-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
2017年9月1日金曜日
続フシギな短詩193[普川素床]/柳本々々
未来から過去へ点いたり消えたりしている電気 普川素床
では、現代川柳のアクセスポイントはどうなっているのだろう。
たとえば掲句。電気は「未来から過去へ点いたり消えたりしている」。こんなふうに〈倒錯〉したアクセスポイントを見いだすのが現代川柳なのではないかと思う。例をもうすこしあげよう。
塔を空へ継ぎたしぼくの故郷は東京です 普川素床
これは頭ではありません私の帽子です 〃
顔のスイッチを入れる 夜を消すのを忘れていた 〃
歯のない空を笑うばあさん 〃
なんとなく明るい方が地獄だな 〃
追伸の明るい雨をありがとう 〃
塔を空へ継ぎ足していくことで現れる東京。頭とみまちがわれる帽子。スイッチを入れて消される夜。ばあさんではなく空に歯がない。明るい地獄。追伸のありがたみ。
ここでは一般的な概念や価値が転倒されている。そしてその転倒にアクセスポイントが見いだされている。転倒のアクセスポイントをみいだしたときが、現代川柳が成立するときなのである。これは戦後の革新川柳(テクスト川柳)を立ち上げた中村冨二が、そもそも、そうだった。
影が私をさがして居る教会です 中村冨二
嫌だナァ──私の影がお辞儀したよ 〃
私の影よ そんなに夢中で鰯を喰ふなよ 〃
肖像は私を見て居ないぞ 私の消滅だぞ 〃
(『童話』かもしか川柳社、1989年)
ここでは私より影に主体性を置くという倒錯されたアクセスポイントの発見が現代川柳になっている。その影の主体性は、普川さんのこんな句が引き継いでいる。
さむいだろうね鏡と影がなかったら 普川素床
少年とぶ己れの影に刺されるために 〃
ぼくを食う影は大食漢である 〃
しかし、どうして俳句とちがって、川柳はこんなに転倒をその基盤に据えるようになったのだろう。ちょっとわからない。
ただこんな推測をしてみることはできるかもしれない。俳句には切れがある。切れというのは、構造を切断するので、そこに意味のジャンピングボードができる。俳句は切れによって、短くても、意味の深い空間をうむことができる(たとえば、「ゴジラ 対 エヴァンゲリオン」の「対」が〈切れ〉だと考えてみよう。そうすると短い言葉でも、深い意味をもたせることができる)。
ところが川柳には切れがない。切れがないということは、べたーっとしていて、散文的であり、詩的になれるようなメリットもあるのだが、そのぶん、短い言葉で、深い空間をつくるむずかしさがある。そこで、意味の切れをうむために、意味論的倒錯を好むようになったとかんがえるのはどうだろうか。転倒することで、意味としての切れをつくるのだ。推測なんだけれど、さいきん、そんなふうに考えている。川柳にとって、切れは、意味論的に発明されるべきものだったんじゃないかと。
ゼロの発明 しなやかな夜があるく 普川素床
(『川柳作家全集 普川素床』新葉館出版・2009年 所収)
2017年8月30日水曜日
続フシギな短詩186[萩原朔太郎]/柳本々々
まつくろけの猫が二疋(にひき)、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうな《みかづき》がかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』
萩原朔太郎「猫」
この詩で気になっているのが、語り手はいったい《どこ》にいるのかということだ。朔太郎の書いたものには、この《どこ》がつきまとっているのではないか。たとえば、萩原朔太郎に「猫町」という猫の町に迷い込んでしまう散文がある。しかしこの語り手が、また、怪しい。
久しい以前から、私は私自身の独特な方法による、不思議な旅行ばかりを続けていた。その私の旅行というのは、人が時空と因果の外に飛翔し得る唯一の瞬間、即ちあの夢と現実との境界線を巧みに利用し、主観の構成する自由な世界に遊ぶのである。
(萩原朔太郎「猫町」)
「猫の大集団がうようよと歩いてい」て、「家々の窓口からは、髭の生えた猫の顔が、額縁の中の絵のようにして、大きく浮き出して現れてい」る猫町に迷い込んだ語り手は、冒頭、「主観の構成する自由な世界に遊ぶ」語り手なのだとみずからの位置性を語っている。この「猫町」はそういう人間が迷い込んだ猫町なのである。これは、主観と客観の合間の物語だともいえる。だから、きょうあなたがコンビニにゆきがてら、猫町行こっかな、というふうには行けないのだ。主観と客観のさかい目がなくなるくらい、クレイジーにならなければいけない(クスリを使うと簡単にいけるのだが、実際この語り手もクスリを使っている。でも、クスリ、ダメ、ゼッタイ)。
冒頭の詩は、「猫」という詩である。「猫が二疋、/なやましい夜の家根のうへで」と「猫」を観察している描写があり、また、「夜」をなやましいと叙述しているので、これは、「夜」をなやましく思う語り手が「猫」を観察しながら語っている詩だということができる。「なやましい夜」を過ごす人間が、この詩を語っている。視覚化してしみよう。
●(悩ましい詩を語ることのできる人間)→★★(黒猫二匹)
さらにその語り手は、猫をこえて、「糸のやうなみかづき」をみている。かすんではいるが。奥に三日月がある。
●→★★→△(かすんでいる三日月)
ここで語り手が猫の「ぴんとたてた尻尾のさき」をみた瞬間、「みかづき」に視線が即座に《移ろって》しまっていることに注意したい。この語り手は、じっとなにかを静止してみつめているタイプではない。視線がさっと瞬間的にうつろってしまうタイプの語り手なのである。なやましい夜を過ごしていて、きょろきょろしてしまうそういう語り手がこの詩には設定されている。
猫たちの会話の次の言葉でこの詩はおわる。
『おわああ、ここの家の主人は病気です』
この〈病気の主人〉は、なやましい夜を過ごしながらきょろきょろしてしまう語り手に対応してしまう。語り手は「ここの家の主人」なのか。違うかもしれないし、違ってもいい。もし語り手がここの家の病気の主人でないならば、ここらあたりは〈病人〉でいっぱいだということである。
気になるのが猫たちの会話は、「こんばんは」「こんばんは」「ここの家の主人は病気です」とコミュニケーションが成立しているのに、『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』だけ、不可解な言葉になっているところだ。でもその不可解な言葉に《ちゃんと猫は答えている》。つまり、猫は『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』をちゃんと意味として、問いかけとして、受け取っているのだ。
だとしたら、なぜ、語り手にとってはそれは意味として、翻訳できるものとして、聞こえなかったのだろうか?
ひとつこんな推測をしてみたい。それは、語り手にとって、《聞いてはいけない言葉》だったんじゃないかと。たとえば、ここの猫のことばが実は、『おぎゃあ、ここの家の主人は病気なんですか?』という問いかけだったとしよう。しかしその問いかけを語り手はスルーしてしまった。というよりも、この『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』という苦悶のうめきのようなものが、《そのまま》なやましい語り手の声そのものになってしまった。だから、ここを、あえて。人間の意味に訳す必要はなかった。この『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』は語り手が〈翻訳〉する必要なんてなかった語り手の苦悶のうめき声である。そしてそれは、語り手にとって、問いにならない言葉だ。その言葉をもう生きてしまっているので。
でも、わからない。推測だから、それは推測でしょう、と言われれば、推測ですね、というしかないのだが、ただ冒頭で記したとおり、朔太郎は、「猫町」に迷い込む際に、主観と客観の境界に入り込むことを大切にしていた。じぶんが「見た」っていえば、それは「見た」ことになるんだと。「聞いた」といえば「聞いた」ことになるんだと。現象の絶対化。厄介である。
だが私は、たしかに猫ばかりの住んでる町、猫が人間の姿をして、街路に群集している町を見たのである。理屈や議論はどうにもあれ、宇宙の或る何所かで、私がそれを「見た」ということほど、私にとって絶対不惑の事実はない。
(萩原朔太郎、同上)
この「猫町」には冒頭に、《蠅そのもの》ではなくて《蠅の現象》を潰すショーペンハウエルのエピグラフがあるのだが、感覚世界や現象世界があらわれたとき、その感覚や現象は当事者にとっては〈絶対〉のものとなる。というより、わたしたちは、実は「蠅そのもの」(カントは物自体と呼んだ)には、一生涯かかっても、ふれられていない可能性もある。現象をみて、現象にふれ、現象にまんぞくし、現象的にしんでいく。そういう可能性だって、ある。一生、《物(モノ)》にふれられずに。
でも、現象には、穴がある。物そのものがときどきコポコポと音をたててあらわれてきてしまうのだ。それがこの詩では『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』の箇所なのではないかとおもう。それは、意味や現象にならないなにかである。語り手が、〈物そのもの〉に出あってしまうシーン。現象の裂け目を、裂け目のままに、おぎゃあおぎゃあおぎゃあ、と無意味のままに、うめきのままに、おいたセンテンス。
だから心配しなくても、死のまえに、物は、やってくる。物はやってきて、あなたにふれる。
夢──壁には唯物の穴ポコポコあき 中村冨二
(『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)
2017年8月28日月曜日
続フシギな短詩181[野沢省悟]/柳本々々
ハンカチを999回たたむ春の唇 野沢省悟
鶴彬を取り上げたときにも少し話したが現代川柳は身体のパーツに比重を置く。なんでかは、わからない。川柳というジャンルが、近代化をなしとげられず、立派な主体を手に入れられなかったことの反動として、部位に着目するようになったのかもしれないし、そうでないかもしれない。しかし、近代化できず、去勢された精神分析的な主体が、身体の部位に着目しだすのは、そんなに無関係な話でもないような気がする。
1989年に野沢省悟さんによって復刊された中村冨二句集『童話』(1960年)がある。現代川柳を作者から切り離して作品だけで読めるのを実践したのが戦後の中村冨二だった。作品だけで読めるようにはどうすればいいかというと、作者の実人生とつかず離れずの距離をとりながらも、言語構築の面を前面化させることだった(と私は思う)。たとえば、
影が私をさがして居る教会です 中村冨二
嫌だナァ──私の影がお辞儀したよ 〃
私の影よ そんなに夢中で鰯を喰ふなよ 〃
肖像は私を見て居ないぞ 私の消滅だぞ 〃
(『童話』かもしか川柳社、1989年)
ここでは「影」と「私」が転倒している。だんだん「影」の方が主体性を発揮しはじめ(「さがして居る」)、行動的になり(「お辞儀したよ」)、生命力を増し(「鰯を喰ふ」)、ついには「私」を滅ぼす(「私の消滅だぞ」)。
「私」と「影」の位置性をひっくりかえすことで、意味作用がまったくちがう風景になること。わたしがきえてゆくこと。こうした言説展開がここにはとられているように思う。言葉の構築のしかたによって、わたしは消えるのだ。
このように言葉によって部位に率先して主体性を与えるのが言葉を構築するということでもある。川柳はそれを前面におしだしてきた。野沢省悟さんの句が入った句集タイトルは『瞼は雪』なのだが、ここにも部位そのものが「雪」として、世界として、前面に展開していくようすがうかがえる。「瞼」が「雪」という季と同等であることは、掲句の「春の唇」というふうに、「春」と「唇」が接続されているところにも見出される。部位は、季と同等なほどの、存在感をもっている。冨二の「影」が力強かったように「ハンカチを999回たたむ」ちからをもっているのが「唇」である。さきほどの冨二の「影」は野沢さんの句のこんなところに流れ込んでいるかもしれない。
下半身の僕は人を踏みつける 野沢省悟
上半身の僕は人に踏みつけられる 〃
冨二の私から分離した「影」によって私の位置性が変わっていったように、どのように「僕」が分離していくかで、僕の主体性も変わってゆく。僕は分離の仕方によっては「踏みつけ」、分離の仕方によっては「踏みつけられる」。こうした〈半身の主体〉というものを川柳はかんがえてきた。
川柳にとって〈パーツの哲学〉はとても大きい。わたしたちの身体の部位はあまりに広大・深遠で、わたしたちはじぶんの手や足や唇や瞼や影や膝に、まだたどりついてさえいないのかもしれない。
膝までの地獄極楽 河渡る 野沢省悟
(「春の唇」『瞼は雪』かもしか川柳社・1985年 所収)
2017年7月14日金曜日
続フシギな短詩140[中村冨二]/柳本々々
では私のシッポを振ってごらんにいれる 中村冨二
しっぽとは、なんなのだろう。
『オルガン』9号・2017年5月号の「座談会 斉藤斎藤×オルガン」のなかに〈しっぽの話〉が出てくる。
尾のあれば春の闇より目を凝らす 鴇田智哉
人称をめぐる話のなかで鴇田さんがあげたこの句を斉藤斎藤さんは「三人称的私性」だと述べている。
三人称的一人称というのは「私」を三人称的に、外から見て説明してるということです。たとえば「ぼくは高校生だ」は、文法的には一人称ですが、実質的には三人称ですよね。ふだん高校生は「ぼくは高校生だ」と意識していない。わざわざそう思うのは、自分について客観的に振り返ったり、他人に説明したりするときぐらいです。それと同じで、「尾のあれば」とわざわざ言っているということは、尻尾が生えた「私」を三人称的に意識しているということになりますし、成り代わりというか、もともと尻尾が生えてたんではない感も出てると思うんですね。……で、そういう意味で俳句の「私」はどうしても、三人称的一人称になりがちな気がするんです。
(斉藤斎藤「座談会 オルガンからの質問状」9号、2017年5月)
もともと尻尾が生えていたなら、尻尾を意識することはない。「尾のあれば」という言説は出てこない。「尾のあれば」という言説が出てくるのは、〈尻尾があるわたし〉を意識して〈三人称的〉に語っているからということになる。〈一人称的〉に語るなら、〈尻尾の意識〉を持つ必要がないからだ。たとえばこう考えてみてもいい。わたしに指があるのでわたしはせっけんをつかむ。こんなふうに意識して、指の意識をもって、わたしたちはせっけんをつかむだろうか。ただ・単に、つかむのではないだろうか。つかむ、ということさえ意識せずに。
ここで「人称」の話をめぐって〈しっぽの句〉が提出されたのが興味深いと思うのだが、〈しっぽ〉とはもともと私たちが持っていないものである。だから〈しっぽ〉にどう言語的対応をしていくかで、人称や主体のバランスが変わってくる。
「尾のあれば」は、「今の私には尾があるので」であり、「尾がないわたし」が想定されている。この「尾のあれば」という言説によって、尾があるわたしを外からみているわたしという三人称的一人称がたちあがる。
ちなみに鴇田さんは「三人称」感とは逆にこの句を「『私が』という主語で読める句であり、作者もそういうつもりで提出しています」と自解している。この「尾のあれば」の唐突な切り出し方は、(あ、わたしにいま尻尾がある!)感もある。(あ、わたしにいま尻尾がある!)で突然語り始めたならそれは潜在的には一人称的一人称とも言える。俳句の短さがその唐突さを用意し、その唐突さが俳句に三人称的一人称だけでは割り切れない微妙な人称性の揺らぎなりショックを与えているとも言える(ただし、鴇田さんの俳句が一般の俳句とは異なり〈人称の微妙な不安さ〉をそもそも抱えているのだとも言えるかもしれない)。
中村冨二の川柳では〈しっぽ〉にどう向き合っているだろう。冨二の句は、「では私のシッポを振ってごらんにいれる」と現代川柳によくある口語体がとられている。口語体なので〈あなた〉に話しかけているのであり、この場合、わたしの発話としての一人称的一人称になっている(ただこれも微妙で発話というのを一人称的一人称にするか三人称的一人称にするかという問題はあると思う)。また「では」という応答の接続詞が入ることにより唐突さもなくなっている。ただし、575定型は破調し音数は長くなっている。口語体の発話である点と、接続詞の準備により、〈一人称的一人称・的〉になっている。
しっぽの話にしては複雑なので、今回のしっぽの話をまとめてみよう。
まず「しっぽ」を私たちは持っていない。だから、しっぽの私を語るとき、わたしたちはその語り方によってさまざまな人称のバランスに分かれていく。
その分かれ方に関しては、どれだけの音数でしっぽを語れるか、またどのような言葉のつなぎ目(助辞、言辞)をもってしっぽを語るかで、三人称的一人称のしっぽの私になったり、一人称的一人称のしっぽの私になったりする。なったりするのだが、どうしても〈他ならない・この人称〉と割り切れないのは、しっぽが〈わたしのもの〉でありつつも〈わたしのものじゃないもの〉だからだと思う。言わばしっぽとは、私のはんぶんはんぶんなのだ。
犬のしっぽ、とか、猫のしっぽ、とかならいいのだが、〈わたしのしっぽ〉となった場合、それは〈わたしのものじゃないもの〉でありつつも〈わたしのもの〉になっている。
谷山浩子「しっぽのきもち」という歌にあるように、「スキというかわりにゆれる」のがしっぽであり(いい歌だ)、それはわたしの身体やわたしのきもちの半分を受け持ちながら、わたしを、半分、ないがしろにしていく。しっぽのほうがわたしを先行するのだ。
だとしたら、しっぽは、〈何〉人称なんだろう。
(「むだい」『かもしか川柳文庫第二十集・童話』野沢省悟編集、かもしか川柳社・1989年 所収)
2017年6月4日日曜日
続フシギな短詩123[柳本々々]/柳本々々
ジャイアント馬場それも霊体がマーライオンを通過する 柳本々々
以前、ある川柳のイベントで話をするとして十句選を提出してくださいと言われ、私は次の十句を提出した。
(テーマ【世界の終わりと任意の世界】)
みんな去って 全身に降る味の素/中村冨二
頷いてここは確かに壇の浦/小池正博
ファイティングポーズ豆腐が立っている/岩田多佳子
オルガンとすすきになって殴りあう/石部明
妖精は酢豚に似ている絶対似ている/石田柊馬
人差し指で回し続ける私小説/樋口由紀子
中八がそんなに憎いかさあ殺せ/川合大祐
おはようございます ※個人の感想です/兵頭全郎
毎度おなじみ主体交換でございます/飯島章友
菜の花菜の花子供でも産もうかな/時実新子
テーマをつけろとは言われてなかったのだが、テーマもつけて提出した(私はときどきそういうなんだかずるいリークみたいなことをすることがある)。
で、最近、川柳作家の川合大祐さんと電話していて、川合さんが、あのやぎもとさんの、マーライオンの句、あれ、過剰ですね、と言われたときに、あれっ、そう言えば、川柳って〈過剰性〉ってキーワードになるんじゃないの、と思ったりした。「過剰性、そう言えば」と私は言う。
「前に、川柳のイベントで提出した十句も今思えば、ぜんぶ、過剰性ですよね。『みんな去って/全身に降る』という演劇的過剰性、「頷いてここは確かに」という肯定の過剰性、『ファイティングポーズ豆腐』という豆腐の過剰性、『殴りあう』という武闘的過剰性、『似ている絶対似ている』という認識の過剰性、『回し続ける私』という私の過剰性、『さあ殺せ』という自虐の過剰性、『※個人の感想です』という相対化する過剰性、『主体交換』という主体の過剰性、『子供でも産もうかな』というジェンダーの過剰性。なあんだ、ぜんぶ、過剰性なんだ」と私は言った。それから「はぁはぁ」と。少し息も切らずに過剰性過剰性しゃべったので。
「ああ、あああ、あ、ああ」と川合さんも言う。「いやあのね、やぎもとさんの句の『それも』ってのが、なんか気になったんですけどね、それも過剰性ですよね、まあなんでもかんでもこの句ぜんぶ過剰性なんですけどね」
「あーあ」と私は言った。気を抜いていたので変に伸びたが、勘違いされるかもしれないので、すぐに「ああ」と言い直した。「どうしてね、川柳が過剰性を引き受けるようになったのかは謎なんだけど、たとえばね、アルチュセールが、フーコーが、バルトが、ラカンが、クリステヴァが、もし現代川柳を読んだらね、すごく喜んだじゃないか、嬉しがったんじゃないかって思うときがあるんですよ。それはなんだろう。主体の過剰なぐずぐず感、あらゆることの過剰性かなあ、でもそれってまさにポスト構造主義じゃないですか、ポスト構造主義は構造主義にはなかった主体の過剰性、構造からぐずぐずはみ出していくなにかを見つけた。現代川柳ってポスト構造主義のぐじゅぐじゅしてる感じと実はとっても親しいような気がするんです」
「たしかにね、構造主義と定型は似ていて、でもその構造主義=定型から、なんだかはみ出ていくものも定型は同時にかかえもつ場合がありますよね。それってポスト構造主義的な部分に近づいていくのかもしれない」と川合さん。
「ああ、そうですよ。ほんと、そうだ。うーん、だから現代思想とか文学理論で現代川柳って読み解きやすいのかな。私は実は現代川柳の感想を書くとき、ぜんぶ、現代思想か文学理論の枠組みでしか読んでないんですよ。だから最初は怒られてパンチされたりするのかなとか思ってたんですよ。でもとくに怒られはしなかった。それって現代川柳がそういう部分をかかえてたからなんですかね」とわたし。
「ああ、そうですよ。そうかもしれない」と川合さん。
「そうですよね。そうなのかな」とわたし。
「そうだなあ、そういうことなのかなあ」と川合さん。
「そう。うーん。あ、ああ。そう」とわたし。
しかし、これ以上、無駄に会話も続けられない。さすがに「そう」「そう」だけで電話もしていられない。フシギな短詩ではなく、フシギな会話になってしまう。
「そう」を「それでは」に切り換えて、「はい。失礼します」と言って私は電話を切った。
電話を切って、正座して、部屋のまんなかでぼんやりして、絨毯をひとさしゆびで無駄になぞりながら、ああ、そうだ、あの人のことも言えばよかった、と私は思った。わたしはいつも大事なことを忘れてしまう。ジャック・デリダのことだ。
デリダは大胆にも、ハイデガーの現-存在とは電話の呼びかけに応えて「電話に出ること」だという。人間は存在にではなく、電話というテレコミュニカシオンに拘束され、電話に釘づけにされ、電話へと運命づけられているわけである。
(上利博規『デリダ』)
私は電話に手をかける。いやもう夜遅いしさすがに今度でいいよくだらないことに電話を使うなよ、とデリダの声。はい(oui)、と私。
怒られたらどうしようと思う眠る 柳本々々
(「暗い人間」『川柳の仲間 旬』211号・2017年5月号 所収)
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