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2017年9月20日水曜日

超不思議な短詩225[石川美南]/柳本々々


  村を捨てた男の家はこの冬より民俗資料館へと変はる  石川美南

石川さんの短歌にとっては、テキスト(文字/文章/資料/書物/物語)と生世界の交渉がとても大事なテーマのように思う。

掲出歌。それまで生活空間として生きられていた「男の家」は、「民俗資料館」という読みとられるテキストの館へと変わる。これは「村を捨てた」という共同体の離脱と深い関わりがある。ひとが共同体を離脱するその瞬間は、ひとがテキストそのものになる瞬間かもしれないということを示唆している。

その流れでこんな短歌をみてみよう。

  何ひとつうまく行かざる金曜よポップだらけの書店にひとり  石川美南

「何ひとつうまく行か」ないという生世界=現状の噛み合わなさが「ポップだらけの書店」というやはりテキストの〈館〉と複合される。書店もやはり「民俗資料館」のように「ポップだらけの書店」として読みとられるテキスト空間をなしているのだが、「ポップだらけの書店」という複雑なテキスト空間がある問いを喚起する。

いったいテキスト空間とはなにが読まれえて・なにが捨てられるのか、と。「民俗資料館」にしても「ポップだらけの書店」にしても、本当に読まれるべきテキストは「民俗」や〈書物〉のはずなのだが、そこには「資料館」や「ポップ」でパッケージングされてしまったがために〈到達できないテキスト〉もあらわれてくる。つまり石川さんの短歌では、生活世界とテキストがまず交渉しているのだが、そのテキスト空間も「ポップ」対〈書物〉とテキスト同士が交渉しあっているのだ。

  実現に至らなかつた企画たちが水面(みなも)に浮いて油膜のやうに  石川美南

そして読まれえなかった企画(テキスト)たちは、生活世界のなかに「油膜」のようにどろどろした記号ならざるものとして、帰ってくる。

  空色の胸をかすかに上下させ呼吸してゐき折り紙の犬  石川美南

  鼻うたや夢の類(たぐひ)も記録して完璧な社史編纂室よ  〃

「折り紙の犬」というテキストになれたはずの「紙」が「呼吸」という生命を帯びながらこちらの世界に帰ってくる。一方で、「鼻うたや夢の類」は、「記録」され、〈テキスト〉となり、わたしたちの生きられる生活世界から「完璧な社史編纂室」というもう手のつけられることも変化することもできない〈死んだテキストの館〉へと葬られる。

こちらとあちらの往還の物語。歴史ではこれまでも・これからもずーっと反復されてきた物語だ(最古では『古事記』の死んだ伊邪那美(イザナミ)に逢いたくて黄泉国に逢いにいった伊邪那岐(イザナギ)のあちらとこちら。日本最古の引きこもりともいわれる天照大神(アマテラスオオミカミ)がこもった天岩戸というあちら)。

たとえばこんなふうに同時代の漫画文化と結びつける想像もしてみたい。石川美南さんの歌集『裏島』は2011年に刊行された。 諫山創の漫画『進撃の巨人』の連載がはじまったのは2009年だけれども、『進撃の巨人』では〈壁(か・べ)〉を介して、こちら側とあちら側が行き来する、ときに、こちら側があちら側であったりあちら側がこちら側であることが露呈してゆくこちらとあちらのねじれの物語が描かれた。花沢健吾『アイアムアヒーロー』も感染によって〈強化ゾンビ化〉してゆく感染を介したあちら側とこちら側の物語だったが、それは〈わたし〉の感染可能性によってあちらとこちらが交錯しねじれていく物語としてもあった(『アイアムアヒーロー』には、ほかにも非モテ/モテ、2ちゃん的情報世界/非2ちゃん的情報世界などさまざまな境界の往還がある)。

石川さんの歌集のなかには、〈紙(か・み)〉を介したテキストと生世界の往還や交渉、交錯が描かれており、テキストと生のどちらかがどちらかへと影響を与え続けるような一方的な関係は描かれてない。テキストと生は交渉しあい、あちらとこちらはねじれつづける。

あちらとこちらの境界線は、ねじれ、たびたび、ずっと、ゆらめく。

あちら(テキスト)と、こちら(生)は、ときどき、ちかづき、交渉し、ひっくりかえり、こちら(テキスト)とあちら(生)になり、また、ちかづく。

書き「足」すたびにわたしたちは境界線をつくり、あなたとわたしとあちらとこちらにわかれる。

  凸凹に描き足してゆく、ある人は煙をある人は階段を  石川美南


          (「晩秋の」『裏島』本阿弥書店・2011年 所収)

2017年9月4日月曜日

続フシギな短詩199[吉田恭大]/柳本々々


  名詞から覚えた鳥が金網を挟んでむこう側で飛んでいる  吉田恭大

最後はこの歌で終わりにしようと、おもう。

高柳蕗子さんが『短歌の酵母Ⅱ 空はともだち?』において最後にあげられている歌だ。

  喜びも悲しみもしない。この無感動には、“興ざめ”が感じられる。
  [向こう側]が見えているにもかかわらず、ここは[果て]なのだ。その遮るような遮らないような状態を「金網」が表していると思う。……
  言葉の[果て]は眼前にある。表現はその[こちら側]のものである。……
  見つけた人がいる以上、言葉の[果て]はこの先も少しずつ意識され続けるだろう。
  (高柳蕗子『短歌の酵母Ⅱ 空はともだち?』)

「名詞から覚えた鳥」という記号と物の一致する「鳥」が「金網」の「むこう側」を飛んでいる。そのとき鳥の名前である記号表現とその鳥の意味そのものの記号内容と、今実際に飛んでいる鳥そのものを一致させることはできる。しかしそれは金網のむこう側にいる。《みる》ことはできる。しかし、みたからといって、この届かなさは、なんなのか。しかし、その届かなさを意識できた人間だけが届いてしまう領域がある。

  ああむこう側にいるのかこの蠅はこちら側なら殺せるのにな  木下龍也

「むこう側」にいる「蠅」。《みる》ことはできる。しかし「こちら側」にいないので、「殺せ」はしない。ここには、「むこう側/こちら側」という記号的分節が、現実の分節に及んでしまった人間が描かれている。これもひとつの届かなさだが、この届かなさに届いてしまった人間だけが入り込めるところに踏み込んでいる。

  3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって  中澤系

「理解できる人/理解できない人」という〈脳〉の問題。しかしそれも単なる「電車が通過するから危険/電車が通過するということがわからない危険もわからない」という〈記号の答え合わせ〉的問題に過ぎないような状況。だとしたら、理解とはなんなのか。理解と記号の関係は? だれが理解できて・だれが理解できないのか。そして、どんな大きな主体が、わたしたちを「こちら側」と「むこう側」にわけているのか。大きな主体は、金網を《どこ》に用意している?

短詩をずーっとみてきて今思うのは、この「こちら側」と「むこう側」の問題だったようにおもう。定型は、どうしても〈外部〉をつくりだす。でもその〈外部〉は捨て置かれずに、内側に取り込んでいくのもまた定型詩であり、短詩である。でもそのうちとそとの境界線を、それを読む人間は、〈どこ〉に据えたらいいのか。それが、短詩には、ずーっと問われているような気がする。定型とは、つまり、吉田さんの歌のことばを使うなら「金網の置きどころ」なのではないかと、おもうのだ。

金網は、どこにあるのか。

ずっとそれがわからなくて、ひとは短歌を読んだり川柳を読んだり俳句を読んだりするのではないか。

外にいっても外にいってもどれだけ外にいってもずっと内側においてある自転車。この自転車は、なんだ?

  外国はここよりずっと遠いから友達の置いてゆく自転車  吉田恭大


          (「袖振り合うも」『短歌の酵母Ⅱ 空はともだち?』沖積舎・2016年 所収)

2017年2月28日火曜日

フシギな短詩88[丸山進]/柳本々々


  あなたから見ても私は変ですか  丸山進

現代川柳を考えようとしているときにいつも丸山さんの川柳は私にとってのひとつの指標になっている。

今回の記事はこの文にふたたびかえってくることができたら終わりにしようと思う。

現代川柳を考えようとしているときにいつも丸山さんの川柳は私にとってのひとつの指標になっている。

分水嶺と言ってもいいかもしれない。

なんの?

詩と社会の境界線である。

川柳には大きくわけてふたつある。世間の斜め=トホホな感覚をユーモラスに描いたサラリーマン川柳と呼称されるものと、世界の事物を問い直そうとする境界=幻想的な詩性川柳である。

基本的に「川柳を知っていますか」ときくと、だいたいのひとは「サラリーマン川柳」を思い浮かべる。詩性川柳があることは知られていない。私も数年前までは知らなかった。これは〈知らないから知らない〉のではなく、〈知っていたから知らなかった〉のである。だって川柳といえば、サラリーマン川柳に決まってるじゃないかとはじめから思いこんでいたから。

サラリーマン川柳と詩性川柳。これらは一見、異なるもののように思われる。そこにはたしかな境界線があるようにもみえる。

ところが丸山さんの川柳はサラリーマン川柳と詩性川柳の境界線をこわしてくる。その分節に息づく〈なにか〉を描こうとするのが丸山さんの川柳なのではないかと私は思っている。

つまり丸山進の川柳を読むということは、サラリーマン川柳と詩性川柳はほんとうにそんなにはっきりと分けられるものなんですか、と自らに問い返すことになるのだ。先ほどから大きなことばかりしゃべってしまっていて、柳本どうした、と思われるかもしれないので具体的に句をみてみよう。

  あなたから見ても私は変ですか  丸山進

これをたとえばサラリーマン川柳の枠組みを用いて、夫が妻からみられている〈情けない構図〉を描くことは可能である。世間から「変」だと思われているけれど、家族から「見ても私は変」なのだろうかとトホホな風景を描くことができる。言わば、愛を問いかける〈普遍〉的な句に。

ところがそれを詩として反転させることも可能だ。この「あなた」は読者のひとりひとりに切実に問いかけてくる実存的な「あなた」として機能する。それは「から見ても」という言葉の使い方によるものだ。他のひとはわたしを変だと見ている。それは、いい。でも、「あなた」はどうなんですか。わたしはあなたに問いかけたい。「あなたから見ても私は変」なの「ですか」。

言語の技術的な面が駆使されることで読み手である〈あなた〉に実存的に問いかける構造になったこと。わたしはそうした文を詩と呼びたいと思う。

つまり、〈どう〉読むかで丸山さんの川柳は表情が変わってくる。それを端的に象徴するのが今回の句だと思う。サラリーマン川柳と詩性川柳はそうかんたんに分割できるものではない。わたしはここに現代川柳のひとつの可能性があるのではないかとすら、おもう。

だから最初の文にもどる。
現代川柳を考えようとしているときにいつも丸山さんの川柳は私にとってのひとつの指標になっている。

おや、かえってきた。終わりにしよう。

  交番の前はスキップして通る  丸山進

          (『おもしろ川柳会 合同句集』10号・2016年10月 所収)