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2017年9月17日日曜日

超不思議な短詩223[さやわか]/柳本々々


  コンピュータゲームとはもっとも素朴な形に還元すると「入力すると反応がある」ということである。  さやわか

ゲームと俳句の話が続いているのでせっかくなのでもう少し冒険して続けてみようと思う。さやわかさんがゲームの本質について次のように語っている。

  ゲームの本質。コンピュータゲームとはもっとも素朴な形に還元すると「入力すると反応がある」ということである。それはAボタンを押すとマリオがジャンプするということだったり、エンターキーを押すと次の画面が表示されることだったりする。我々はしばしばモニタの前で、どうしても選びきれない選択肢を選ぶ羽目になる。その時も、ボタンはいつも通りに軽いし、ボタンそれ自体は画面内で展開されているいかなる物語やキャラクターとも関連がない。重要な選択であっても実際に行うのはエンターキーを押すか否か、「する/しない」という些細な選択なのだ。たったそれだけのことにすべてを左右させることで、スリルと不安を喚起する。選択自体には意味がないが、しかしその行動が世界を改変してしまう。
  (さやわか「ゲームのように」『ユリイカ臨時増刊 涼宮ハルヒのユリイカ』)

ここでさやさんが言っているのはたぶんこのようなことだと思う。ゲームというのは、非常にシンプルな行為、入力すると反応があるという行為が、世界をつくりあげ変えていく行為なんだと。

前回、フローな俳句として鴇田智哉さんの俳句をあげたが、ときどき、鴇田さんの句集を読みながら、任天堂のアクションゲーム『スーパーマリオブラザーズ』に近いんじゃないかと思ったりしたことがあった。これはさやさんで引用したような、シンプルな入力が、世界への触知とつながっている感覚と思ってもらえばいいと思う。たとえば、

  水面ふたつ越えて高きにのぼりけり  鴇田智哉
   (『句集 凧と円柱』)

あえてマリオっぽい句を選んでみたのだが、〈水面をふたつ越えて高いところにのぼった〉というのはふつうなら「それがいったいなんなんだ」的なところがあるが、もしこれがマリオが読んだ句だったら、どうだろう。水面をふたつ越えて・高いところにのぼったなら、ステージ=世界を攻略してゆく喜びがある(プレイヤーも同様にその喜びを感受する)。マリオにとっては、こうした原始的で・シンプルな行為が、至上の意味をもつ(マリオ=プレイヤーにとってすべての価値観はステージを前進することなのだから)。

ちなみにこの句集のタイトルは、『凧と円柱』で、高い場所やポールのような突端が気にされているのだが、そうした〈高い場所〉や〈とがったもの〉への至高もマリオ的である(土管、城のポール、キノコ)。

  春めくと枝にあたってから気づく  鴇田智哉

この世界では突端に触れる、というただそれだけの行為が「春」に気づくという世界そのもののベースへの触知につながっている。これはマリオがクリボーに触れて命を失ったり(触れることが世界の終わり)、キノコに触れる(食べる)ことで身体を巨大化させたり(世界の視野の改変)することにも似ている。

こんな句もみてみたい。

  近い日傘と遠い日傘とちかちかす  鴇田智哉

遠近に「ちかちか」と視覚的なデジタル・ノイズが入ってくる風景。これなども処理落ちのマリオのステージのようなノイズ的風景を想起することができる。

  裏側を人々のゆく枇杷の花  鴇田智哉

  断面があらはれてきて冬に入る  〃

世界の「裏側」や「断面」の意識。マリオ3では、↓ボタンを押しっぱなしにすることでステージの裏側にすとんと落ちることができる裏技とは言えないまでも小技があったが、あるいはさいきんのペーパーマリオではステージを3Dで断面的に見ることが可能になったが、「裏側」や「断面」はゲームの世界(ステージ)では、たびたび〈世界の果て〉として出会うことでもある。

鴇田さんの俳句がゲーム的世界観に支えられているというつもりはないのだが、さやさんが述べたようなゲームの本質、シンプルな入力が世界の原理につながっていく感じは、鴇田さんの俳句の風景によく似通っているのではないかと思う(というかそういう思いがけない枠組みを導入すると鴇田さんの俳句はぐっと理解しやすくなったりするのではないだろうか)。

小津夜景さんの句集『フラワーズ・カンフー』を読んでいて、或いは関悦史さんの俳句を読んでいて思うのは、俳句がB級的な要素をそれとなく密輸しながら成立してきていることだ。そのB級的要素とはなんだろう、と時々考えるのだが、たとえばそれはこうしたゲーム的世界観との思いがけないリンクと言うこともできないだろうか。

たとえば、小津夜景さんは関悦史さんとのトークで、

 ぷろぺらのぷるんぷるんと花の宵  小津夜景

は自分がはじめて俳句をつくったと実感することができた《写生句》だと述べたが(たしか夜景さんは海辺で吟行していたときにできた句だと言ったような気がする、ぼんやりだが)、「ぷるんぷるん」している「ぷろぺら」もゲームのCG世界ではごくまっとうなゲーム的リアリズムとしてあらわれそうではある(例えば私ならプレイステーションソフト『クーロンズ・ゲート』を想起する)。

関さんのこんなリアリズムとゲーム的リアリズムが融合する句。

  牛久のスーパーCGほどの美少女歩み来しかも白服  関悦史

現実のリアリズム的世界では非常識なことが、ゲーム的リアリズムの世界では、なんのためらいもなくまっとうで・ノーマルなことがある。

  蝉の死にぱちんぱちんと星が出る  鴇田智哉


          (「ゲームのように」『ユリイカ臨時増刊 涼宮ハルヒのユリイカ』2011年7月 所収)

2017年8月27日日曜日

続フシギな短詩177[?]/柳本々々


  松茸は舐めてくわえてまたしゃぶり  ?

ある女優の方の句に「松茸は舐めてくわえてまたしゃぶり」という句があるらしいのだが、いまいち情報源が定かではない(Wikipediaに載ってはいるけれど、やはり定かではない)。だから松茸句という誰のものでもない〈句〉としてみてみようと思う(後半、きのこときおくとききかえしをめぐる話をしたいということもある)。

この句がいいなと思うのは、「また」を介して「くわえて」と「しゃぶり」の行為の間に差異を見出していることだ。くわえる、と、しゃぶる、は違う。

「また」という反復を介して、「くわえる」よりももっと対象に比重を置く「しゃぶる」という圧の大きい動詞がたたみかけられる。行為の圧として、なめる→くわえる→しゃぶる、とだんだん圧が強く・大きく・奥深くなってくる。

またこの「松茸は」の「は」という助詞の使い方もおもしろい。ふつうは「を」にする。「松茸を」ではなく、「松茸は」となることによって「松茸」が不穏な位置取りをする。もしこの句に不穏さがあるとするのなら、この「松茸は」の「は」にあるのではないかと思う。どうして「松茸は」と「松茸」だけ主題化されたのか。それ以外のきのこ、たとえばエノキについては語り手はどう思うかなど。ただ情報源が定かではないので、集団的心性句というか、投影句としてみてもいいかもしれない。

一見、プレーンな句にみえるかもしれないが、助詞や行為をめぐって細かくみていくといろいろ解釈が枝分かれしていく面白い句だと思う。

きのこの句と言えば、

  自閉症ぎみのきのこをほほばりぬ  小津夜景

という句がある。わたしは眼がわるいせいか最初、「自閉症きみのきのこをほほばりぬ」と読んでいたのだが、よく見ると「ぎみ」だった。しかしその「ぎみ」がこの句集にとっては大切なのではないかと考えるようになった(でも、もしかするとちょっと錯覚するようにつくられているのかもしれない。時々そういう句があって、さっか句と呼びたいような気もするけれど、呼ばない)。

「自閉症きみのきのこ」ならわかるとしても、「自閉症ぎみのきのこ」と「気味(ぎみ)」で続けることによって、症状的な言説が、セクシャルな解釈をするのを微妙に妨げている。セクシャルな解釈はしようと思えばできるのだが、しかし「自閉症ぎみのきのこ」とはなにかということが微妙にじゃまをしてくる。

症状的な言説と言ったのだが、小津夜景句集『フラワーズ・カンフー』ではたえず〈書き込まれ(なかっ)た記憶〉が喚起される。つまり、書き込まれた記憶と、書き込まれなかった記憶が、同時に、喚起される。

  おそらく〈非-記憶〉のかけらは〈記憶〉との対話を抜きにしては発見することができない。
  (小津夜景「あとがき」『フラワーズ・カンフー』)

これはすごく乱暴に簡単に言ってみると、記憶されていないものと記憶されているものを同時に考えてみよう、ということだと思う。

しかし記憶されなかったもの、たぶんそれは記憶できなかったもの、抑圧されたもの、しかし身体の奥底にねむっているものだと思うのだが、そのようなものとどのようにして出会えばいいのだろう。フロイトは、そういった抑圧したものと出会う経験を、言い間違いや失語としてとらえていた。たとえば、「えっ」という聞きかえしてそれは身体に〈症状的〉にあらわれる。

  聞きかえしの頻出。たえざる聞きかえしは、ありふれた日常にさまざまな小さい不明がひそんでいることを物語っている。
  (長井和博『劇を隠す 岩松了論』

長井和博さんが岩松了演劇における〈聞きかえし〉の多さに着目し、「聞きかえし」とは「ありふれた日常にさまざまな小さい不明がひそんでいること」のあらわれと指摘しているが、〈小さい不明〉は身体症状としてあらわれる。しかしこの〈小さい不明〉こそが抑圧され、たえず気にかけられていた何かなのではないかと思う。それは、素通りできなかったなにか、だ。わたしにあった、ないもの、だ。「ぎみ」の。

「小さい不明」としての〈書き込まれなかった記憶〉は、症候的に身体にそれとなく浮上してくる。「自閉症ぎみ」という症状〈的〉な記憶として。それは、症状ではない。「ぎみ」という判断も自覚も診断も決め手もつかないものである。「ぎみ」なので、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。そう、とは言えないのだが、しかし、そうらしい、としかいうしかないもの。

松茸句の「松茸」とは、たぶん「きみのきのこをほほばりぬ」なのだ。冒頭に述べたように、「は」という助詞の問題はあるけれど、この句は「ぎみ」ではなくどちらかといえば「きみ」のことを方向としてはかんがえた句である。「松茸」という対象に対する行為が前=全面化し、「松茸」への行為が連ねられるとともに細分化し展開されていく句で、ここには〈小さい不明〉はない(でも「松茸は」の「は」の助詞からさまざまな解釈が枝分かれする面白い句だとも思う。この「は」は不穏である。「松茸」をただの対象におかない。〈大きい不明〉といってもいいかもしれない)。

いっぽう、小津夜景句の「自閉症ぎみのきのこ」は、「ぎみ」にウェイトがかかってくる。「君(きみ)」というはっきり分割できる対象ではなく、不明ぎみの「気味(ぎみ)」という非分割、記憶しがたい非記憶対象がこの句集の色調における「きのこ」なのではないか。「ぎみ」となることにより、「きのこ」は対象化できない。

この「記憶ぎみなきのこ」は、「出来事ぎみな出来事」をまさぐる岩松了演劇の質感に、ちかいのかもしれない。それは出来事が出来事であることを確認することによって出来事から逸れていってしまう出来事ぎみのなにかなのである。出来事でないけれど、出来事ぎみのもの。記憶ではないけれど、記憶ぎみのもの。なんだか今回わたしもいろいろ抑圧し、迂回するような記事ぎみの記事を書いた気もする。だから今回の記事は非記事として欠番になるかもしれない。記録されなかった記事として。

それっぽい記事。それっぽい記憶。それっぽい出来事。

  つまり、ボクらは知ってるわけです。たとえばここに三の出来事がある……この家の中に三の出来事がある、それは確かに三の出来事のはずなのに、玄関を出るとき四になり、通りに出て五になり、ボクらの知らないところで六七八九となり、そこの、わが家の玄関に戻ったときには、しっかり十に出来事十になっていることをですね……なぜそうなのか……ボクらは三人で確認するしかないわけですよ。な、三だよな、この出来事は、三のはずだよなって……
  (岩松了『市ヶ尾の坂』)


          (出典

2017年8月16日水曜日

続フシギな短詩158[いなだ豆乃助]/柳本々々


  鳴門には縁もゆかりもない@  いなだ豆乃助

こないだ恵比寿で小池正博さんが主催する東京句会があって傘をさして行った。まわすと渦みたいになるカラフルな傘でなくさないように気をつけていたのだが、その日、あっというまにきえた。どこにいったんだろうか。都内のどこかにはあるとおもう。

その句会では、題で「渦」が出ていたのだが、そこにいなださんの掲句が出ていた。よく短詩のなかで記号をどうやって成立させられるのかということについて考えているのだが、この句は「@」という記号が川柳のなかで成立しているように思った。

なんでだろう。

まずひとつはこの句が《なにもいってない》ことに注目してみたい。

「鳴門には縁もゆかりもない@」ということは、「(鳴門には縁もゆかりもない)@」ということで、ようするに、「@」としか言っていないのだ。この句は実は「@」だけの句なのである。@という記号を使いながらも、その記号に重点的な関心をしめさず、否定語法で「@」を語ったこと。ここらへんにこの句で記号が成立している理由がひとつあるような気がする。

もうひとつ。まったく上と逆のことを述べるが、この句が嘘をついている可能性もあるということだ。「鳴門には縁もゆかりもない@」と句は述べているが、関連づけようと思えば、@は縁やゆかりがありそうな気もする。@(アットマーク)=「at」という原義を思い起こせば「鳴門」という地名と結びつくかもしれないし、鳴門海峡の渦潮と@の形状は縁があるかもしれない。つまりこの句は、《なんにもいってない》ように形式的にはみせながらも、実はすごく《なにかをいっている》場合もあり、それは題の「渦(うず)」のように立て込んでいる。

語り手は、ほんとうに縁もゆかりもないと思っているかもしれないが(ベタのレベル)、違うレベルでは、ほんとうは縁もゆかりもあるのに、嘘を述べている可能性もある(メタのレベル)。言説として、渦のように、たてこんでいる。

そうしたときに、それらを媒介し束ねるポイントとしての@はとても効果的なように思う。これが漢字やひらがなだと弱いのではないか。@はめまいのようななにかがある。

この@は、この川柳のなかだけの指示記号として、どうしても必要になる。だからこの@は、この詩のなかで成立した。

ちなみに私はこの日句会を途中で小津夜景さんの授賞式に出席するために抜けさせてもらったのだが、そこに向かうときに逆方向の電車に乗り間違えて、途中で気づき、慌て、頭や目がうずのように、眼や脳やメンタルが@のような感じになっていき、そのとき傘もストリームのなかに呑み込まれていったのかもしれないが、その夜景さんの俳句にはこんな記号の句がある。

  仁★義★礼★智★信★厳★勇★怪鳥音  小津夜景


2016年11月25日金曜日

フシギな短詩61[新海誠]/柳本々々



  思いつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを  小野小町

※今回は映画『君の名は。』のネタバレを含みます。

日本文学者の木村朗子さんは新海誠さんの映画『君の名は。』を「時空を超えて結び合う物語」とした上で、「古典文学の世界に馴染みのあるテーマだ」と述べている。

  本作(『君の名は。』)は企画段階では『夢と知りせば(仮) 男女とりかへばや物語』というタイトルだったという。その発想の源には小野小町の夢の逢瀬を歌った次の和歌があった。

   思いつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを

  恋人を思って眠りについたからであろうか、その恋人が夢に現れて、逢瀬をとげることができた。夢だと知っていたならばあのまま目覚めずにいたかった、という歌である。「思い寝」といって、相手のことを思いながら眠りにつくと夢の時空でその人に逢うことができると古代人は考えていた。
  (木村朗子「古代を橋渡す」『ユリイカ』2016年9月号)

そして木村さんは「夢と知りせば」のあとに付け加えられていた「男女とりかへばや物語」の副題に注目し、「他人の身体に別の魂が入り込むことは、憑依として古代文化が考えてきたことだ。……夢をとおして入れ替わりが起こるというのは、……古典文学の系譜からいかにも自然に導かれるところだ」と述べる。

小野小町の歌では「覚めざらましを」と〈覚めなければよかったのになあ〉と歌われているが、なぜ「覚め」なければよかったのかといえば、「覚め」なければ夢=現実の空間を生きられるからだ。しかし、「覚め」た瞬間から、夢と現実は等価であることをやめ、ズレはじめる。夢は時の彼方にまたたく間に消え去り、現実だけが残る。

  (新海誠の)『雲のむこう、約束の場所』『秒速5センチメートル』でも、主人公とヒロインは夢のなかで再会する。しかし夢は夢でしかなく、夢は壊れる。現実には受けいれなければいけない喪失が待つ。それを甘受し、成熟する。 

(飯田一史「新海誠を『ポスト宮崎駿』『ポスト細田守』と呼ぶのは金輪際やめてもらいたい」前掲)

この映画『君の名は。』のタイトルにはなぜ「。」が付いているのかずっと気になっていたのだが、もしかするとこれは〈覚醒〉ととることはできないだろうか。つまり、〈君の名は〉と問いかけつづけた夢=現実のような時空間を生きたふたりの〈入れ替わり〉の物語は、最終的に「。」によって〈中断〉されたことで、「起き」られたことで、終わったのだと。夢とはとつぜん中断されることで、覚めて、終わるものだから。

だから、映画『君の名は。』のラストシーンで記憶を失ったふたりがお互いを一瞬で〈感覚〉しあい、「君の名前は?」とききあい、声が重なり合っておわるシーンは、〈名前を知る〉ことが大事だったのではなく、「君の名は。」と面前ではじめて発話できたことが大事だったのではないかと思うのだ。その句点「。」によってはじめて夢は終わるので。「覚めざらましを」は肯定的に語り直されたのだ。アンチ「覚めざらましを」として。「夢」から覚めたから《こそ》出会えて、お互いに名をきくことができる「現実」もあったのだと。「やっと覚めたね」と。

木村さんは「入れ替わり」のモチーフを述べられていたが、アニメでは〈入れ替わりのモチーフ〉が折々みられる。富野由悠季さんのアニメ『∀ガンダム』もまた「とりかへばや物語」を主要なモチーフとしている。容姿が瓜二つの月の女王ディアナ・キエルと地球の女性キエル・ハイムが入れ替わるという物語が展開されるのだが、誰にも知られずこっそり二人だけで入れ替わることでお互いの境遇を〈それしかない〉かたちで二人は理解しあう。この〈理解〉は非常にフシギなものだ。

なぜなら、わたしの立場における喜びや苦しみはこんなものなのですよ、と相手にコミュニケーションとして伝えるのではなく、ノンバーバルコミュニケーションでまったく言語を介さずに〈そのひとそのものになること〉によって非言語的に・体感として〈理解〉するからだ。

  コミュニケーションとは、二人の人間の間で言葉や手紙や物を交換するだけのことではない。それはまた、非物質的な何か、二つの項以前にある関係でもある。 

(トーマス・ラマール、大崎晴美訳「新海誠のクラウドメディア」前掲)

『君の名は。』でもぜんぜん立場や環境の違うふたりが入れ替わって相手の状況と環境に投げ込まれたように、〈入れ替わり〉というのは非言語で相手を〈理解〉できるたったひとつのアクションなのかもしれない。しかしそれは世界から「名」も忘れられるほどの〈等価交換〉でなければならない。たとえばもしそのひとの入れ替わり中に死んでしまったならば、永久に〈わたしの名〉が失われるような、つまり、世界の住人がだれひとり〈わたし〉を知らないままに〈そのひと〉として死ぬようなそういう絶対等価交換でなくてはならない。たとえば次の句のような。

別のかたちだけど生きてゐますから  小津夜景
(『フラワーズ・カンフー』ふらんす堂、2016年)

〈入れ替わり〉とは〈そのひとを理解する〉ためだけに〈世界から忘却される経験〉なのではないかと思うのだ。〈わたしの名前〉はそのとき世界から失われる。そして入れ替わった〈そのひとの名〉は〈わたしの名〉ではない。ただ〈入れ替わり〉という運動だけがふたりのことを知っている。

もう夢に逢ふのとおなじだけ眩し  小津夜景
(前掲)

「夢」という装置は入れ替わりにもってこいなのだが、もしかしたら「夢」の空間では、言語を介さない〈理解〉のやり方がたえず行われているのかもしれない。「喋る」のではなく「光る」。それだけで相手が〈あなた〉のことを「理解」できる。世界から忘却されたふたりだけれど、お互いは、光っているから、その〈運動〉によって、それとなく、わかる。わかってしまう。わかってしまった。だから、問いかけた。「君の名は。」

  夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう  穂村弘



          (「古代を橋渡す」『ユリイカ』2016年9月 所収)




2016年11月4日金曜日

フシギな短詩55[石部明]/柳本々々



  黄昏の体かがんで蝶を吐く  石部明



庵野秀明/樋口真嗣の映画『シン・ゴジラ』を観ていてとても印象的だったのが、ゴジラが身をかがめて嘔吐するように熱線を吐くシーンだ。今までのゴジラ映画は熱線をカタルシスのようにどぱーっと噴射していたのに対し、今回のシン・ゴジラは身をかがめ大地に向かって吐瀉物のように熱線を吐いていた。そこにカタルシスはなかった。

では、なにがあったのか。それは、〈痛々しさ〉である。

嘔吐というのは、〈痛み〉につながっている。なにかを排出していくにもかかわらずその吐いている身体そのものが感覚される実存的な痛み。それが〈嘔吐〉ではないか。

わたしは嘔吐するように熱線を口から吐瀉しつづけるゴジラをみながら、ああこれは石部さんの句そのものではないかと思った。「黄昏の体かがんで蝶を吐く」。

〈嘔吐〉は身体の痛みを導入することによって、わたしの痛みだけでなく、あなたへの痛みも問いかける。その意味で、嘔吐は、わたしの「痙攣」からあなたへの「闘争」にもつながっていく。

〈吐き気〉を哲学的に考察したメニングハウスは次のように述べている。

  吐き気を初めて理論化した一人であるカントは、吐き気を「強烈な生命感覚」と呼んだ。……吐き気とは、非常事態にして例外状態であり、同化しえない異他的なものにたいする自己防衛の切迫した危機であり、文字どおりの意味で生きるか死ぬかに関わる痙攣にして闘争である。 

  (メニングハウス、竹峰義和・知野ゆり・由比俊行訳『吐き気 ある強烈な感覚の理論と歴史』法政大学出版局、2010年)

〈吐き気〉とは、「非常事態にして例外状態」であり、〈外部〉に違和を感じたこのわたしの「生きるか死ぬか」の「痙攣にして闘争」である。

東京の中心地、皇居の近くにおいて、視覚的にも美しいスペクタクルのような光の熱線とは裏腹にゴジラはまるで〈嘔吐〉するかのように熱線を吐瀉しつづけた。そこにはゴジラ自身の〈外部〉に対する違和としての「生きるか死ぬかに関わる痙攣にして闘争」があったのではないか。そして石部さんの句もそうだ。語り手は「かがんで蝶を吐」いている。美しいスペクタクルのような蝶を吐きながら、語り手は「生きるか死ぬかに関わる痙攣にして闘争」をしている。

石部さんの句集には、〈嘔吐〉をめぐる句が多い。少しまとめてみよう。

  雑踏のひとり振り向き滝を吐く  石部明

  わが喉を激しく人の出入りせり  〃

  身体から砂吐く月のあかるさに  〃

ここで石部さんの句で大事なことは、語り手が〈嘔吐〉するたびに、自らを取り巻いている〈場面(シーン)〉を強く意識していることだ。「雑踏のひとり」という交通的場面、「わが喉」が「人の出入り」する空間となる場面、「月のあかる」く光に満ちた場面。

嘔吐や吐き気はわたしからわたしに回収されていくものではなく、たとえそれが排出物であったとしても、わたしから〈外〉へとアクセスされ、場面を想起させるなにかなのだ。

  サルトルが経験したように、名前が事物から剥離し始めたとき、言葉は自分の身体からも自立し始めていたので、そのとき体験された名づけようもない嘔吐を催す存在は、わたしを事物や他者から隔てる無であるばかりでなく、わたしの言葉、つまりわたしの自己意識をわたしの身体からも隔てる、ヴァレリイのいう非存在の体験であったともいえる。
   (近藤耕人「身体と言葉のコギト」『ユリイカ』1982年11月)

「名づけようもない嘔吐」は「わたし」を「わたしの自己意識」からも遠ざける。だから「嘔吐」はわたしからわたしに過不足なく回収されない。それは吐瀉物がそのまま身体に戻らないように、「嘔吐」によってわたしたちは〈わたし〉からも疎外された「非存在」になる。しかしそのとき逆説的にわたしたちは〈わたし〉の枠組みを抜けだし、〈外〉とそれまでとは違ったやりかたでアクセスするきっかけを見いだすのではないか。

  嘔吐(もしわれ影でない何かなら)  小津夜景


   (「天蓋に埋もれる家」『フラワーズ・カンフー』ふらんす堂、2016年)

『シン・ゴジラ』で映画の物語が転回しはじめるのは、ゴジラの〈嘔吐〉によってである。熱線を吐くシーンでは、《わたしがこの世界で死んでも誰もわたしのことを知らないだろう》という趣旨の歌「Who will know」が流れる。この「わたし」とは「ゴジラ」のことではないか。だれもゴジラを理解しない。理解できない。ゴジラは嘔吐する。ゴジラ自身もゴジラのことを理解しない。

だれが《あなた》のことを知るのか。

〈嘔吐〉によってゴジラはゴジラから疎外され、わたしたちもわたしたちから疎外される。でもそこからはじめてふたたびわたしたちの「痙攣にして闘争」がはじまるのではないか。

嘔吐して、疎外されて、はじめて疎外(嘔吐)するわたしは疎外(嘔吐)されたわたしと「殴りあ」えるように、おもうのだ。「オルガン」と「すすき」という異者同士になって。

  オルガンとすすきになって殴りあう  石部明


          (「遊魔系」『セレクション柳人3 石部明集』邑書林・2006年 所収)




2016年11月3日木曜日

フシギな短詩54[小津夜景]/柳本々々




  サイダーをほぐす形状記憶の手  小津夜景


いや、こんなふうに考えてみよう。どうして語り手は「サイダーをほぐす」ことができたのかを。

サイダーは飲み物なのだからまぜることはできても「ほぐす」ことはできない。「もつれてかたまったものをとく」ことが「ほぐす」なのだから、「サイダー」はほぐせない。でもひとつだけ方法がある。

この「サイダー」が〈ゼリー〉である場合だ。その場合、「ほぐす」ことは可能かもしれない。

注意したいのは、その「ほぐ」している「手」が「形状記憶の手」である点だ。つまり、「形状記憶」ができる「手」であるために、「サイダー」を〈ゼリー〉のような「記憶」としてあつかうことができるようなのだ。

小津夜景さんの俳句にあっては、記憶とゼリーは関係しあっているらしい。こんな句を引いてみよう。

  ぷろぺらのぷるんぷるんと花の宵  小津夜景

もちろん「ぷろぺら」はゼリーのように「ぷるんぷるん」とはしない。でも、この「ぷろぺら」がひらがな表記である点に注意したい。この「ぷろぺら」は「プロペラ」ではない。主観のなかでまだ客観化されない「ぷろぺら」なのだ。まだ語り手の主観にあって「ぷるんぷるん」としている「形状」化されないゼリーのような「ぷろぺら」。「ほぐ」されつつある「ぷろぺら」だ。

ゼリーのようなぷるぷるした記憶に満ちた句集。この句集の一番目に置かれた句をみてみよう。この句集はどんな句ではじまったのか。

  あたたかなたぶららさなり雨のふる  小津夜景

「たぶららさ」はタブラ・ラサであり、白紙のようななにもまだ書き込まれていない心という意味のことばだ。しかしそうした無垢な意識そのものが「たぶららさ」という主観のなかにひらがな表記として《すでに書き込まれた》ものとして存在しているのがこの句の特徴である。しかも「あたたか」い。「雨のふる」も濡れることの《書き込み》としてみてもいいかもしれない。

つまりこの句集は、白紙状態のまだ書き込まれていないフォーマット=初期化そのものがすでに《書き込まれた》ものとして存在することから始まっているのだ。

わたしたちの意識はどんなに始原的に遡ってもすでに《書き込まれている》。それがこの句集の《態度》ではないか。だからサイダーもほぐせるし、ぷろぺらもぷるんぷるんなのではないか。それはすでに《書き込まれた》世界だから。わたしたちは白紙に、無に、ゼロになることはできない。わたしたちの意識は遡行すればするほど、痕跡化していく。

  失われたものが要求するのは、記憶され、かなえられることではなく、わたしたちのなかに忘れられたものとして、失われたものとして残ることである。ただそのことによってのみ忘れえぬものになるのだから。
  (アガンベン、上村忠男・堤康徳訳『涜神』月曜社、2005年)

「忘れられたもの」そのものが痕跡化すること。しかしその痕跡は決して「かなえられ」ることはないこと。それはゼリーのようななにものにもなりえない〈記憶〉である。わたしたちが生きることは、叶えることのできない「ぷるんぷるん」を引き受けつづけることなのだ。

だから、純粋にはなれない。なにも捨てることもできない。忘れることもできない。叶うこともない。ぷるんぷるんは切迫する。そしてぷるんぷるんは、たぶん、そのたびごとに、〈がまんができない〉という。ぷるんぷるんはだだをこねる。わたしたちはぷるんぷるんと向き合う。なんとかしてやろう、と思う。がまんができずになにかになりたそうな「ぷるんぷるん」をわたしたちは抱き寄せる。わたしは。いや。わたしじゃなくて、句がそう言っている。

  誤字となるすんでの水を抱き寄せぬ  小津夜景




          (「古い頭部のある棲み家」『フラワーズ・カンフー』ふらんす堂・2016年 所収)