ラベル 近代 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 近代 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年9月8日金曜日

超不思議な短詩206[復本一郎]/柳本々々


  「俳意」とは、俳諧性の(庶民性・滑稽性)のことである。  復本一郎

復本一郎さんが「川柳のルーツ」を次のように書いている。

  川柳のルーツ「江戸川柳」は、俳句のルーツである俳諧から派生したところの雑俳前句付という文芸として誕生したものであった。それゆえ、俳句と川柳とは、血縁関係にある文芸であると言っていい。源流をまったく異にする文芸ではないのである。かくて、俳諧発生時からの特質の一つである「滑稽性」(「笑い」)は、川柳にもかかわる特質だったのである。
  (復本一郎『俳句と川柳』)

復本さんによれば、もともと俳句と川柳のルーツにある「俳諧」は、庶民性・滑稽性が大事にされており、したがって、そこから派生した俳句・川柳にも滑稽性が引き継がれていたという。

今でもどちらかというと川柳と言えば、〈笑える文芸〉というふうに理解されているんじゃないだろうか。たとえばこんなシルバー川柳。

  誕生日ローソク吹いて立ちくらみ  シルバー川柳

誕生日にローソクを吹いたら立ちくらみしてしまう自分自身のエネルギーのなさをシルバーの立場から自虐的に描いている。こうした笑いを探求する川柳がある一方で、樋口由紀子さんはこんなふうに語っている。

  生きて有る事の不可解さ、不気味さ、奇妙さ、あいまいさなどが書けるのも川柳の特質である。
  (樋口由紀子『MANO』1998年5月)

不可解、不気味、奇妙、あいまい。これは「滑稽」とはまったく逆のベクトルをゆく、負やネガティブな力強さということになる。そういう価値観を川柳は引き受けることにもなった。ここで《あえて》樋口由紀子さんの句集から〈暗い〉価値観をもつ句を(分類しながら)みてみたい。

  ちょっと湿っている山高帽子  樋口由紀子
   (不快)

  悪になるオニオンスープ召し上がれ  〃
   (悪意)

  ねばねばしているおとうとの楽器  〃
   (不気味)

  荒野から両手両足垂れ下がる  〃
   (不可解)

  洗面器に水を満たして憧れる  〃
   (奇妙)

  階段の前を流れる不確実  〃
   (あいまい)

現代川柳はこうした負の価値観を積極的に育てる現場になった。

だから川柳にはおおまかに言えばふたつの流れがある。滑稽性を育む川柳と、負の価値観をも孕む川柳。簡単にいうと、サラリーマン川柳は自虐的だが明るく、現代川柳は他虐的で暗いと言えるだろうか。

私が面白いなと思うのは、復本さんが書かれたようにルーツには滑稽性があったとしても、またサラリーマン川柳のようにちゃんと滑稽性を引き継ぎ育んでいるものがあるのに、なぜわざわざ〈暗さ〉を引き受けるような現代川柳がうまれていったのかということだ。なぜなんだろう。滑稽性を突き詰めればよかったのではないか。ネオサラリーマン川柳のような。

ここからはちょっとこの一年を通しての推測なのだけれど、この負の価値観によって、川柳ははじめて〈近代〉をむかえようとしたんじゃないかと、おもう。つまり、個としてジャンルを自律させようとしていたんじゃないかと。樋口さんの句にあらわれたような不快や不気味や不可解は〈存在〉を際だたせるものである。ひとは享楽的なときは存在を意識しないが、みずからが死すべき存在であることを意識することによって実存を意識する。こうしたジャンルの実存意識として、負の価値観をはらみこんだのではないか。

わたしが不思議だったのは、主体性をめぐる観点だ。たとえばシルバー川柳では主体性ははっきりしている。シルバーな主体が、火を消すために息をふきかけ、エネルギーを消尽し、倒れんとしている。その主体は滑稽だ。そういうはっきりした主体がある。でも一方、樋口さんの句では主体性がみえないようになっている。「ねばねばしている弟の楽器」があって、姉にとって・ねばねばしているのだが、だからといってそれがどのような主体性になるのか。

わからないなかで不可解ななにかを感触してしまう。そのとき、主体は、主体にあるのではなく、むしろ、ジャンルが個としてたちあがる、ジャンルが実存的=主体的にそれら負の価値観を感触しているのではないか。つまり、主体は句のなかにあるのではなくジャンルにある。ジャンルが主体なのである。

現代川柳を〈読む〉という作業はとても難しい(といつも感じるしいつも挫ける)。それはカミュの『異邦人(よそもの)』で、ムルソーがどうして太陽のせいでひとを殺したのかよくわからないのに似ている。

ただたとえばそのムルソーの殺人の理由は、実存主義文学が理由なんですよ、と言われればなんとなく見えてくるように、ジャンルに主体の根拠があるのだ、そうやって川柳のとても遅れた近代がきているんだとおもうと、すこしわかりやすいような気がする。でもちょっと今回のこの話題はこれからも長くかんがえていこうと思っています。カミュがいってました。「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。それは自殺だ。だが、肝心なのは生きることだ」と。

  額の汗きらきらきらと悪である  樋口由紀子

          (「俳句に必要な「笑い」とは」『俳句と川柳』ふらんす堂・1999年 所収)

2017年8月31日木曜日

続フシギな短詩189[与謝野鉄幹]/柳本々々


  われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子あゝもだえの子  与謝野鉄幹

この歌に関して、穂村弘さんが面白い解説を書かれている。

  鉄幹の「われ」は、その弟子世代の「われ」と較べても、あまりにもダイナミックかつ多面的、しかも引き裂かれていて把握が難しい。
  『紫』の巻頭に置かれた「われ男の子」は、その見本のような作である。一首の中に七つの「われ」が犇(ひし)めいている。それは混乱して「もだえの子」になるよなあ、と思う。
  (穂村弘『近現代詩歌」河出書房新社、2016年)

この七つの「われ」ってロマンシングサガ2の七英雄みたいでちょっと面白いが(『ONE PIECE』の七武海でもいいけど)、たぶんこの七つの「われ」をまとめあげているのが「あゝ」である。

どんなに分裂し「もだえ」ていても、〈ああ!〉と感嘆できる人間はひとりしかいない。この「あゝ」のなかに「男」も「意気」も「名」も「つるぎ」も「詩」も「恋」も「もだえ」も入っているのではないかと思う。

つまり、この「あゝ」がとっても近代的であり、縫い目を綴じ合わせる近代独特の〈ボタン〉のような働きをしているのではないかと思う。または、こんなふうに考えてみてもいい。どうして詩から「ああ!」は消えてしまったのだろう。どうして今「ああ!」を使うと古くさく感じられることがあるのだろうと。

すごく雑な言い方だが、近代はどれだけ〈わたし〉がカオスにおちいっても、「あゝ」でまとめあげようと思えばひとりの〈わたし〉にがっつりまとめあげられてしまう。

じゃあ、現代の〈わたし〉は、どうだろう(という言い方も雑でどうかと思うけれど)。

  ちょっとどうかと思うけれどもわたくしにわたしをよりそわせてねむります  斉藤斎藤
  (『渡辺のわたし 新装版』港の人、二〇一六年)

「わたくしにわたしをよりそわせ」る〈添い寝〉の距離感のような「わたし」。あなたに添い寝する〈あなた〉と〈わたし〉がいくら抱きしめても〈同一〉の人間にはなれないように、ここには微妙でソフトな距離感がある。しかしそれは、そんなに遠いわけでもない。抱擁しようと思えばできるくらいの距離には、あなたから離れたわたしはいる。「あゝ」ほど暴力的でもない。絶妙に、ソフトに、離れて、「ちょっとどうかと思うけれども」、でも、そこにいる、わたしのわたし。

斉藤斎藤さんの『渡辺のわたし』では、〈わざわざ限定して〉「渡辺のわたし」と歌集が名乗っているくらいに、きづくと〈わたし〉が少し離れた場所に遊離してしまう。でもそれはカオスでもなく、そんなに遠く離れて、でもない。それは、すぐそばにいる。すぐそばにはいるのだが、同一でもない。だから今は「渡辺のわたし」かもしれないが、次のしゅんかん、「わたし」は、「Xのわたし」になるかもしれない。そういう偶有的〈わたし〉にこの歌集はみちている。

  ぼくはただあなたになりたいだけなのにふたりならんで映画を見てる  斉藤斎藤

ずっと疑問だったのだが、なぜ「ぼくはただあなたと一緒になりたいだけなのに」じゃなくて、「あなたになりたい」なのだろう。いったい、《なって・どうする》のだ。

こう、考えてみたい。「ぼく」は、「あなた」の視点が所持できないことが、「あなた」の視点で世界を考えられないことがいやなのだと。いやなんだけれど、けれど、仕方がない。「わたくし」に「わたし」をよりそわせることはできるが、「あなた」とは絶対的な途方もない、しかし並んでそんなに離れてもいない、絶対的な距離感がある。わたしのわたしとあなたのあなた。

「わたし」は語法によっては操作できる。わたしがわたしに添い寝できる。しかし、「あなた」を《語法で操作したくない》。あなたの位置から・わたしは・映画を観たくない。というか、なれない。絶対不可能ということを死守する。でも、「なりたい」という気持ちは隠さない。でも、ならない。なりたいけど。

それが、この歌ではないだろうか。いや、今、わたしも気づいたんだけれど。

  あなたの空もちゃんと青くてサンダルはあなたのかかとにぴったりしてる  斉藤斎藤

          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

2017年8月28日月曜日

続フシギな短詩181[野沢省悟]/柳本々々


  ハンカチを999回たたむ春の唇  野沢省悟

鶴彬を取り上げたときにも少し話したが現代川柳は身体のパーツに比重を置く。なんでかは、わからない。川柳というジャンルが、近代化をなしとげられず、立派な主体を手に入れられなかったことの反動として、部位に着目するようになったのかもしれないし、そうでないかもしれない。しかし、近代化できず、去勢された精神分析的な主体が、身体の部位に着目しだすのは、そんなに無関係な話でもないような気がする。

1989年に野沢省悟さんによって復刊された中村冨二句集『童話』(1960年)がある。現代川柳を作者から切り離して作品だけで読めるのを実践したのが戦後の中村冨二だった。作品だけで読めるようにはどうすればいいかというと、作者の実人生とつかず離れずの距離をとりながらも、言語構築の面を前面化させることだった(と私は思う)。たとえば、

  影が私をさがして居る教会です  中村冨二

  嫌だナァ──私の影がお辞儀したよ  〃

  私の影よ そんなに夢中で鰯を喰ふなよ  〃

  肖像は私を見て居ないぞ 私の消滅だぞ  〃
   (『童話』かもしか川柳社、1989年)

ここでは「影」と「私」が転倒している。だんだん「影」の方が主体性を発揮しはじめ(「さがして居る」)、行動的になり(「お辞儀したよ」)、生命力を増し(「鰯を喰ふ」)、ついには「私」を滅ぼす(「私の消滅だぞ」)。

「私」と「影」の位置性をひっくりかえすことで、意味作用がまったくちがう風景になること。わたしがきえてゆくこと。こうした言説展開がここにはとられているように思う。言葉の構築のしかたによって、わたしは消えるのだ。

このように言葉によって部位に率先して主体性を与えるのが言葉を構築するということでもある。川柳はそれを前面におしだしてきた。野沢省悟さんの句が入った句集タイトルは『瞼は雪』なのだが、ここにも部位そのものが「雪」として、世界として、前面に展開していくようすがうかがえる。「瞼」が「雪」という季と同等であることは、掲句の「春の唇」というふうに、「春」と「唇」が接続されているところにも見出される。部位は、季と同等なほどの、存在感をもっている。冨二の「影」が力強かったように「ハンカチを999回たたむ」ちからをもっているのが「唇」である。さきほどの冨二の「影」は野沢さんの句のこんなところに流れ込んでいるかもしれない。

  下半身の僕は人を踏みつける  野沢省悟

  上半身の僕は人に踏みつけられる  〃

冨二の私から分離した「影」によって私の位置性が変わっていったように、どのように「僕」が分離していくかで、僕の主体性も変わってゆく。僕は分離の仕方によっては「踏みつけ」、分離の仕方によっては「踏みつけられる」。こうした〈半身の主体〉というものを川柳はかんがえてきた。

川柳にとって〈パーツの哲学〉はとても大きい。わたしたちの身体の部位はあまりに広大・深遠で、わたしたちはじぶんの手や足や唇や瞼や影や膝に、まだたどりついてさえいないのかもしれない。

  膝までの地獄極楽 河渡る  野沢省悟


          (「春の唇」『瞼は雪』かもしか川柳社・1985年 所収)