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2017年8月22日火曜日

続フシギな短詩169[飯島耕一]/柳本々々


  きみがあれほど見たのだから
  プールの四角な青空も
  見知らぬ女の背中の水滴も
  唇の 佐久間良子のポスターも
  すべてきみのものだ
  きみはあれほど見られたのだから
  きみは四時半とは
  何時のことですかと
  水着の小学生にきかれたのだから
  殺すぞと泥酔した帽子の朝鮮人に
  言われたのだから
  紀伊国屋書店の地下街で
  raison とはどういう意味ですか
  とペーパーバックの表紙を指さす
  二人の若い男にきかれたのだから
  きみはすでにきみの私有ではない
    飯島耕一「私有制にかんするエキス」

飯島耕一の詩ではある同じ質感をもった言葉がなんどもなんども少し違った感じをともなって繰り返されることで、その言葉そのものがどんどん解析されていく。

  きみのものがある
  きみのものはない

  (……)

  この水が誰のものなのか
  きみは言うことができない
  あるいは言うことができる

 (……)

  きみはきみより
  はるかに大きな空間のなかにいる
  あるいはいない
  その空間は
  きみの所有物だ
  なぜならその空間は
  きみがいなければ存在しないから
  (飯島耕一、同上)

「きみ」「もの」「言う」「いる」「空間」「ある」「ない」がなんどもおなじふうな・ちがったかたちで繰り返されることで、「ある」と「ない」の微妙なひだにわけいっていく。

この詩にはなんにもないし、すべてがある。

  きみが一切の自由を獲得するには
  一切の私有を否定する
  以外にない
  あるいは一切を 私有する
  以外にない
  セックスも
  戦死者も
  そして詩もだ。
  (同上)

ここには「セックス」も「戦死者」も「詩」も、すべてをじぶんのものにしようとおもえばできるが、しかしそのすべてはじぶんのものにしないことを選択するしかないことが同時にあらわれている。

なんにもないし、すべてがあるのだが、しかし、大事なことは「きみ」と二人称的語りかけがこの詩の全編をとおして行われていることだ。

たとえ言葉が微分されていっても、「きみ」のなかでどんどん微分されるたびに・積分されていくものがある(ちなみにこないだ取り上げた河野聡子さんの詩も二人称的語りだった)。

  二人称にとっての無限。無限は、結局あらゆるものを含んでしまう。今はこれを外部から読んでいる「あなた」が、実は既に、ここで論じられている対象内部に含まれているというような事態が起きうる。つまり、外側に立つ視点を確保できない。これが二人称的な様相だ。
  (西川アサキ『魂のレイヤー』)

この詩を読んでいる「きみ」である読者の「あなた」という〈わたし〉は「外側に立つ視点を確保できない」。言葉が分解されていくなかで、「きみ」は内側に巻き込まれながら、なにかを託されている。詩がおわるころには。

この「私有制にかんするエスキス」は、半世紀前の詩なのだが、以前取り上げた最果タヒさんも少しこの詩の質感に似ているところがある。

  きみに会わなくても、どこかにいるのだから、それでいい。
  みんながそれで、安心してしまう。
  水のように、春のように、きみの瞳がどこかにいる。
  会わなくても、どこかで、
  息をしている、希望や愛や、心臓をならしている、
  死ななくて、眠り、ときに起きて、表情を作る、
  テレビをみて、じっと、座ったり立ったりしている、
  きみが泣いているか、絶望か、そんなことは関係がない、  最果タヒ「彫刻刀の詩」

たえず「きみ」を通した二人称的語りかけが行われていくなかで、「きみに会わなくても/それでいい」「会わなくても、どこかで、/息をしている」「きみが泣いているか、絶望か、そんなことは関係がない」と、「きみ」を通して〈動詞〉が「ない」へと否定されていく。「きみ」への〈行為〉がなしくずしにされていくのだが、しかし、そのなくなっていく行為のなかで、「きみ」は積み上げられていく。詩がおわるころには。

詩とは、なんにもない場所で、詩がおわるころには、なにかが積み上げられていくものなのかもしれない。ひたすら、微分し、分解しても、それでも「きみ」のなかに、なにかが残ってしまう。それを、、と呼べないだろうか。

  来るべき古代には
  きみは水をくぐるように
  生きることができる
  来るべき古代には
  きみは言語によって苦しまない
  来るべき古代には
  きみはきみとは
  別のものである。
   (飯島耕一「私有制にかんするエスキス」)

  

          (「私有制にかんするエスキス」『現代詩文庫10 飯島耕一詩集』思潮社・1968年 所収)

2017年8月20日日曜日

続フシギな短詩165[河野聡子]/柳本々々


  きみはいろいろな人にいろいろな名前で呼ばれる。きみの人生はスマホの画面に流れていく。だれかがきみの物語を読む。きみはもう不滅を求めない。生きている者だけがきみの名を呼ぶ。  河野聡子「きみを呼ぶのは生きている者だけだ」

詩「きみを呼ぶのは生きている者だけだ」は、「きみ」のこれまでの人生のさまざまな〈傷〉をめぐって書き継がれていく。たとえば冒頭はこんな一行だ。

  きみが車にはねられたのは仮面ライダーの三輪車に乗って路地裏で遊んでいたときだった。

そして「きみ」の少年期・青年期の〈傷〉(それは周囲の「きみ」の他者〈傷〉も含めて)語った語り手はこんな言葉を挿し挟む。

  たくさんの出来事がおきるが
  階段をいちだんいちだんのぼってはおりるようなものだ
  きみはよく知っていただろう
  ころびやすい段もすべりやすい段も
  きみの足にはとどかないように思える高い段も
  とりあえず踏んでしまえばいいのだと

興味深いのは、「階段をいちだんいちだんのぼってはおりるようなものだ」と「いちだんいちだん」のぼったにも関わらずそれが〈人生の経験値〉として積算されていかないことだ。〈傷〉なのに、だ。

傷なのにそれは決定的なものにならない。車にはねられても、ひたいを縫っても、妹を溺れさせても、学校に行かなくなっても、小指を骨折しても、鼻の骨を折っても、右脚を骨折しても、親友がバイク事故で死んでも、マルチ商法に入れ込んだ恋人と別れても、何年か失業しても、ハワイで結婚したのちべつのひとと駆け落ちしても、それは〈傷〉ではあるが、加算された経験値としての傷にはならない。「のぼってはおりる」なのである。

だとしたらこの〈経験値の質〉とはなんだろう。この〈傷の質〉とはなんなのだろう。このフローな傷/経験値の質の感覚。はこばれているような。これは、なんだ。

冒頭に引用した詩の最後の箇所に少しヒントがある。「きみはいろいろな人にいろいろな名前で呼ばれる。きみの人生はスマホの画面に流れていく」。人生は「スマホの画面に流れ」「きみはいろいろな人にいろいろな名前で呼ばれる」。フローな傷の質感は、このスクロールされる「のぼってはおりる」生の感覚からきているのかもしれない。

でも大事なことがひとつある。詩の最後の一行「生きている者だけがきみの名を呼ぶ」だ。これはこの詩のタイトルにもなっている。この詩は最後にスマホできみをみるオーディエンスではなく、「生きている者」で「きみの名を呼ぶ」ものを見いだしている。もちろんそれはこの詩の語り手自身もそうなのだ。「きみ」の人生の傷をフローするように語りながら、最終的に「生きている者だけが」と「きみの名を呼」び強く刻むような語りにたどりついている。「生きている者」は語り手自身でもある(この詩では根強いかたちで〈死〉が抑圧されておりそれもひとつのテーマになっている)。

わたしはそうした「生きている者だけが」という、ある意味では死者を差異化し排除した強度のある〈生〉が「スマホの画面に流れ」る人生と対立しているとは思えない。むしろそれを含みこんでなお刻まれるような、フローから生まれた強度のある語り口がここには同居している。

  きみは長いあいだ呼ばれていると感じていた
  とにかく段を踏まなくてはならない
  自由にのぼったりおりたりできるわけじゃない

傷を特別視することなく、しかしそのフローな感覚のなかから、力強い語りがうまれること。

すごく、詩って、不思議だとおもう。

          (「きみを呼ぶのは生きている者だけだ」『ユリイカ』2017年4月 所収)