と親しむ。しかし、日本伝統色の慣用名に「きさらぎ色」というは実在していない。想像での「きさらぎ色」は、薄萌黄色、裏葉色に近い色なのではと思ってみるが、読者が抱く、「きさらぎ」というイメージに委ねられている。

まだ寒さの中にありながら春の兆しが徐々に感じられる二月。「如月」の由来は、着重ねをする<着更着(きさらぎ)>、草木が生えはじめる<生更木(きさらぎ)>の説がある。ひらがな表記の「きさらぎ」にポエジーの世界がある。八田木枯に「二ン月」と表記した句があるが、橋閒石独特な「きさらぎ」とともに繊細な雅やかさを奏でる。

句の構成は「陰口」と「きさらぎ色」の取り合わせとなるが、寒さを繰り返しつつ春を待つことへの抒情をいっていると捉える。「陰口」のネガティブなイメージが、一挙に明るく希望に満ちた風景へと変わってくる。「も」は負の要素を含む<何もかも>という一切合財を意味しているのだろう。前向きな心意気が「も」により打たれそして響く。 <詩も川も臍も胡瓜も曲がりけり 閒石>と「も」の並列がオシャレだ。

橋閒石には「きさらぎ」を詠み込んだ句がいくつかある。

きさらぎの手の鳴る方や落椿  『和栲』
ほのぼのと泣くきさらぎの芝居かな 『微光』

さらに、「きさらぎ」の表記、そして音から、そら耳アワー調に分解すると、しらさぎ(白鷲)、 いそしぎ(磯鴫)などの鳥の名前にたどりつく。「きさらぎ」とかくだけで不思議な煌めきが生まれるのである。




<『和栲』昭和58年『橋閒石全句集』沖積社所収>

2015年2月20日金曜日

人外句境 9 [田中裕明] 佐藤りえ


貝殻追放月は人照らしけり  田中裕明

「貝殻追放」は前6世紀末にクレイステネスが定めた僭主追放の制度のことをいう。その際、市民の投票に使われたのが貝殻だったことからその名がついたとされる(のち陶片が使われたため別名は「陶片追放」)。

そのオストラシズムに鑑みて言えば、今日の人間は地球という領土にとって充分僭主たりえているのではないだろうか。

うじゃうじゃいるので追放するにも手間がかかって仕様がない。星外から未知の生物がやってきて「んほあ」とひとこと言った途端に地球上から人類が姿を消してしまったとしても、文句を言える立場にあるものはいない気がする。

掲句の月、その光を慈悲の光と見るか、監視の光線と見るかで、気の咎め具合がぐっと変わる。詠歎の「けり」で締めくくられた表現に月の静かな圧を思う。

月に住まうひとびとの物語を書かせたのは、じつはいにしえ人のこころの中の疚しさだったりするのだろうか。

月は何も言わず、いつもそこで見ている。


〈『田中裕明全句集』ふらんす堂 2007〉

2015年2月19日木曜日

今日の安井浩司 4  / 竹岡一郎


まくなぎの柱を抱けば高むのみ        安井浩司
まくなぎは明らかな実体がありながら、堅牢なる触感がなく、集合体でありながら単体に見える。これを人類の集合的意識の暗喩と見る事も可能であろうが、それよりもむしろ生物か否かも、綺麗なのか否かも判然としない奇妙な筒と見たい。まくなぎの揺れ動く柱を抱こうとするのは、風狂の果である。「高むのみ」と、まくなぎにも置いて行かれる地上の自分を嘆いているのである。掲句は「山毛欅林と創造」中の一句(90頁)。

「天心へ立つまくなぎの無為のまま」という句も同集(187頁)にある。「天心へ」(天心に、でないのは、天心への航行は限りがないからだ)立つまくなぎは、「無為のまま」立つのである。「立つ」は本来「発つ」の意も含むから、まくなぎは天心へ移動しつつ、既に天心へ存在し、同時に更なる天心へ向かっているのである。即ち、同時に無限に存在し、到達し得る事があっても極める事が出来ない「天心」なる地点が存在する。ならば、天心は真理の暗喩であろう。「無為ゆえに」立つのだろうか。そうではあるまい。「ゆえに」など理屈であろう。まくなぎはまくなぎ、自分は自分であり、あのまくなぎは偶々無為のまま立っただけである。


2015年2月18日水曜日

今日のクロイワ 17  [朝田海月]  / 黒岩徳将



テント張る男言葉を投げ合って     朝田海月

第12回龍谷大学青春俳句大賞 高校生部門入選作」より。

男言葉とわざわざ書いているからには女子の行動だろう。骨組みの設定、危うい足の動き、しっかりと支える手という様々な注目ポイントがあるなか、見事スポットライトが当たったのは言葉であった。「俺に任せろ」「おいそれをよこせ」「がっってんだ」…現代の高校生の句と考えると上記のような言葉は古すぎるかもしれないが、威勢と調子の良さからむくむくとできあがるテントを想像させて楽しい。

と思ったら、堀下翔氏より連絡があり、この句にはなんと岡本眸の先行句があるらしい。

キャンプ張る男言葉を投げ合ひて  岡本眸

確かに、平成26年としてはキャンプよりもテントであってほしい。高校生に天晴れという気持ちである。







2015年2月17日火曜日

貯金箱を割る日 17[和田誠] / 仮屋賢一



司会者の慇懃無礼去年今年  和田誠

 喋ることが仕事とはいえ、司会業を営む人たち皆が完璧な日本語を使いこなせているわけでもなく、そのキャラクターは人それぞれ。中には、なんにも間違っていないのだけれども、使う言葉にどうにも違和感を覚えるような人だっている。特に敬語なんかで、聞く度に鳥肌が立つような、そんな感じ。日本語の問題、というより、その人のキャラクターの問題だろう。なんだか、「らしくない」とでもいうべき、あの感触。

 年末から新年にかけて、忘年会や新年会をはじめとして、何かとイベントが多い。テレビショーでも特別番組が多く編成され、司会の人々が多く目につく。そういう人々の慇懃無礼さも、一種の風物詩というような感じで、気にはなりつつも、こちらはこちらでワイワイやっている、だとか、お茶の間で家族団欒、和気藹々と楽しんでいるだとか、そんな風景が見えてくる。「無礼講」という言葉も思い浮かんでくるよう。昨年もなんだかんだありましたけど、総じていい年でしたね。今年もよい年になりますように。そんな具合だろうか。

《出典:和田誠『白い嘘』(梧葉出版,2002)》

2015年2月16日月曜日

黄金をたたく12 [三橋敏雄]  / 北川美美


かもめ来よ天金の書をひらくたび  三橋敏雄

輝かしくそして勇気づけられる一行の詩。七十年を経てもまったく古びない言葉の贈り物。

原句は昭和十二年四月「句と評論」に入選の〈冬ぬくき書の天金よりかもめ〉が初出。このとき敏雄十六歳。その後掲句の姿に改作の後、昭和十六年刊の合同句集『現代名俳句集・第二巻』「太古」に収録。このとき敏雄二十一歳、太平洋戦争が開戦された年である。その情勢下にありながら当時の西洋へ憧憬が〈かもめ〉〈天金〉に現れ、七十年以上を経た現在でも古びない。未知の世界に胸をときめかせる心地よさがある。

それまでの「俳句」という外的イメージ、例えば、畳の上で和服で渋茶をすすっているような光景。それが新興俳句によって、革張りソファーにウィスキーグラスを片手に男たちが語りあうようなイメージに飛躍したのだから相当なマイナーチェンジを果たしたともいえよう。朝ドラ「マッサン」の解説じみたことになるが、昭和十五(1940)年の国産スコッチウィスキーの国内最大の消費先は日本海軍という記録がある。(三橋敏雄は召集後、横須賀海兵団に所属。)


日本での天金の装丁本は明治・大正期にみられ、「内容は精神、装丁は肉体」といわれるほど、すばらし造本が展開された。夏目漱石の『吾輩ハ猫デアル』橋口五葉装丁、萩原朔太郎『月に吠える』画・田中恭吉、装丁・恩地孝四郎など美術品装丁といわれる。実際に敏雄は朔太郎の著作に親しんでいることが年譜から伺える。

この句の<天金の書>…自分ならどんな書籍か、というエッセイをいくつか見る。自分の書棚を見ると、高校生時に購入した革張りの小さな英和辞書、三省堂GEMが天金いや三方金だ。雀のような小さな辞書。自分にとっては、持っているだけで安心、実際に持ち歩いていたのは言葉によるコミュニケーションに興味が湧いた頃だったように思う。<かもめ来よ天金の書をひらくたび>の気分だったのだ。

<『太古』『青の中』所収>

2015年2月14日土曜日

人外句境 8 [佐藤文香] 佐藤りえ


蛍消えとなりの人とさはりあふ  佐藤文香

蛍狩りというほど大袈裟なものでもないような、どこか河原か、水の綺麗な場所なのか。
淡い光が消えたのを合図とするかのように、隣り合うものが互いの体に手を伸ばす瞬間が詠まれている。

「となりの人」という、関係性でなく位置のみをあらわすような書かれぶりから、その「となりびと」の表情が読み取れない。

むしろ表情など必要なくて、「さはる」ことにのみ神経を集中しているようですらある。

原始的な欲求に突き動かされている、みたいな。細かい機微は置いて、とにかくさわる、とでもいうような。

表情の見えなさから、さわりあっているのは、実は誰なのだろう?という、微妙な怖さが醸し出されている点もある。


ひらがな表記「さはりあふ」をじっと見ていると、体が見えてくる。

恋情とか欲情とか名付けてしまうのは野暮なようで躊躇われる、蔓のようなものが互いに向かって伸び巻き付き、からみあっていくのが見えてくる。


〈『君に目があり見開かれ』港の人 2014〉

2015年2月13日金曜日

今日の安井浩司 3  / 竹岡一郎


老農は鎌で泉を飲みにけり          安井浩司
老農には「年老いた農夫」の他に「熟練した農夫」の意もある。鎌で泉を飲むのも、その熟練の一端であるが、水を飲むのさえ本来は刃物を銜えるが如き危険を伴うのであると思わせる。生を保持するとは危険な事なのだ。鎌が何を暗喩させるかといえば、これは俳句において語られているのだから、俳人は当然、熟練の農夫であり、鎌とは言葉、もっと言えば俳句形式である。使いこなした研がれた鎌で鮮烈な泉を飲むが如く、句とは作られるべきであるか。

<「汝と我」(増補安井浩司全句集493頁)>

2015年2月12日木曜日

きょうのクロイワ 16 [塚本みや子]  / 黒岩徳将


縄電車傾きながら春野来る 塚本みや子

筆者は縄電車という遊びをしたことがない。想像でしかないが、楽しく、ときに甲高い子どもたちの声が聞こえてきそうだ。懐かしの遊びを題材にしてノスタルジーを演出する俳句は類想がありそうだが、中七の「傾きながら」が面白い。縄電車が傾くためには一番前と一番後ろがしっかりと張っていないと難しいだろう。何人いるかはわからないが、この縄電車のチームワークは相当によい。凄まじい勢いで春野を駆けてほしい、なぜなら筆者にはもはや難しいことであるからである。

<夕凪 2014年7月号(No.789)より>

2015年2月11日水曜日

貯金箱を割る日 16[和田誠] / 仮屋賢一



人形も腹話術師も春の風邪  和田誠


腹話術を見たあと、自分でもできるんじゃないかと思ってしまう。で、真似してみたら全然できない。こういう経験、あるだろう。どれほどの超絶技巧であっても、凄いと思わせないのがプロの技なのだろうか。腹話術という芸は見ている人々ととっても近い位置にある。

人形だって、人間と見紛うほどの精巧なもの、というものでは決してなくて、どこかがデフォルメされているような、いかにも人形らしい滑稽なもの。声を出しているのは腹話術師だって分かっていても、あたかも人形が生命を持っているように見えるから不思議だ。

そういう近しさや滑稽さからなのだろうか、腹話術の人形ほど風邪を引きそうな人形は他にない。大したことはないけれども、長引くという嫌らしさを持った春の風邪。もしかしたら風邪のことも盛り込んで軽妙な会話を舞台上で繰り広げているのかもしれない。

腹話術師が風邪を引いているから、当然のように人形も風邪、と言ってしまえばそれまでだけれども、この作品はそんな短絡的な世界観ではない。腹話術師と人形が、常に一緒に行動する相棒であるからこそ、風邪もうつってしまったかのようなこの感じ。絆というか、なんというか。和田さんのイラストとも相通づるものを感じるような、とってもあたたかな空気感がここにある。

《出典:和田誠『白い嘘』(梧葉出版,2002)》

2015年2月10日火曜日

黄金をたたく11 [石原吉郎]  / 北川美美


いちご食ふ天使も耳を食ふ悪魔も  石原吉郎 

作者は詩人の石原吉郎(1915 – 1977)。

最後の「も」がどこに掛かるのか、と考えつつ、上五に戻り、ぐるぐると循環する。俳句という一行詩ならではのこのマジックである。本人の自句自解では、「悪魔ガ食フ耳トハイカナル耳ナリヤ」ということが記されているが、上五に戻るという読み方は俳句的読み方なのだろうか。

天使・悪魔・☆☆という三者と、いちご・耳・○○ という三つの食べる対象があり、<天使―耳>というペアは崩せないが、☆☆、○○に好きなものを当てはめ、あとは好きに組み合わせてよく、それをシャッフルしてよいというルールで読みたい。

そしてみな食べている。 


この句集の巻末に石原吉郎の<定型についての覚書>が記されている。

「誤解を避けずにいうなら、俳句は結局は「かたわな」舌足らずの詩である。(中略)かたわであるままで、間髪を容れずもっとも完全であろうと決意するとき、作句はこの世界のもっとも情熱的ないとなみの一つとなる、「自由」な現代詩は、このようなパラドキシカルな苦悩と情熱を知りもしないだろう。」

三詩型を交え、「詩学」についての論考が盛んに行われていた時代である。
昭和50年前後…40年前の頃である。



<『石原吉郎句集』深夜叢書1974>

2015年2月9日月曜日

人外句境 7 [上田信治] 佐藤りえ


靴べらの握りが冬の犬の顔  上田信治

高級な靴べらを思い浮かべる。商店街の記念品の、プラスチックに商店名が刻印されたようなものではない。

金属製で持ち手とへら部分の間が細い棒状になっているものや、装飾の施された木製のもの、革製のものなど、持ち重りのしそうなものを思ってみる。

その握りの部分に犬の顔の装飾がある。装飾というと一部のようだが、犬の頭部なのかもしれない。傘の握りが鳥の頭だったりするように。

狩猟犬だろうか。チワワとかではない気がする。いや、チワワでもいいけれど、もっとこう、キリッとした犬種のほうがふさわしいだろう。

掴む部分がそのようになっているなら、来客用の靴べらだろうか。昭和の時分に立てられた邸宅の玄関を思い浮かべる。ひんやりした空気の漂う冬の玄関に、靴べらを持つ人がいる。


この句が「握り「に」冬の犬の顔」であれば、靴べらを観察したんだな、と思うところだった。またその「顔」は平面的なものに感ぜられる。

「握り「が」冬の犬の顔」であることから、靴べらの握りが手中にあるように思えた。そしてその「顔」は立体的で、その「顔」に触っている、そういう感慨が感ぜられる。

「が」を力点として、主体の認識が句の中心に据えられ、そんな主体を窺うでもなく、つるりとした瞳の冬の犬の顔がある。


〈『線路』週刊俳句第393号 2014落選展より〉

2015年2月7日土曜日

今日の安井浩司 2  / 竹岡一郎


さまざまな蛇持ち寄るや雲の下        安井浩司

 蛇は魔であり、時に毒であり、智慧であろう。要するに、神秘なるものである。時に神に最も刃向かうものでもある。持ち寄るのは同志であろうが、蛇はその同志たちの魔であり毒であり智慧であり神秘であり反逆であろう。雲は大いなる迷妄を思わせるが、蛇を持ち寄るのだから、季は夏であり、迷妄といえども明るく高く照り輝いているのだ。

「汝と我」(増補安井浩司全句集435頁)

2015年2月6日金曜日

きょうのクロイワ 15 [高木肥子]  / 黒岩徳将


立春や狛犬に血の蘇る   高木肥子


立春という時期に、命あるものでなく、人工物である狛犬に惹かれる作者の目線に惹かれる。狛犬の厳しい目元を想像させると同時に、「蘇る」とあるので石の下部から狛犬の全身に血が通い始めるイメージが筆者の中に広がった。

かつては生きていたのだ、と思うと、冒頭で書いた人工物という淡白な形容では言い表せないのが狛犬なのかもしれないと思わせてくれる。


「藍」平成27年2月号より

2015年2月5日木曜日

貯金箱を割る日 15[夏目漱石] / 仮屋賢一



初夢や金も拾はず死にもせず   夏目漱石

初夢だからといって、特別おめでたい夢を見るかといえばそうでもない。いつものように、訳の分からない夢だったり、現実と混同してしまうようなリアルな夢だったり、そもそも夢を見たかどうかすらあやふやだったり、そんなもの。でもそういう、日常と何ら変わらないことにめでたさや嬉しさを感じるのが人間。

とはいえ、「金も拾はず」がめでたいと感じるのも、考えてみれば不思議だ。さすがに100万円拾う夢を見たら不安も拭い切れないが、100円拾う夢だったら何の懸念もなく「めでたい夢だ」と思うだろう。多分、日常的で一般的なめでたさの基準は、ここだ。逆に1円でも落とせば、どこか不吉な感じが漂う。「金も拾はず」が、めでたさラインのすれすれを言い当てている。だからこそ、「死にもせず」が非常に幸せなものとして映る。


ところで、「幸せ」は、世相をリアルタイムで映し出すものだとつくづく思う。「死にもせず」生きていることがどれだけ幸せであるのか。一ヶ月前にこの句を鑑賞するのと、今日鑑賞するのと、心持ちが大きく異なる、という日本人は、特に多いに違いない。そう思いつつ、2015年の立春の日も終わりを迎えようとしている。

《出典:『漱石全集』》

2015年2月4日水曜日

黄金をたたく10 [須藤徹]  / 北川美美


白梅や水匂う夜の飛行服  須藤徹 

たとえば夜間飛行。飛行機に乗っている間、機内は今日でも昨日でもない不思議な時空を旅する空間となる。眼下に見える街の灯りがどんどん遠ざかり、遠い地平線が消えて、 ふかぶかとした夜の闇に心を休める…夜の静寂(しじま)の…なんと饒舌…な…ことでしょう…ジェットストリーム…(FM東京長寿番組)。

そして、梅が咲く頃は、地球を意識する。寒い季節に咲く小さく丸い花びらからの形からだろうか、梅は、人を戸外へといざなう。季節が移る=地球の自転、を意識するからだろう。空の香に水の香があるように…作者はグラスを傾けながら酔いしれているのである。 大人の男の冒険心とロマチシズムが漂う。

<『幻想録』邑書林1995年所収>

2015年2月3日火曜日

人外句境 6 [大石雄鬼] 佐藤りえ


木乃伊の手胸にとどかず雁渡る  大石雄鬼

ミイラときけば古代エジプトの王の墓や、日本なら入定、即身仏といったものが浮かぶが、そうしたやんごとなきひとびとにかぎらない、ひとりのミイラを眼前に置いてみる。

そのミイラには手がある(全身が現存するか、部分的に残るかは生成の過程や環境による、らしい)。まっすぐ体側に伸ばされているのか、胴体の上で軽く組まれているのか。その手が動き、自らの胸に届くことはない。

胸は心臓の位置とされ、なおかつ「心」や「魂」のある場所と仮定されがちな場所でもある。不老不死や蘇りといった事々に彩られたミイラの、その手が胸に届いていないという把握は、少しの不全感を連れてくる。

死してもなお、生きている人々の想像力によって、ミイラはある意味生かされている状態にあるとも言える。

その「死に切れない」不全をおぎなうには、祈りでも捧げるよりほかはない。

ミイラの「手」と「胸」に関する深読みは、そこに帰着する。


〈『だぶだぶの服』ふらんす堂 2012〉

2015年2月2日月曜日

今日の安井浩司 1 / 竹岡一郎


鴉裂いて火の源(みなもと)を摑み取る    安井浩司

鴉は八咫烏であろうか。或いは、楚辞に記される「日輪に潜む三本脚の鴉(火烏)」であろうか。太陽の精気が凝り集まったものと言われ、その足の数が三本なのは、陽の気はその数が奇数であるからという。掲句は、太陽を裂いているのである。火の源とは、陽の源である。「高浜虚子私論」において、安井は虚子の巨人願望について触れている。「一人の夢想家が、俳句形式を通してのみ自立しようとするその渇仰の対象であり、極小が、また、極大であることの大いなる意図を仮託しようとしていたのではなかろうか。」掲句も、巨人を詠った句なのだ。


『四大にあらず』(増補安井浩司全句集661頁)