-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
2017年9月8日金曜日
超不思議な短詩206[復本一郎]/柳本々々
「俳意」とは、俳諧性の(庶民性・滑稽性)のことである。 復本一郎
復本一郎さんが「川柳のルーツ」を次のように書いている。
川柳のルーツ「江戸川柳」は、俳句のルーツである俳諧から派生したところの雑俳前句付という文芸として誕生したものであった。それゆえ、俳句と川柳とは、血縁関係にある文芸であると言っていい。源流をまったく異にする文芸ではないのである。かくて、俳諧発生時からの特質の一つである「滑稽性」(「笑い」)は、川柳にもかかわる特質だったのである。
(復本一郎『俳句と川柳』)
復本さんによれば、もともと俳句と川柳のルーツにある「俳諧」は、庶民性・滑稽性が大事にされており、したがって、そこから派生した俳句・川柳にも滑稽性が引き継がれていたという。
今でもどちらかというと川柳と言えば、〈笑える文芸〉というふうに理解されているんじゃないだろうか。たとえばこんなシルバー川柳。
誕生日ローソク吹いて立ちくらみ シルバー川柳
誕生日にローソクを吹いたら立ちくらみしてしまう自分自身のエネルギーのなさをシルバーの立場から自虐的に描いている。こうした笑いを探求する川柳がある一方で、樋口由紀子さんはこんなふうに語っている。
生きて有る事の不可解さ、不気味さ、奇妙さ、あいまいさなどが書けるのも川柳の特質である。
(樋口由紀子『MANO』1998年5月)
不可解、不気味、奇妙、あいまい。これは「滑稽」とはまったく逆のベクトルをゆく、負やネガティブな力強さということになる。そういう価値観を川柳は引き受けることにもなった。ここで《あえて》樋口由紀子さんの句集から〈暗い〉価値観をもつ句を(分類しながら)みてみたい。
ちょっと湿っている山高帽子 樋口由紀子
(不快)
悪になるオニオンスープ召し上がれ 〃
(悪意)
ねばねばしているおとうとの楽器 〃
(不気味)
荒野から両手両足垂れ下がる 〃
(不可解)
洗面器に水を満たして憧れる 〃
(奇妙)
階段の前を流れる不確実 〃
(あいまい)
現代川柳はこうした負の価値観を積極的に育てる現場になった。
だから川柳にはおおまかに言えばふたつの流れがある。滑稽性を育む川柳と、負の価値観をも孕む川柳。簡単にいうと、サラリーマン川柳は自虐的だが明るく、現代川柳は他虐的で暗いと言えるだろうか。
私が面白いなと思うのは、復本さんが書かれたようにルーツには滑稽性があったとしても、またサラリーマン川柳のようにちゃんと滑稽性を引き継ぎ育んでいるものがあるのに、なぜわざわざ〈暗さ〉を引き受けるような現代川柳がうまれていったのかということだ。なぜなんだろう。滑稽性を突き詰めればよかったのではないか。ネオサラリーマン川柳のような。
ここからはちょっとこの一年を通しての推測なのだけれど、この負の価値観によって、川柳ははじめて〈近代〉をむかえようとしたんじゃないかと、おもう。つまり、個としてジャンルを自律させようとしていたんじゃないかと。樋口さんの句にあらわれたような不快や不気味や不可解は〈存在〉を際だたせるものである。ひとは享楽的なときは存在を意識しないが、みずからが死すべき存在であることを意識することによって実存を意識する。こうしたジャンルの実存意識として、負の価値観をはらみこんだのではないか。
わたしが不思議だったのは、主体性をめぐる観点だ。たとえばシルバー川柳では主体性ははっきりしている。シルバーな主体が、火を消すために息をふきかけ、エネルギーを消尽し、倒れんとしている。その主体は滑稽だ。そういうはっきりした主体がある。でも一方、樋口さんの句では主体性がみえないようになっている。「ねばねばしている弟の楽器」があって、姉にとって・ねばねばしているのだが、だからといってそれがどのような主体性になるのか。
わからないなかで不可解ななにかを感触してしまう。そのとき、主体は、主体にあるのではなく、むしろ、ジャンルが個としてたちあがる、ジャンルが実存的=主体的にそれら負の価値観を感触しているのではないか。つまり、主体は句のなかにあるのではなくジャンルにある。ジャンルが主体なのである。
現代川柳を〈読む〉という作業はとても難しい(といつも感じるしいつも挫ける)。それはカミュの『異邦人(よそもの)』で、ムルソーがどうして太陽のせいでひとを殺したのかよくわからないのに似ている。
ただたとえばそのムルソーの殺人の理由は、実存主義文学が理由なんですよ、と言われればなんとなく見えてくるように、ジャンルに主体の根拠があるのだ、そうやって川柳のとても遅れた近代がきているんだとおもうと、すこしわかりやすいような気がする。でもちょっと今回のこの話題はこれからも長くかんがえていこうと思っています。カミュがいってました。「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。それは自殺だ。だが、肝心なのは生きることだ」と。
額の汗きらきらきらと悪である 樋口由紀子
(「俳句に必要な「笑い」とは」『俳句と川柳』ふらんす堂・1999年 所収)
2017年8月30日水曜日
続フシギな短詩187[北野岸柳]/柳本々々
歳時記の中で密会してみよう 北野岸柳
飯島章友さんがたしかそう書かれていたのだと思うのだが、川柳でも季語は使われることはあるのだけれど、川柳においては季語は〈私的(プライベート)〉に活用されるのだという。だから俳句にとって季語は公的でありオフィシャルなものなのだが、川柳においては季語はアンオフィシャルなものなのだ。この指摘をきいたとき、わたしは、なるほどなあ、と思った。俳句と川柳では、季語にたいする態度がちがうということ。
変な話なのだが、もし川柳に私性というものがあるのだとするならば、それは〈私的活用〉という意味での〈私性〉なのではないか。
私が今すぐ思いつく季語の入った川柳にこんな句がある。いちど取り上げているけれど。
わけあってバナナの皮を持ち歩く 楢崎進弘
「バナナ」が夏の季語である。わけあって「季語」を持ち歩いている語り手。この句が、川柳の季語に対する態度をとてもよくあらわしているのではないかと思う。「わけあって」と「季語」を所持している理由はプライヴェート(私秘的)に隠されている。おまえには関係がない、と。こうして季語は、《私的活用》されている。
長い前置きになってしまったが、岸柳さんの掲句をみてみよう。「歳時記の中で密会してみよう」。これはまさしく〈季語が展開する場〉を「密会」の場として〈私的活用〉する句と言えないだろうか。俳句で、密会ということばを使うのは危うい。たぶん、俳句で「密会」ということばを使うと、季語の「歳時記性」のような公共性が保てないのではないかとおもう。ところが川柳ではよく「好き」や「逢う」を使う。こうした偏りのある〈私的(プライヴェート)」な動詞を使っていいのが川柳である。だから、「密会」も使う。
川柳は詩になりそうもないどんな言葉でも使い、季語に束縛されない。この自由があるかぎり、どんな不可能な、不気味な、奇妙な、あいまいな場所にも踏み込んでいくことができる
(樋口由紀子『MANO』4号)
だからそうした公共的な場所である「歳時記」も密会の場所として私的活用してしまう。もしかしたら川柳の眼目というのは、このあらゆるものの〈私的活用〉にあるのかもしれない。以前、取り上げたこんな句を思い出してみる。
非常口セロハンテープで止め直す 樋口由紀子
非常口の緑の人と森へゆく なかはられいこ
「非常口」は公共性のあるものだが、つまり決して私的活用されてはならないものだが(私的活用されては非常口にならない。それでは、〈勝手口〉である)、これら句では〈私的活用〉されている。セロハンテープで止め直すのも私的活用だし(そんな非力な耐久性では公共性は守れない)、非常口の緑の人と森へいってしまうのも〈私的活用〉である(緑の人に逃げられては非常口を指示する記号がなくなるので公共的に困る)。
「歳時記の中で密会してみよう」という〈公共性〉と〈私秘性〉の出会いそのものをあらわしたような句は、まさにこの俳句と川柳のジャンルの違いそのものをあらわしているようにも、おもう。
ただ問題がある。川柳は私的活用が非常にうまいのだが、だんだん〈私尽くし〉のようになってきて、〈私地獄〉の世界になってゆくのだ。私がゲシュタルト崩壊してゆくというか。だから、こんな、句がある。
何処までが私で何処までが鬼で 北野岸柳
(『動詞別 川柳秀句集「かもしか篇」』かもしか川柳社・1999年 所収)
2017年8月20日日曜日
続フシギな短詩167[楳図かずお]/柳本々々
へび少女へをしたとたん美少女に 楳図かずお
NHKの対談番組『SWITCHインタビュー達人達 楳図かずお×稲川淳二』において、漫画家・楳図かずおと怪談家・稲川淳二がこんなふうに話している。
楳図 笑いが先なのか、恐怖が先なのかわからない。
稲川 たまに怪談ってすごく笑えることがある。笑いのなかにふっと狂気があったり。
楳図 恐怖と笑いは一緒。
この話の流れになって、楳図かずおが川柳をつくってきたから稲川に見せたいと川柳をだしてくる。
「かい蟲(ちゅう)を釣るんだ!」と釣り針のみ込んだ 楳図かずお
「お前のはくさすぎる!」とトイレの中から声がした 〃
髪の毛ののびる人形にパーマあて 〃
少し前に取り上げたマンガ『川柳少女』もそうなのだが、どうして楳図かずおが〈川柳〉という枠組みを《わざわざ》使ったのかが興味深いところだ。番組では川柳を紹介しただけで、どうして楳図かずおが川柳にしてわざわざもってきたのかは語られなかった。だから考えてみよう。
楳図かずおが持ってきた川柳は、恐怖と笑いは紙一重という話題が出されたときに、稲川にみせられたものだった。だからひとつは楳図にとって川柳という形式は、《恐怖と笑いを複合させる》のに適した表現形式だったということができる。
恐怖と笑いは相反するベクトルをもっていそうだが、エネルギー量は似たものをもっている。たとえば恐怖の表情と笑顔の表情の顔のひきつれに生じるエネルギー量はおなじようなものかもしれない。快(笑い)・不快(恐怖)としては反対方向のエネルギーベクトルをもっているのだが、それがあるリミットを越えた瞬間、おなじようなエネルギーベクトルになるのである。たとえばあまりにも残酷な風景をみたときに感情が振り切れて思わず笑ってしまうような。カート・ヴォネガット。
わたしは連合軍によるドレスデンの大空襲をこの目で見た。空襲前の街を見て、地下室に入り、地下室から出て、空襲後の街を見たわけだ。声をあげて笑う以外なかった。心が何かから解放されたくて、笑いを求めたのだと思う。
ユーモアというのは、いってみれば恐怖に対する生理的な反応なんだと思う。
笑いが恐怖によって生じることはかなり多い。
(カート・ヴォネガット『国のない男』)
楳図かずおは恐怖と笑いを複合するのに川柳という表現形式を選んだが、川柳というのはそうした反作用する感情を複合(パッケージング)し、そのままリミットを超え出ようとするのに向いているんじゃないかと思うのだ。
たとえば樋口由紀子さんの現代川柳をみてみよう。
義母養母実母の順ににじりよる 樋口由紀子
三十六色のクレヨンで描く棺の中 〃
布団から父の頭が出てこない 〃
明るいうちに隠しておいた鹿の肉 〃
非常口セロハンテープで止め直す 〃
(『容顔』)
これらは現実でやろうとすればできないこともない現代川柳である。「義母養母実母の順ににじりよ」られることも人生にはあるかもしれないし、「三十六色のクレヨン」で棺の中を描くことだってできる(怒られると思うが)。布団から父の頭が出てこない休日もあるだろうし、明るいうちにジビエを隠しておく猟師もいるかもしれない。非常口を応急処置としてセロハンテープでつけることもやれないことはない。
だけれども。
なんか、おかしい。と、おもうはずだ。できるけれど、なんか、おかしい、と。そして、こわい、と。
「義母養母実母」とシステムに操られたようににじりよる人間、カラフルな祝祭と死の同居、「布団」が生の「世界」と等価になってしまうときの不在の父、野生の本能にあらがえなくなった人間から離れてゆく人間、この世の出口かもしれない大切なものがぞんざいに機能しはじめた世界。
おかしいけれど、こわい。
現代川柳はそういう混在し反作用する感情を複合させ、なんの答えも与えずに点として指し示すことができる。それがいったいなんなんですか、と言われればそれまでなのだが、しかし〈いったいなんなんですかこれは〉というインパクトもある。そのインパクトは文学になるかもしれない。
楳図さんがそれに気づいていたかどうかはわからないが、楳図さんは川柳を知らなくても、マンガを描いていくなかで、相反する感情の同居という〈川柳性〉のようなものに本人も気づかないかたちで気づいていたのではないか。
別に川柳を知らなくたって、川柳にアクセスしてしまっていることがあるのだ。
半袖に着替えて待っている最初 樋口由紀子
(NHK『SWITCHインタビュー達人達 楳図かずお×稲川淳二』2017年7月23日 放送)
2017年6月4日日曜日
続フシギな短詩123[柳本々々]/柳本々々
ジャイアント馬場それも霊体がマーライオンを通過する 柳本々々
以前、ある川柳のイベントで話をするとして十句選を提出してくださいと言われ、私は次の十句を提出した。
(テーマ【世界の終わりと任意の世界】)
みんな去って 全身に降る味の素/中村冨二
頷いてここは確かに壇の浦/小池正博
ファイティングポーズ豆腐が立っている/岩田多佳子
オルガンとすすきになって殴りあう/石部明
妖精は酢豚に似ている絶対似ている/石田柊馬
人差し指で回し続ける私小説/樋口由紀子
中八がそんなに憎いかさあ殺せ/川合大祐
おはようございます ※個人の感想です/兵頭全郎
毎度おなじみ主体交換でございます/飯島章友
菜の花菜の花子供でも産もうかな/時実新子
テーマをつけろとは言われてなかったのだが、テーマもつけて提出した(私はときどきそういうなんだかずるいリークみたいなことをすることがある)。
で、最近、川柳作家の川合大祐さんと電話していて、川合さんが、あのやぎもとさんの、マーライオンの句、あれ、過剰ですね、と言われたときに、あれっ、そう言えば、川柳って〈過剰性〉ってキーワードになるんじゃないの、と思ったりした。「過剰性、そう言えば」と私は言う。
「前に、川柳のイベントで提出した十句も今思えば、ぜんぶ、過剰性ですよね。『みんな去って/全身に降る』という演劇的過剰性、「頷いてここは確かに」という肯定の過剰性、『ファイティングポーズ豆腐』という豆腐の過剰性、『殴りあう』という武闘的過剰性、『似ている絶対似ている』という認識の過剰性、『回し続ける私』という私の過剰性、『さあ殺せ』という自虐の過剰性、『※個人の感想です』という相対化する過剰性、『主体交換』という主体の過剰性、『子供でも産もうかな』というジェンダーの過剰性。なあんだ、ぜんぶ、過剰性なんだ」と私は言った。それから「はぁはぁ」と。少し息も切らずに過剰性過剰性しゃべったので。
「ああ、あああ、あ、ああ」と川合さんも言う。「いやあのね、やぎもとさんの句の『それも』ってのが、なんか気になったんですけどね、それも過剰性ですよね、まあなんでもかんでもこの句ぜんぶ過剰性なんですけどね」
「あーあ」と私は言った。気を抜いていたので変に伸びたが、勘違いされるかもしれないので、すぐに「ああ」と言い直した。「どうしてね、川柳が過剰性を引き受けるようになったのかは謎なんだけど、たとえばね、アルチュセールが、フーコーが、バルトが、ラカンが、クリステヴァが、もし現代川柳を読んだらね、すごく喜んだじゃないか、嬉しがったんじゃないかって思うときがあるんですよ。それはなんだろう。主体の過剰なぐずぐず感、あらゆることの過剰性かなあ、でもそれってまさにポスト構造主義じゃないですか、ポスト構造主義は構造主義にはなかった主体の過剰性、構造からぐずぐずはみ出していくなにかを見つけた。現代川柳ってポスト構造主義のぐじゅぐじゅしてる感じと実はとっても親しいような気がするんです」
「たしかにね、構造主義と定型は似ていて、でもその構造主義=定型から、なんだかはみ出ていくものも定型は同時にかかえもつ場合がありますよね。それってポスト構造主義的な部分に近づいていくのかもしれない」と川合さん。
「ああ、そうですよ。ほんと、そうだ。うーん、だから現代思想とか文学理論で現代川柳って読み解きやすいのかな。私は実は現代川柳の感想を書くとき、ぜんぶ、現代思想か文学理論の枠組みでしか読んでないんですよ。だから最初は怒られてパンチされたりするのかなとか思ってたんですよ。でもとくに怒られはしなかった。それって現代川柳がそういう部分をかかえてたからなんですかね」とわたし。
「ああ、そうですよ。そうかもしれない」と川合さん。
「そうですよね。そうなのかな」とわたし。
「そうだなあ、そういうことなのかなあ」と川合さん。
「そう。うーん。あ、ああ。そう」とわたし。
しかし、これ以上、無駄に会話も続けられない。さすがに「そう」「そう」だけで電話もしていられない。フシギな短詩ではなく、フシギな会話になってしまう。
「そう」を「それでは」に切り換えて、「はい。失礼します」と言って私は電話を切った。
電話を切って、正座して、部屋のまんなかでぼんやりして、絨毯をひとさしゆびで無駄になぞりながら、ああ、そうだ、あの人のことも言えばよかった、と私は思った。わたしはいつも大事なことを忘れてしまう。ジャック・デリダのことだ。
デリダは大胆にも、ハイデガーの現-存在とは電話の呼びかけに応えて「電話に出ること」だという。人間は存在にではなく、電話というテレコミュニカシオンに拘束され、電話に釘づけにされ、電話へと運命づけられているわけである。
(上利博規『デリダ』)
私は電話に手をかける。いやもう夜遅いしさすがに今度でいいよくだらないことに電話を使うなよ、とデリダの声。はい(oui)、と私。
怒られたらどうしようと思う眠る 柳本々々
(「暗い人間」『川柳の仲間 旬』211号・2017年5月号 所収)
2017年4月30日日曜日
続フシギな短詩106[樋口由紀子]/柳本々々
軽症だから道の真ん中を歩く 樋口由紀子
以前、そんなに遠くはない昔に、
むこうから白線引きがやって来る 樋口由紀子
という樋口さんの句の感想を『週刊俳句』に書いたことがある。それは「境界破壊者たち」というタイトルだった。
そのときはまだよくわかっていなかったのだが、今もう一度この句について考えてみると、この句で描かれているのは、〈わたしの紹介(しょうかい)〉ではない。わたしがなんとなくそうしなければならないような気がしてそのときそのタイトルをつけたようにここで描かれているのは〈わたしの境界(きょうかい)〉である。《境界例》だ。
「むこうから白線引きがやって来る」。なにかが起こるかもしれないし、なにも起こらないかもしれない。しかし、やって来る以上、「線」は引かれるだろう。引かれてしまった線。わたしが何かしても何もしなくてもその引かれた線によってわたしの行為も変質してしまう。わたしはなにもしなくてもわたしは境界にたたされてしまっている。これは〈わたし〉の問題ではない。句の構造がつくってしまった〈境界〉の問題、そこからいかんともしがたく発生してしまう〈わたし〉の問題である。現代川柳はこうした症候的なわたしを発見してしまったのだ。
そのことに気づいていたのが小池正博さんである。『MANO』(13号、2008年3月)に小池さんは「樋口由紀子・鏡像の世界」という樋口由紀子論を書いている。そこで小池さんは樋口さんの句における「鏡像」をこんなふうに説明する。
川柳の鏡に映る世界と自己の像は、次第に屈折を見せ、独自の変容をとげはじめる。…樋口由紀子は「川柳」という自己投影の鏡を手に入れたのである。けれども、この鏡面自体が一種の歪みをもっていた。そこには「私」の姿が映し出されていたが、鏡に映る像は日常性を超えて非日常的な姿を見せ始める。現実の投影というよりも鏡像自体がおもしろかったのである。
(小池正博「樋口由紀子・鏡像の世界」『MANO』13号、2008年3月)
このとき小池さんのイメージの中には明らかに精神分析家ジャック・ラカンの鏡像段階のイメージがあるのだが、大事な点は現代川柳が鏡像的主体を手に入れたとき同時に〈傷ついたわたし〉も手に入れるということである。
たとえばラカンを知らなくても鏡をみてみるとよい。鏡のなかにはわたしがいる。しかしそれは左右が逆であり、また他者がふだん肉眼でみているわたしとも違う鏡のなかのわたしである。〈そこ〉、鏡にしか〈わたし〉はいないのだが、しかし、〈それ〉は〈この〉わたしではない。だとしたら、わたしの位相はどこにあるのだろう。わたしは分裂し、傷つき、裂けてしまう。鏡の前に立つとは、「むこうから白線引きがやって来る」をそのまま引き受けることになるのだ。
小池さんはこのあとこの鏡像イメージからキャラクター論へと移行していく(しかし斎藤環さんの一連の著作をみてもわかるようにキャラクターとは精神分析的な存在である)。精神分析的言説には深入りしていかなかったのだが、しかしわたしは十年前に小池さんが示したこの現代川柳と精神分析的言説のリンクをとても興味深いと思う。
とっても遠回りしたが、掲句をみてほしい。「軽症」と書いてある。「軽症だから道の真ん中を歩く」と。この句も症候事例的である。「軽症/重症」という境界が示され、どうじに、「真ん中/端」という境界が示される。
わたしは別に現代川柳が病的だと言いたいわけではない。そうではなくて、現代川柳は主体の構造が複雑であり、その複雑さを説明するには、日常的な言説だけでなく、精神分析学のような複雑な言説も参照する必要があるかもしれないということを考えているだけだ。ただし、精神分析学といっても臆することはない。みながみな、精神分析学を生きてしまっている。精神分析学はその意味ではずるい学問でもある。みんなが知らないふりをして知っていることを言葉にしているだけなのだから。
さいきんの樋口さんの句をみてみよう。
空想のかたまりである赤チョーク 樋口由紀子
(「姉の逆立ち」『MANO』20号、2017年4月)
『MANO』終刊号からの一句。「赤チョーク」は「空想のかたまり」として回収されてしまう。しかしその「赤チョーク」が「空想のかたまり」であるということを〈ちゃんと〉認識しているメタな視線もここにはある。「空想のかたまりである赤チョーク」を「空想のかたまりである赤チョーク」とメタ認識できている〈わたし〉。この〈わたし〉は《誰》なのだろう。この〈わたし〉はもはやキャラクターでもないように思う。キャラクターはメタ視線を有しないようにもおもうから(たとえば、のび太がじぶんがのび太であることを自覚したときのび太はのび太でいられるだろうか)。
樋口さんはこの『MANO』終刊号で「言葉そのものへの関心」という鴇田智哉さんの句集評を書いている。わたしはこの樋口さんのタイトルにひとつの答えがあるような気がする。「言葉そのものへの関心」。樋口さんの〈わたし〉とはイメージでも私性でも鏡像でもキャラクターでもなく言葉かもしれない。言葉のシステムから起動/再起動されるわたし。ラカンは無意識は言語のシステムとして構造化されているといった。
言葉から立ち上がるわたし。それは決して虚無的なわたしではない。ドライなわたしでもない。むしろ、言葉を使い言葉にとらわれ言葉をのりこえようとする切実なわたしである。
そしてもっとも肝心なことは、鏡があってもなくても、わたしは、いま、ここに、生きているということなのだ。
生きているといろいろなことに出会い、突き当たる。それらの事を通じて「私」のなかに蠢きだした何か、それを無関係だといって、無視をして生きていくことなどはできない。…書かれたものには、その人が、その人の物の見方が現われる。私はそうでなければ表現もしくは表現者とは言えないと思っている。彼はこの世を諦めない。この世の不条理はどうしようもなく、受け入れがたく存在するが、根っこの部分では人を信頼している。けして諦めないでおこうと思っている。
(樋口由紀子「言葉そのものへの関心」『MANO』20号、2017年4月)
(「樋口由紀子・鏡像の世界」『MANO』13号、2008年3月 所収)
2017年3月26日日曜日
フシギな短詩96[石田柊馬]/柳本々々
妖精は酢豚に似ている絶対似ている 石田柊馬
不思議な句だ。
「絶対」とは言いながらも、その「絶対」を言ってしまったがために、「絶対」が〈絶対〉をくつがえしてしまっている。
いったい私はなにを言っているのか。
つまり、こういうことだ。《絶対にそうだ》と確信していたのならば、「絶対」などとは《わざわざ》言わなくていいのだ。わかりきったことなんだから。そしてその発言に自信があれば、《わざわざ》繰り返す必要なんかないのだ。わかりきったことなんだから。
だから語り手は思っている。ほんとうは妖精は酢豚に似ていないかもしれないということに。絶対なんてこの世界にはないんだってことに。
でもそれでも言ったのだ。
いったいどういうことなんだろう。
こんなふうな説明ができるかもしれない。
ここにあるのは、絶対性ではなく、〈意に任せた〉任意性である、と。
わたしはこの妖精句は川柳という文芸を端的に象徴しているのではないかと思う。
つまりこう思うのだ。川柳とは、《任意性》の文学なのではないか、と。
前回、〈うんこ〉をめぐる記事であげた例をもう一度あげてみよう。
頷いてここは確かに壇の浦 小池正博
「ここ」が「壇の浦」だと絶対的な認識ができていたら、わざわざ「ここは確かに」なんて言う必要がないはずだ。認識できていなかったから、わざわざ「ここは確かに」と言ったのだ。語り手にとって「壇の浦」は〈任意〉である。意に任せた場所なのだ。
オルガンとすすきになって殴りあう 石部明
オルガンとすすき。これも任意である。わたしの考えでいえば、このオルガンとすすきが、オルガンとすすきである必然的な意味はない。いや意味はつけられるだろうけれど、つける必要がないほどにオルガンとすすきはカテゴリーとしてかけ離れている。
だからこの句を意味として解釈しようとするとたぶんうまくいかない。そうではなくて大事なのは、〈任意〉が暴力として発動してしまっているこの句が提出した〈状況〉にあるはずだ。本来殴りあえないはずのものが任意の認識によって殴り合ってしまったこと。これは認識と状況の問題である。
何度も言うが、わたしは、川柳とは、〈任意性〉の文学なんだと、おもう(これは季語というある程度の〈絶対語〉を引き入れたある程度の〈絶対性〉の文学としての俳句と対置してもいいかもしれない。「ある程度の」と言ったのは季語だって生まれたり滅びたりすることがあるため)。わたしは、そう、おもうのだ。川柳は、こころを詠む文芸ではなく、意(こころ)に任せる文芸なのだと。
非常口セロハンテープで止め直す 樋口由紀子
非常口セロハンテープで止め直す 樋口由紀子
「止め直」せたのは、「非常口」が絶対的なものではなく、任意の口になったからだ。だから、「セロハンテープ」程度のものでいい。非常口はほんとうは非常口なのだから絶対的なものではなくてはならない。でなければ、命が助からない。わたしもいざ逃げる時があるかもしれないので非常口はせめて絶対的なものであってほしいと思う。心からそう思う。
しかし川柳では、〈こう〉なのである。それがただしいのだ。任意の世界なのだから非常口はセロハンテープで止め直すのが正しい。わたしやあなたがいやでもそれは関係ない。
任意の世界。もう少し続けよう。
ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ なかはられいこ
ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ なかはられいこ
これも任意の発話である。読点が〈任意〉で埋め込まれることで、意味内容が〈任意〉に微分されていく。ここにはビルが崩れていくという2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を彷彿とさせるような絶対的出来事が起きているのに、それを分節する絶対的発話がない。だから、ビルがくずれてほんとうに語り手がきれいだと思っているのかどうかわからない。そもそもここにはたった一回でも「きれい」という発話は、ない。
これは、柊馬さんの妖精に対する「絶対」とおなじ位相の認識である。小池さんの不確かな「うん」や樋口さんの「セロハンテープ」の不穏さとおなじ位相の認識である。
言葉にとっての任意。意味にとっての任意。認識にとっての任意。世界にとっての任意。歴史にとっての任意。語り手にとっての任意。読者にとっての任意。
川柳は任意の文芸なのだと、妖精をとおして言ってみたい。妖精とわたしのたたかいをとおしてそう言ってみたい。
探偵シャーロック・ホームズを生んだコナン・ドイルが《妖精はいる絶対いる》として愛した有名な妖精写真がある。今みてもそれがほんとうの妖精かどうかわからない。私はこの妖精写真が好きで一時期机の上に飾っていたことがある。今でもときどき電車やバスに乗っているときに、いるかなあいないかなあと思うが、まだ答えは出ていない。い る か な あ。
妖精はいるかもしれないしいないかもしれない。妖精は〈任意〉のクリーチャーなのだから。それは、いるひとにはいるし、いないひとにはいないのだ。しかし、そういうドイルから、ホームズは生まれた。
任意。
任意とは、意に任せることだ。意に任せて、なにか発言することだ。意に任せて、あなたに問いかけることだ。こんなふうに。
ドラえもんの青を探しにゆきませんか 石田柊馬
(『セレクション柳人2 石田柊馬』邑書林・2005年 所収)
2016年12月30日金曜日
フシギな短詩71[松岡瑞枝]/柳本々々
お別れに光の缶詰を開ける 松岡瑞枝
昨日、森の中で、わたしはこんなふうに考えた――死を考えることを避けてはいけない、自分の人生の終わりの、ある一日のことを想像してみよう。穏やかなある日、一見、ほかの日とほとんど変わらないように思える、そのくせ突然、すべてがスピードを上げ――あるいは、おそらく、スピードをゆるめて――すべてが非常に密接に感じられる日のことだ。
(アン・ビーティ、亀井よし子訳「人生の終わりの、ある一日のことを想像してみよう」『貯水池に風が吹く日』草思社、1993年)
今年最後の記事になるので、少し〈終わり〉のことを考えてみよう。
どうして川柳という文芸には〈終わり〉をめぐる句が多いのだろう。
掲句もそうだ。「お別れ」で始まっている。たとえば次のような句もあげてみていいだろう。
三十六色のクレヨンで描く棺の中 樋口由紀子
(『容顔』詩遊社、1999年)
たてがみを失ってからまた逢おう 小池正博
(『セレクション柳人6 小池正博集』邑書林、2005年)
上記三句はどれも〈さようなら〉をめぐる句である。
松岡さんの「お別れ」、樋口さんの「棺の中」、小池さんの「たてがみ」の喪失。どれもそれぞれの〈さようなら〉である。
ところがもうひとつこれら三句に共通しているものがある。それは〈さようなら〉に突入しはじめたしゅんかん、現場がいきいきと息づいてくることだ。「光の缶詰」、「三十六色のクレヨン」、「また逢おう」。どれも、いきいきと輝いている。さようならの現場で。
なぜ現代川柳は〈さようなら〉をすると輝きだしてしまうのだろう。
フシギである。
ここで、ひとつの乱暴な仮説を提出してみたい。
俳句には季語があって、川柳には季語がない。
季語とは、なんだろう。季語とは自分の意志ではどうしようもできない言葉のことである。季語は共同体的なものであるため、勝手なシステムの改変は許されない。季重なりをしてはいけないなど季語をめぐる法=禁忌がきちんと定められている。
いわば、俳句はそのために季語というひとつの去勢から句をつくりはじめる。しかしその去勢という不能感をとおして俳句は俳句にしかない俳句的主体をたちあげることができる。
では、川柳は、どうやって川柳的主体をつくりあげるのだろう。川柳には季語がない。しかも、川柳というのは柄井川柳という選者の〈個人名がそのままジャンルになった〉奇妙なジャンルなので、定められた法も禁忌もない。自由にできる万能感に満たされた文芸といってもいい。その意味では小津夜景さんが指摘したようなSF・雑食的なジャンルであり、飯島章友さんが述べていたように異種格闘技・プロレス的なジャンルである。
しかしその万能感を去勢するものが現代川柳にとっては〈さようなら〉だったと言えないだろうか。現代川柳は〈さようなら〉を密輸することで、みずからに去勢をほどこす。「お別れ」「死」「喪失」という去勢をとおして不能感におちいってから五七五をたちあげる。それが川柳的主体なのではないか。そうやって川柳独特の川柳的主体をたちあげたのではないか。
川柳は、〈さようなら〉を、嬉しがっている。
さようならから、始めること。それが現代川柳なのかもしれないとおもうのだ。
ちがうかもしれない。でもいつでもさようならから始められることを教えてくれる現代川柳はわたしにふしぎな勇気をくれる。
終わっても終わってもさらなる「やあ」がやってくる。
これがほんとうに終わりなのか、と思ったせつな、真顔でやってくる「こんにちは」。それは真顔なのにきらきらしている。
今年が、終わる。前へ。
Oh, Mama, can this really be the end もといこんにちは 柳本々々
(『川柳 北田辺』74号・2016年11月)
(「前へ」『光の缶詰』編集工房円・2001年 所収)
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