ラベル 夏石番矢 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 夏石番矢 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年6月24日土曜日

続フシギな短詩132[曾根毅]/柳本々々


  立ち上がるときの悲しき巨人かな  曾根毅

ちょっと月波与生さんの川柳で、川柳と悲しみについて考えてみたので、俳句と悲しみについても考えてみよう。

月波さんの川柳は〈わたし〉が悲しがっていたが、まるで川柳と俳句の違いを示唆するかのように今回の俳句では巨人を〈みるひと〉が悲しがっている。巨人が「立ち上がる」その瞬間が、悲しい、と。月波さんの句は〈わからなさ〉が軸にある悲しみだったが、曾根さんの句は〈わかってしまう〉ことが軸にある悲しみである。この「みているひと」は巨人のことを、なんとなく、知っているのだ。巨人に、精通している。

しかし、巨人についてわたしたちが知っていることとはなんだろうか。

巨人俳句と言えば、

  ひんがしに霧の巨人がよこたわる  夏石番矢

という句がある。『ガリヴァー旅行記』のガリヴァーがそうだったように巨人は横たわるものだ。巨人でありながら横たわるからこそ巨人より遙かに低いわたしたちともコミュニケーションができるのだから(たとえば『シン・ゴジラ』でも〈巨人〉であるゴジラを無人在来線爆弾によって〈横たわらせ〉なければ血液凝固剤を注入(コミュニケーション)することができなかったことを思いだそう。あのときはじめて私達はゴジラとコミュニケーションがとれたのである)。

童話「ジャックと豆の木」や漫画『進撃の巨人』、ゲーム『ワンダと巨像』が示唆するように、巨人が「立ち上がるとき」はわたしたちと〈対立〉するときだ。すなわち、ディスコミュニケーションの瞬間なのだ。

だから巨人をみているひとは、わかった。巨人が立ち上がる時それは、かなしい、と。

曾根さんの句には、実はこんなふうに〈動きの結果〉をとらえた句が多い。

  滝おちてこの世のものとなりにけり  曾根毅

まるでやっぱりまたもや血液凝固剤によって凍結され「この世のもの」となった『シン・ゴジラ』のゴジラをなんだか思い出してしまうが、「滝」が「おちて」「滝」でなくなり、「この世のものとな」る。裏返せば「この世のもの」となるまで「滝」はまだ「滝」であり「この世のもの」ではなかった。わたしたちと微分的に関わる「この世の」カテゴリーにあてはまらないものが「滝」だった。「滝」はまだ巨人やゴジラのような〈結果〉にならない〈結果未満〉のものなのだ。

だから曾根俳句のなかで「滝」の対義語は「立ち上がった巨人」である。

結果。

「この世のもの」となってしまう結果。

動いた結果、「この世のもの」となってしまうものたち。

  鶴二百三百五百戦争へ  曾根毅

  この国や鬱のかたちの耳飾り  〃

  燃え残るプルトニウムと傘の骨 〃

「この世のもの」となってしまった「戦争」「鬱」「プルトニウムと傘の骨」。

どの巨人も「立ち上がって」しまったのだ。

巨人とは、わたしたちの閾値をあらわすものなのではないだろうか。巨人がたちがあるとき、それはわたしたちの閾値をこえる。滝は落ちて、わたしたちの閾値をこえる。戦争、鬱、原発事故。どれもわたしたちのふだんの閾値をこえていくものばかりだ。

もしかしたら、「悲しい」の正体とは、〈閾値をこえること〉なのではないだろうか。だとしたら、月波与生さんの「悲しくてあなたの手話がわからない」だって、おなじだったのだ。閾値をこえて「わからな」くなっていたのだ。

曾根さんの俳句をみていて思う。俳句とは閾値をめぐる冒険なのかもしれないと。だから、俳句とは別に感情を無視した詩なのではなく、ときに、おおいに、「悲しみ」といった感情にも関わるんだろうということも。

にんげんにとって、どこまでが「この世のもの」の閾値で、どこからが「あの世のもの」の閾値なんだろう。

仏になれたら、その閾値から、解放されるんだろうか。

もちろん、わたしたちにはそんなことはわからない。でもたぶん、いや間違いなくそうなのだが、俳句は〈それ〉を知っている。

  何処まで釈迦の声する百日紅  曾根毅

          (「『俳句』創刊65周年記念付録「現代俳人名鑑Ⅱ」『角川俳句』2017年6月号 所収)

2017年3月13日月曜日

フシギな短詩92[夏石番矢]/柳本々々


  立入禁止・かんらからから・Coca-Cola  夏石番矢


夏石番矢さんの編著に『現代俳句キーワード辞典』(立風書房、1990年)という、俳句を季語ではなくテーマごとに分類したアンソロジーがある(実はこの本は生駒大祐さんに教えていただいた)。「キーワード辞典」という名前の通り、キーワードに沿って俳句が分類されている。夏石さんは「はじめに」でこの辞典のコンセプトを次のように語っている。

  この本は、辞典と銘打ってあるが、同時にアンソロジーでもある。詩的エンサイクロペディアと呼んでもいい。二四五のキーワード別に秀句を編集し、一つ一つのキーワードごとに、そのキーワードの歴史や意味あるいは詩的方向性をとらえながら、掲出した俳句作品を読解してゆくスタイルを選んだ。

この本で面白いのは、〈俳句〉からなにかを考えられる点ではなくて、〈テーマ〉から〈俳句〉を考えられることだ。事態が逆走することで、ふだんとはちがった発想を〈俳句〉に対して得ることができる(もしかするとすべてのキーワード事典というものはそうした役割をもつのかも知れない)。

この項目も生駒大祐さんから教えていただいたものだがこの辞典には「コカ・コーラ 〈Coca-Cola〉」という項目がある。俳句とコカ・コーラ。なかなかふだんセットで考えない発想ではないだろうか。

しかしそこには、まだ、番矢さんの一句しか置かれていない。それが掲句である。1990年の時点では辞典にはコカ・コーラ俳句はこの一句しか載らなかった。

この辞典/時点で番矢さんは「コカ・コーラ」の項目でこんなふうに記述している。

  コカ・コーラが日本に定着したのは第二次世界大戦後だが、すでに大正八年に明治屋によって輸入されていた。…
  コカ・コーラは、戦後日本のアメリカナイゼーション文化の象徴から、無国籍文化の象徴へと変質した。
  そもそも1886年にアメリカで誕生したコカ・コーラは、コカインも採れるコカ葉の抽出液とコーラ果実の抽出液を主原料にしていたが、コカ葉の使用はアメリカ政府の勧告で中止された。それでも名前に「コカ」が残っている。もともとはどこかうさんくさい商品が、無害化されて公認され、日常生活に定着してゆく運命が、この飲み物の名前に潜んでいる。

だから番矢さんのコカ・コーラの一句の「かんらからから」には「日常生活に定着し」ながらも「無害化」され空無化された〈文化物〉の〈空き缶〉のような響きがある。

「立入禁止」というタブーが無意味化していくことと、コカ・コーラが無害化しボーダーレス化していく文化的力学は足並みをそろえている。しかしだからといってそれがニヒルにも虚無にもならず、むしろコカ・コーラは現在も祝祭的であり(無害とは祝祭である)、さらに無害化どころか、コーラはやがて人工甘味料の導入によってゼロ・カロリーになり、そしてさらに驚くべきことに今やコーラは「脂肪の吸収を抑え、脂肪の排出を増加す」る「特定保健用食品」になっているのだ(誰がそんなことを想像しえただろうか)。

俳句とコカ・コーラ。わたしは今、1990年から27年たって、2017年現在にいるが、現代俳句のコカ・コーラ俳句はどうなっているのだろう。たとえば、

  古墳から森のにおいやコカコーラ  越智友亮

越智さんのこの俳句には番矢さんのコカ・コーラ俳句にあったような「コーラ」に対する〈消費物的〉まなざしはもはや、ない。プレーンに、「コカコーラ」をまなざしている。それがわかるのが、「古墳」「森」「コカコーラ」の並立である。この句では違和感なく、「古墳」「森」「コカコーラ」が当然のように並べられている。そしてこの「コカコーラ」には消費物のかおりは感じられない。むしろ「古墳」のような文化物に対するゆっくりした時間意識さえ感じられるのだ。

コカコーラ観は、変わってきているのではないか。というよりも、今や、わたしたちのとってコカコーラは消費物というよりは、いっしょに時代や歴史を過ごしてきたホームのような文化物になってきているのではないか、と言ったら言い過ぎかもしれないが、しかしこの越智さんの句には「コカコーラ」に対する過剰な距離の取り方は感じられない。あくまで平坦にコカコーラに接している。森、と等価のように。まるでコカコーラは〈自然物〉であるかのように。

  日本文化はある面で「消費文化を継続・徹底する」という、メタ伝統文化的側面を備えているとみなすことができる。
   (新井克弥「ジャパン・オリジナル化するTDR」『ディズニーランドの社会学』青弓社ライブラリー、2016年)

消費文化は継続・徹底される。

番矢さんにとって「コカ・コーラ」は「かんらからから」と笑い飛ばすべきものでもあり、そのぶん、批評的距離が確保されるものであったが、ひょっとしたら、もはやコカコーラは〈内面〉化され、距離が無化されてしまっているのではないかと私は越智さんの句を読んで思った。実はたまたま今トクホのコーラを飲みながらこれを書いているのだが、まあ、こんなふうに。

内面化とは、それに気づかなくなることなのではないだろうか。ナイこと。内(ナイ)として、気づかないこと。

「内面の吸収を抑え、内面の排出を増加」するコーラ。

コーラを内面化だなんてなにを言っているんだと言われそうだが、でも、実際、箱庭的内面とコーラが不意に接点をもってしまうこんなコカコーラ俳句もあるのだ。

  箱庭に不意に置かるるコーラの缶  関悦史


          (「コカ・コーラ」『現代俳句キーワード辞典』立風書房・1990年 所収)