2024年4月10日水曜日

DAZZLEHAIKU76[土井探花]  渡邉美保

花の陰ぼくはゆつくり退化する   土井探花    


 桜は美しく咲き満ちているのだけれど、樹下はうっすらと影を帯び、蒼ざめていたり、灰色だったりする。花の間から透かし見る空もまた薄青い。人影のまばらな静かな花の陰に坐る、あるいは横たわる。目を瞑る。桜の持つ神秘的な力を浴びながら、ぼくはゆつくり退化する。

 掲句の「退化する」という言葉は、そこはかとない寂寥感や切なさを含みながらも、不思議な心地よさを感じさせてくれる。過剰に進化し、尖鋭化したシナプス、視覚、聴覚、痛覚、その他諸々の感覚が、ゆっくり退化することで、鋭敏な器官たちから解放され、ぼくは再生する。ここでは「退化」が再生の道へ通じているようだ。


春月の呼吸聞こえるほどのやまひ   土井探花

鳥だった記憶が蝶を食ひさうで

間腦に蝶ゐて動かない痛さ

薔薇は実に少年は空を痛がり


長安に男児あり

二十にして心已に朽ちたり      (李賀「陳商に贈る」)


 唐突に、中国唐代の詩人李賀の詩の一節が浮かぶ。早熟で繊細、研ぎ澄まされた感覚を持つ特異の詩人の、深い絶望に覆われた生き方を思うと、李賀を「花の陰」に誘いたいと思う。

〈句集『地球酔』(2023年/現代俳句協会)所収〉

2024年2月27日火曜日

DAZZLEHAIKU75[柴田多鶴子]  渡邉美保

 春を待つ赤肌さらすバクチの木   柴田多鶴子    


 「これ、バクチの木よ」と教えてもらい驚いたことがある。目の前の高木は、誰かが無理やり樹皮を剥がしたかのように、赤黄色の木肌がむき出しになっている。灰褐色の樹皮は、たえず自然にはがれ落ちるのだという。樹皮あっての幹ではないかと思うと、なんだか痛々しいが、それで「バクチの木?」と、思わず笑ってしまった。

 博打に負けて身ぐるみ剥がれ、裸になるのに例えての名だとのこと。昔の命名者にしばし感心。博打で、身ぐるみはがされ裸になる人が多かったのか、「博打に手を出したらこうなるぞ」との戒めの意味だったのか…。

 別名、毘蘭樹。葉から薬用のバクチ水をとり鎮咳薬とする。材は硬く、器具・家具用とある。有用な木なのだろう。


 春が近づいてきて暖かい日が多くなると、春を待つ心がひときわ強まる。「赤肌をさらすバクチの木」であればなおさらだろう。

 春早くこよと願うのは、バクチの木であり、バクチの木を見ている作者なのだと思う。

〈『俳壇』3月号(2024年/本阿弥書店)所収〉

2024年1月23日火曜日

DAZZLEHAIKU74[久保田万太郎]  渡邉美保

  冬の虹湖の底へと退りけり    久保田万太郎


 冬の雨のあがった後の空に、思いがけずにかかる虹にはっとすることがある。冬の淡い日ざしにうっすらとかかる虹は、やさしく儚げで、いつまでも心に残る美しさがある。

 掲句、前書きに[昭和35年12月1日、その地にくはしき山田抄太郎君にしたがひ、名所をたづね琵琶湖畔をめぐる]とある。

   琵琶湖にかかる冬の虹なのだ。遮るもののない広い空と広い湖面が目に浮かぶ。冬の琵琶湖のはりつめた自然の中で、とりわけ美しく見えたであろうと想像する。虹の片脚は湖面に浸っていたのだろうか。

   「湖の底へと退りけり」の措辞がユニークである。虹は空の彼方に消えるのではなかったのだ。今まで見えていた「冬の虹」が湖底へ退いてしまった(退いていく)という感慨。琵琶湖の深い湖底に沈みゆく虹は、水と混じり合いながら消えていくのだろうか。「冬の虹」の儚さはどこか神秘的である。

   もう消えてよくなからうかと冬の虹    宗田安正

   あはれこの瓦礫の都冬の虹        富沢赤黄男


〈句集『久保田万太郎俳句集』(2021年/岩波書店)所収〉