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2017年9月9日土曜日

超不思議な短詩209[小野茂樹]/柳本々々


  あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ  小野茂樹

たくさんで、それでいて、たったひとつの表情をしろ、という不思議な歌だ。ヒントは、「あの夏」だ。この「あの夏」を知っている人間は、その矛盾した複雑な表情ができるのだ。たぶん「した」ことがある人間だから。ここには「あの」という経験が矛盾律を越えてしまうようなことがうたわれている。出来事性が、理屈を、こえている。

ところで短歌史を流れている〈記憶〉のようなものがあるんじゃないかと思い、実験的に書いてみようと思う。

この掲出歌に次の二首を並べてみたい。

  逆立ちしておまへがおれを眺めてた たつた一度きりのあの夏のこと  河野裕子

  この夏も一度しかなく空き瓶は発見次第まっすぐ立てる  虫武一俊

河野さんの歌にも「あの夏」がやはり出てきて、「たつた一度」も出てくる。ただこの「たつた一度」は小野さんの歌からずれて、「たつた一度きりのあの夏」と夏にかかってくる。でも「たつた一度きりのあの夏」の〈表情〉をうたっている歌だ。しかもその〈表情〉とは、「逆立ちしておまへがおれを眺めてた」表情だ。

あえて小野さんの歌と一緒に読んでみるならば、ここにはこの歌の記憶を引き継ぎながらも、河野さんの立場からの〈フレッシュなねじれ〉がある。小野さんの歌が「せよ」と命令形だったのに対し、河野さんの歌は「逆立ち」を導入することによってこちらをみつめる人間の〈微妙な心性〉が浮かび上がってくる。「おまへ」は素直な人間ではないのかもしれない、「おれ」の「せよ」という命令をきくような人間でもないかもしれない。そうした相互の主体性の微妙な距離感がでている。

虫武さんの歌もこの〈歌の記憶〉に沿うような歌としてあえて読んでみるならば、「この夏も一度しかなく」と小野さんの表情の矛盾にあったものが、数の矛盾としてここではうたわれている。「この夏も」と夏はたくさんあるのだが、しかし「一度」なのである。表情の力点は、時間の力点におかれた。つまり、表情の有限ではなく、時間の有限を気にする位置性に語り手は身を置いている。

そして河野さんの歌にいた「おまへ」は消え、ここにあるのは「空き瓶」である。表情も、他者も、消えてしまったのだが、それが逆に現代の〈フレッシュなねじれ〉になっていると思う。

ところで、なぜ「空き瓶」を「発見次第まっすぐ立てる」必要があるのか。拾ったら回収し分別し捨てればいいのではないか。

こんなふうに答えてみたい。この語り手は、短歌史のなかにいる人間だったから、歌の記憶のなかで、「まっすぐ立て」たのだと。たった一度きりの夏のなかで、短歌の記憶を引き継いだ語り手は、空き瓶をみつけて「まっすぐ立て」た。これは、そういう歌なんじゃないか。

これは一度と夏をめぐる歌の記憶だったが、わたしはときどき、短歌史のなかの〈気づきの歌の記憶〉のようなものも、気になっている。そんなものはないかもしれないし、気づきそこねなのかもしれないが、でも、ちょっと、気になっている。気にしていこうと、おもう。

  呼吸する色の不思議を見ていたら「火よ」と貴方は教えてくれる  穂村弘

  雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斉藤斎藤

  草と風のもつれる秋の底にきて抱き起こすこれは自転車なのか  虫武一俊


          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

2017年8月28日月曜日

続フシギな短詩183[河野裕子]/柳本々々


  手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が  河野裕子

河野裕子さんで有名な歌に、

  たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか  河野裕子

という歌があるのだが、すごく「君」への求心力が強い歌だ。〈例え〉として話し始めたことではあったが、その〈例え〉は「ガサッと落葉すくふやうに」と非常に具体的かつ強力で、さらにそこに例えだけではなく、「私をさらつて行つてはくれぬか」という率直な行為の記述が入る。それは落ち葉をすくうようにというたとえではもはやすまされていない。たとえ話をしながらも、そのたとえを超克し、「私をさらえ」と言っているのだ。

だから「たとへば君」のこの「たとへば」は「たとへば」なんかでは、ぜんぜん、ない。「たとへて」はいないのだから。「たとへ」るというよりは、「君」と名指しされた「君」がためされる歌だ。たとえば、ですますのか、たとえば、ですまさないのか。どっちなのか、と。

そうかんがえると、この一字アキもとても効果的だとおもう。なぜなら、「君」に少し考える時間を与えてあげているから。この一字アキは残酷である。試される時間だからだ。この歌のいちばんの強度は「君」の横にある永遠ともいえそうなこの一字アキになるような気もする。夏目漱石『それから』で主人公の代助が答えることのできなかったおそろしい問いかけである。

掲出歌は、河野さんの最後の作と言われている。この歌で私がとてもインパクトを受けたのが、「あなたとあなた」という「あなた」の反復だった。「手をのべて/触れたき」というとき、ふつうは慣性として「君」というひとりの人間に語られるのではないだろうか。あなたにも・あなたにも触れたい、という発想ではなくて。

ところがこの歌では「あなたとあなた」と〈あなた〉が複数形になっている。まるで河野さんはみずからの代表歌の「君」を〈ズラす〉ように「あなた」の横に「あなた」を添えている。そしてその複数の「あなた」に対応するように下の句には複数の「息」がでてくる。

落葉の歌は、「君」と「私」という単数の歌である。でも河野さんが最後にたどりついた歌は、「あなたとあなた」、「息」と「この世の息」という複数に語りかける複数的な場所をめぐる歌だった。

大澤真幸さんが愛をめぐる関係を次のように述べている。

  愛の関係においては、指示の究極的な帰属点は、私(自己)であると同時にあなた(他者)でもある。一方においては、私こそがあなたを愛しているのであり、あなたを愛する対象として指示する営みの帰属点が私であるという構成は解消されはしない。が他方、私の任意の指示が、ただあなたの宇宙の中の要素としてのみ意味を有するのであれば、私の指示をさらに指示している他者の方に最終的な帰属点が委譲されてもいることになる。だから、ここには、眩暈を誘うような、指示の帰属点の終わりなき反転がある。
  (大澤真幸『恋愛の不可能性について』)

愛の関係は、究極的に「私」か「あなた」に回収される。「私」「あなた」「私」「あなた」とお互いがお互いをガサッとさらい続けるような眩暈のような関係が愛の関係でもある。

でもここに「あなたとあなた」ともうひとりの「あなた」を介入させたら、このめまぐるしい愛の関係はどうなるのだろう。もうひとりの「あなた」は彼でも彼女でもない。それは第三者ではない。「あなた」である。「あなた」にもうひとり「あなた」が加わったのだ。それは、さらい・さらわれる関係でもない。河野裕子の短歌はこうした新しい愛の関係を短歌で発見したのではないかとおもう。「あなたと彼を愛したい」ではなく、「あなたとあなたを愛したい」。その愛の関係は、なんなのか。

とてもずっと考えたいと、おもう。

  まみ深くあなたは私に何を言ふとてもずつと長い夜のまへに  河野裕子

          (『日本文学全集29 近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

2017年8月24日木曜日

続フシギな短詩173[瀧村小奈生]/柳本々々


  まだすこし木じゃないとこが残ってる  瀧村小奈生

小奈生さんの川柳にとって「木のとこ」と「木じゃないとこ」を確認するのはとても大切な作業になる。たとえばこんな句がある。

  息止めて止めて止めて止めて 欅  瀧村小奈生

〈そう〉なろうと思えば、息を止めつづけることで「欅」になれてしまう体。体は容易に逸脱する。やり方さえわかれば。だから、「木のとこ」と「木じゃないとこ」をいちいち確認する作業は大切になってくる。

容易に変化・変態してしまうからだをめぐって、こまかく、すこしずつ気づいていく認識。

  小春日を起毛してゆく声がある  瀧村小奈生

  心外なところで声は折れ曲がる  〃

  三日月にさわった指を出しなさい  〃

  あやふやな湾岸線をもつからだ  〃

起毛する、折れ曲がる声。三日月にさわった指。あやふやな湾岸線をもつからだ。からだは〈わたし〉を超えて変化する。

川柳において、からだは、形態変化する。その形態変化を《事後的》に記述するのが川柳だともいえる。だから、川柳の主体は、ときに、〈人外〉が、事後的に・語ったような語り口ともいえる。非主体化していく主体がそれでもかろうじて「まだすこし木じゃないとこ」を語ったように語るのが川柳ともいえるのである。

たとえば次のような短歌と比較してみるとわかりやすいかもしれない。

  毒舌のおとろえ知らぬ妹のすっとんきょうな寝姿よ 楡  東直子

短歌においては、主体変化は起こらない。たとえばこの歌なら、主体と「楡」の一致は起こらない。主体は「楡」を見いだすが、それは主体変化としてではなく、主体観察として、みいだす。「妹のすっとんきょうな寝姿」はまるで「楡」だと。

  夜はわたし鯉のやうだよ胴がぬーと温(ぬく)いよぬーと沼のやうだよ  河野裕子

夜の「わたし」は、胴がぬーとぬくくて、沼のようで、「鯉」のようだという。これも夜のわたしの主体観察だといっていい。もちろん「鯉」なのではない。鯉の「やう」なのである。

短歌においては、私→A、という働きかけになる。そういう主体観察になる。

一方、川柳においては、私=A、という主体のありようが語られる。主体変化が記述される。

どうしてそうなのかは私もちょっとわからない。ひとついえるのは、よくもわるくも、川柳においては〈わたし〉が育たなかった、ということが言えるかもしれない。育たなかった〈わたし〉は容易に変化してしまう
ピノキオのような主体である。息をとめただけで、木になってしまう。比喩じゃなく。そう、なってしまう。

精神分析学者のラカンの言葉を使えば、短歌は、言葉によって主体が確立されている〈象徴界〉的な文芸、川柳は、イメージによって主体が変化する〈想像界〉的な文芸、と言うこともできるかもしれない。

そして、定型の〈外〉には、〈象徴〉しても〈想像〉してもふれられない〈現実〉がある。そのふれられない〈現実〉をめぐって詩が機能してしいることにおいては、どちらも共通しているようにも、おもう。

たとえば、〈なに〉が「そうですか」なのかは、ふれられない〈現実〉。「中央にあるべきもの」とは〈なん〉だったのかは、ふれられない〈現実〉。無意識のとぐろのように、まっくらな穴のように、ひろがる〈現実界〉の深淵へ。

  そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています  東直子

  中央にあるべきものがない空だ  瀧村小奈生

          (「木じゃないとこ」『川柳ねじまき』2014年7月 所収)