2020年11月26日木曜日

DAZZLEHAIKU50[井越芳子]  渡邉美保

 けふの日が野にゆきわたり冬の虫    井越芳子  
   
 歳時記によると、「冬の虫」の本意は「虫の声の盛んな秋と絶える冬との間の時期の鳴き声をいう」とある。

 掲句から、小春日和の一日を思う。
 小春の日差しが野にゆきわたり、地面も、触れてゆく木も草もあたたかい。
 初冬のほっとするひとときである。
 上着を脱いで草に坐れば、どこからともなく鳴く虫の声がする。盛んに鳴いていた時には思いもよらないような寂しい音色で、愛おしい。

 「けふの日」の日差しの明るさやぬくもり、虫の声のやさしさが、読者の五感を包んでくれるような気がする。
 「野にゆきわたり」からは、冬に向う季節の中で、あたたかい日の恵みを小さな虫たちと共有できたことの喜びのようなものが感じられる。

 冬の虫(残る虫)のはかなげな声が絶えると真冬になるという。

           〈句集『雪降る音』(1019年ふらんす堂)所収〉

2020年10月11日日曜日

DAZZLEHAIKU49 [高橋道子]  渡邉美保

   こは夢と思ひつつ夢曼珠沙華    高橋道子  

 
 子どもの頃、田圃の畔に咲いていた彼岸花を摘んで花束にして家に持ち帰ったことがある。母に、すぐに捨ててくるようにとひどく叱られた。母の嫌いな花だつた。その頃は曼珠沙華という名前は知らなかった。
曼珠沙華は、秋の彼岸の頃、突如として真っ赤な、蘂の長い美しい花を咲かせるが、墓地などにもよく咲くので、死人花、幽霊花などの別名もある。美しいけれど、毒々しくも、禍々しくも感じられる花である。
 「これは夢だ」と思いつつ夢をみていることは、ままある。
掲句は、その夢については何も触れていないが、季語の曼珠沙華から、夢全体が真っ赤に染まっているようなイメージが浮かぶ。これはきっと、怖い夢に違いない。
訳のわからぬ恐怖に逃げ惑い、追い詰められ、これは夢なのだと自分に言い聞かせるのだが、それもまた夢なのだというとりとめのなさ。曼珠沙華が「こは夢と思ひつつ夢」をリアルなものにしている気がする。

〈曼珠沙華に鞭うたれたり夢さむる 松本たかし〉こちらの夢は、怖いけれど、夢から覚めた後の余韻に、どこか妖艶で甘美な匂いがする。

〈句集『こなひだ』(2020年/ふらんす堂)所収〉

2020年8月28日金曜日

DAZZLEHAIKU48[仙田洋子]  渡邉美保

   揚羽蝶派手な死装束だこと    仙田洋子  


  息絶えた揚羽蝶が道端に落ちているのを見ることがある。ありふれた夏蝶の死である。翅が破れていたり、埃っぽかったりしてはいても、どこか見過ごせないものがある。大振りで未だ光を帯びた翅の質感、黒地に鮮やかな黄や青の色彩。骸となってもよく目立つ。確かに派手である。
  「派手な死装束だこと」のつぶやきがそのまま一句になっている。そのつぶやきの背後にある作者の感慨を思う。
 真夏の暑さの中を狂おしく飛び回った果ての揚羽蝶の死には、外見の派手さとはうらはらに、寂しさや、痛々しさが感じられる。そして、同句集中の〈夏蝶もみな孤独死ではないか 仙田洋子〉の句がそのまま諾える。
   
   八月の石にすがりて
   さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる。
   わが運命(さだめ)を知りしのち、
   たれかよくこの烈しき
   夏の陽光のなかに生きむ。
    ・・・・・    

  伊東静雄「八月の石にすがりて」より


   〈『はばたき』(2019年/角川文化振興財団所収〉 

2020年8月7日金曜日

DAZZLEHAIKU47[おおさわほてる]  渡邉美保

    机拭く隅から隅まで夏野まで    おおさわほてる


 乱雑に積み上げられた本やノートで、いつのまにか狭くなった机上をきちんと片づけた時の爽快感は格別だ。不用のものを取り除くと机は広々と
して、自分自身のスペースを取り戻した気分になる。本、ノート、紙類を置きっぱなしにしていた机は、意外なほど埃に塗れている。
 机を拭く。隅から隅まで。机を拭く私は、たちまち夏野へ飛ぶ。今、私を取りまく世界は夏野になっている。
 
真っ青な空。白い雲。太陽が降りそそぎ、一面に生い茂った夏草が風にそよいでいる。作者は、どんな夏野に立っているのだろう。作者の胸に去来するものを想像させてくれる。掲句に付されたエッセーに、
記憶は突然よみがえる。そして美しい。
今日は窓を大きく開けて、
  夏の風を迎えよう。           
とある。記憶の中の夏野のはなやぎと寂寥。机を拭く行為から夏野への飛躍が清々しい。

〈 頭の中で白い夏野になってゐる 高屋窓秋 〉の有名な句を体現しているかのようだ。


〈俳句とエッセー『気配』(2020年/創風社出版)所収〉

2020年7月9日木曜日

DAZZLEHAIKU46[仙田洋子]  渡邉美保

 死にくらげけらくけらくと漂へり  仙田洋子  


 クラゲが波間をゆらゆら漂っている。多くのクラゲは自力で泳いでいるのだけれど、なかには、すでに死んでいて、ただ、身体だけがゆらゆら浮いていることもあるだろう。波間を漂う姿には、のんきそうに見える時もあり、寄辺ない寂しさを感じるときもある。
 クラゲの寿命は、種類によって違うそうだが、日本近海に最も多く見られるミズクラゲは寿命が一年前後あるというから、意外と長寿。

 掲句の「死にくらげ」という表現にドキリとするが、死んでなお「けらくけらく」と漂うくらげは、なんだか幸せそうにも思える。
「くら・けら・けら」のK音とR音の繰り返しが一句にリズムを生み、あっけらかんと明るい。なにしろ、けらくけらくなのだ。
「けらく」は、仏教でいう「快楽(けらく)」のことかと思う。人が普通に考える快楽(かいらく)とは意味が違い、いわば普通の快楽を捨てることによって得られる快感という意味だという。
くらげの死を哀れんだり、儚く思ったりするのではなく、生も死もひっくるめて自然界のあるがままを受け入れる。ここに作者の生き物たちへのおおらかな眼差しを感じる。 
〈『はばたき』(2019年/角川文化振興財団所収〉

2020年6月10日水曜日

DAZZLEHAIKU45[小島一慶]  渡邉美保

   夏めくや亀の子束子専門店  小島一慶

 なにげないものに夏の気配を感じる一瞬がある。作者の眼に映ったのは亀の子束子専門店。
   亀の子束子という地味で武骨な、昔ながらの台所用品を扱う専門店があり、夏めいている。そんな視点に惹かれる。
 明るく瀟洒な店内に、並べられているであろう大小さまざまの亀の子束子を想像する。毛先のきっちり揃った真っ新の亀の子束子たちが、初夏の光の中で輝いているにちがいない。棕櫚やパーム椰子の繊維という天然素材の持つ清々しさ、素朴な色合い、その亀の子に似た楕円の形。涼やかさはまさしく夏の匂いを放っているだろう。勢いよく水を流し、思いっきりごしごしと束子で丸洗いする爽快感を思う。
 
 亀の子束子のオレンジ色のパッケージには「…明治40年の発明から百年来その姿は変わらない手作りによる高品質のたわし」と謳う。明治時代から使い続けられている、誇り高い亀の子束子の夏が来る。 


〈『入口のやうに出口のやうに』(2019年/ふらんす堂)所収〉

2020年4月2日木曜日

DAZZLEHAIKU44[大島雄作]  渡邉美保


  電球を振つてさりさり春の雪    大島雄作

 電球をくるくる左に回し、ソケットから外す。外した電球を耳元で振る。替えの電球をくるくる右に回して取り付ける。よくある光景だった。
外した電球を耳元で振ると震えるようなかそけき音がした。白熱電球の中のフィラメントが切れている証である。球形の薄いガラスの中で、か細い金属の線が切れて動く音は実に繊細だ。
  掲句から、久しく忘れていた、切れた電球の音の「記憶」が甦る。まさしく「さりさり」と懐かしい音である。
 折からの春の雪。淡く、溶けやすい、降ってはすぐに消えてゆく春の雪と、無機質の電球、しかもその音との取り合わせが、かくもノスタルジーをかきたててくれるとは。
電球そのものがいつしか消えてゆき、忘れられゆく運命にあるからなのだろうか。

 我が家でも白熱電球はLED電球に変わった。寿命が40,000時間とかで、白熱電球の1000時間をはるかに凌駕している。交換の手間は減り、交換時に振っても無音のままだ。あの音はもう聞こえない。
〈句集『一滴』(2019年/青磁社所収〉

2020年2月29日土曜日

DAZZLEHAIKU43[辻 美奈子]  渡邉美保

  アボカドに種の重たき春の月    辻 美奈子


 熱帯アメリカ原産のアボカドは、今や、年中スーパーに並ぶ人気の果実のひとつである。それ自体には季節感が乏しいと思っていたが、アボカドの種と春の月の取合わせの新鮮さに惹かれた。
 アボカドの中央を縦に一周するように刃を入れ、全体を少しひねると、実はきれいに半分に分かれる。種から剥がれた方の半分は、丸いへこみをもち軽やかだが、残りの半分には、丸い大きな、いかにも重そうな種が残る。それは、輪を持った惑星のようであり、種はまんまるの月のようでもある。 ぽってりとした重量感はまさしく〈アボカドに種の重たき〉である。
 また、水分をたっぷり含み、しっとりと艶やかな春の月も、上空にありながら〈重たき〉を共有しているように思われる。
 アボカドの種と春の月の重たさが呼応して、どこか心許ない春の夕べである。


〈句集『天空の鏡』(2019年/コールサック社所収〉

2020年2月6日木曜日

DAZZLEHAIKU42[千坂希妙]  渡邉美保


  日向ぼこ靴下脱いでふと嗅いで       千坂希妙

  え~、嗅ぐの? と思わず笑ってしまう一句。
 冬日にあたたまり、いい塩梅に身体も心もほっこりほぐれ、足先ももそもそと、つい靴下も脱いでしまう。靴下を脱いだときの開放感。その気持ち良さが伝わってくる。
 そして、脱いだ靴下をふと嗅いでみる、たった一人の日向ぼこ。けっして、いい匂いとは言えないことは明々白々。その仕草を想像すると可笑しいが、どこか哀感が漂う。
 芳香ではないとわかっていても、つい嗅いでしまう、あるいは嗅ぎたいと思う心理は一体どこから来るのだろう。
 嗅覚には、へんなにおいを嗅ぎたいという欲求があるのではないかと思うことがある。ウォッシュタイプの山羊のチーズの強烈なにおいを嗅いで大笑いしたことがある。なんだか喜んでいるように…。

 句集中の〈手囲ひの螢を嗅いでゐてひとり〉〈新藁の匂ひがしたる馬糞かな〉
どちらも、佳き匂いとは言えない匂いを嗅いでいる。あたたかく、切ない作者の嗅覚である。

〈句集『天真』(2019年/星湖舎)所収〉

2020年1月9日木曜日

DAZZLEHAIKU41[東金夢明]  渡邉美保

  身から出た錆も美し冬の釘  東金夢明

 古い木造家屋の片隅で、壁に打ち付けられた一本の釘を思う。それ自体が無機質な、硬く細く冷たい釘であるが、長い年月の間に錆を纏う。錆を纏いつつ、冬の冷たい空気の中で、今、確固たる存在感を示している一本の釘。それを美しいと感じる作者がいる。その釘の美しさは、とりもなおさず、その錆の美しさなのだ。
「身から出た錆」は、自分の犯した悪行の結果として自分自身が苦しむこと、自業自得などの意味で、たいていは否定的に用いられる慣用句である。しかし、その慣用を裏切り、作者が〈身から出た錆も美し〉と言い切ったとき、この言葉は、新鮮な詩語として息づく。引き締まった堅固な響きが快い。
 混沌としたこの世界で、釘は釘であり続ける。身から出た錆が美しいという断定的な表現と、厳しい冬の出会いが、掲句の美しさを際立たせているのではないだろうか。
そして、私たちは自分自身の「身から出た錆」についても考えさせられる。

〈句集『月下樹』(2013年/友月書房)所収〉