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2017年9月11日月曜日

超不思議な短詩214[光森裕樹]/柳本々々


  どの虹にも第一発見した者がゐることそれが僕でないこと  光森裕樹

感染の話をもう少し続けてみよう。

こんな光の感染をめぐる歌がある。

  キラキラに撃たれてやばい 終電で美しが丘に帰れなくなる  佐藤りえ
  (『歌集 フラジャイル』)

この歌の場合、キラキラに感染し、キラキラまみれになってる歌と取ることもできる。どういうことか。たとえばこんなふうに考えてみよう。すごくすてきなキラキラしてみえるひとに出会ったとする(「キラキラに撃たれてやばい!」)。終電が近づいているのにそのキラキラに圧倒されて、感染してしまい、帰れない。たとえば自分の家が帰る場所は「自由が丘」(任意の場所なので、どこでもいい)だったりするのに、自分の帰る場所さえ、キラキラにもう感染してしまっていて、自分の言語体系がキラキラ言語体系になってしまっていて、「美しが丘」と言ってしまったりする。これが、キラキラ感染である。キラキラは感染する。そしてこのキラキラ感染の言語ダイナミズムを短歌にするとりえさんのこの歌になるように思う。

光森さんの歌では事態はその逆である。「虹」というキラキラに即座に感染しそうな歌語といってもいいくらいの〈光〉に対して、〈孤独〉を発見している。

掲出歌。虹が出ている。でもどの虹にもすでに第一発見者がいる。確かにわかっていることは、その第一発見者が僕ではないということだ。この歌では、「虹」に感染していない。むしろ感染しなかったそのことが歌として昇華されている。

光森さんの歌では光は感染する共同体ではなく、孤独する個人を呼び込んでいく。

  それぞれの花火は尽きてそれぞれの線香花火を探し始める  光森裕樹

やはり「花火」という感染する共同体をつくりそうなキラキラした歌語にすでに「それぞれの」と孤独と孤絶のためのジャンピングボードがもうけられている。花火が終われば、「線香花火」というマクロからミクロな光にうつっていく。光は縮小再生産され、そのたびごとにそれぞれの孤独をうんでいく。孤独はこの歌集において称揚されている。

  はつなつの運転手さんありがたう やつぱりぼくは此処で降ります  光森裕樹

「やつぱり」と意を決しての決断が入り、「此処で降ります」と決意が入る。「はつなつ」の光のなかでバスという仮想の共同体から「降り」る。

では、ただ、孤独なのか。闇があるじゃないかという返答がこの歌集にはあるだろう。

  手探りでくだりつづける階段に擦れちがふための踊り場がある  光森裕樹

手探りでくだりつづける階段。そんな闇のなかの階段に「擦れちがふための踊り場」が用意されている。闇のなかだからこそ、感触を通した闇の共同体が生成される。ただこの共同体は「擦れちがふ」と語られるのがポイントで、あくまで共有ではなく、分有のポイントである。あなたとわたしはすれちがう。でも踊り場という同じ場所において。

光森さんの歌集では、光と闇がどう感染しどんなふうに共同体をつくったりつくらなかったりするかに意識的な感性が働いている。これはフィルム=写真そのもので歌集をつくる光森さんならではの明暗の詩学といってもいいのではないだろうか(佐藤りえさんも写真を短歌に取り入れているので明暗への感性に意識的である)。

  ポケットに電球を入れ街にゆく寸分違はぬものを買ふため  光森裕樹

電球は光だが、電球を買いに行くために持ってゆく電球なのだからすでに切れた電球である。だからこれは闇の電球だ。かつて光だった闇を語り手はポケットに入れ、寸分違わぬものを買いに行く。明暗への鋭い意識がポケットで割れそうな電球の危機的な感じと共鳴して、激しい。

  請はれたるままに男に火をわたす煙草につける火と疑はず  光森裕樹



          (「鈴を産むひばり」『鈴を産むひばり』港の人・2010年 所収)

2017年8月15日火曜日

続フシギな短詩156[北川美美]/柳本々々


  夕立の中にどんどん入っていく  北川美美

私はふだんその〈ひと〉のことじゃなくて、そのひとの〈ことば〉について書こうと決めているので、そのひとと出会ったりしてもあんまりそのことは書かないのだけれど、でもたまにはいいかと思って書いてみる。夏が終わるし、お盆だし。

北川美美さんはこの『およそ日刊俳句新空間』の編集をつとめていて私はずっとお世話になっていた。わたしは美美さんに誘われて書き始めた。

去年の年末に白金高輪で豈の忘年会があって、わたしは美美さんに挨拶しに行こうと思い、バスに乗ってこそこそと行った。会場はイタリア料理屋だったのだが、クリスマスのあたたかい明かりに包まれており、なにか句会のようなものをしていて、ここに途中から入るのはハードル高いぞと私は大きな木の陰から手をついてしばらく見ていた。ちょっとマッチ売りの少女を思い出したが、売るマッチはなかったし、雪も降っていなかったし、私は不幸でも幸福でもなかった。

でもこのままここで木の陰で手をついているのは人目もあることだしまずいぞということで、そのあと「どんどん入ってい」って美美さんに無事挨拶することができたのだが、美美さんはそのあとアクティブにいろいろ動き回っていて、はいもともとさん、とケーキを運んだりしていた。そういえば美美さんの句はアクティブな句がおおいと、おもう。

  日盛や人追いかけて道をきく  北川美美

  ひとりづつ金魚に水を足しにゆく  〃

  さびしいとさびしい幽霊ついてくる  〃

なんだか、じっとしていないのだ。なにか「道をきく」「水を足しに」「さびしい」などの〈目的〉があって、その〈目的〉のために、かれらは〈動く〉のである。俳句なのだから、もう少し、切れのもと、じっとしてもいいのではないかと思うのだが、みんなじっとしていない。幽霊でさえ、さびしいからと、ついてくる。なんだか、それは目的があって忘年会に行ったわたしみたいで、俳句にはそういうアクティブな俳句があるのだなあと思った。

ちなみにその忘年会で私は現在編集をしている佐藤りえさんにもお会いした。何年も前にりえさんには挨拶したことがあるのだが、今年の春夏になんどもりえさんに都内のあちこちで会ったような気がして、人生ってふしぎだなあとちょっと思った。イベントにいくと、りえさんがいるのだ。

  あと二五〇〇個の銅鍋がわたしに磨かれるのを待っている  佐藤りえ
  (『What I meant to say.』)

美美さんやりえさんに実際にお会いして思ったのだけれど、なにかを待とうとはしなくても、ただ待っているだけで、なにかが、「二五〇〇個の銅鍋」のようなぎらぎらしたなにかが、やってくるかもしれない。でも、その、ただ待っているだけ、をすることの難しさ。それでも、待つ、ということ。

うーん、でも考えてみると、掲句、「夕立の中にどんどん入っていく」というのは、「入っていく」とはいうものの「夕立」の側からやってきてることを「入っていく」と言い換えているだけかもしれないのだ。だからこれもひとつの積極的な〈待つ〉といえるかもしれない。待っていると「どんどん入っていく」のだ。

これは、待つことをアクティブにあらわした句なんじゃないか。そういうアクロバティックな。待つ。

  いったい、私は、誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何もない。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている。大戦争がはじまってからは、毎日、毎日、お買い物の帰りには駅に立ち寄り、この冷いベンチに腰をかけて、待っている。もっとなごやかな、ぱっと明るい、素晴らしいもの。なんだか、わからない。たとえば、春のようなもの。いや、ちがう。青葉。五月。麦畑を流れる清水。やっぱり、ちがう。ああ、けれども私は待っているのです。
  (太宰治「待つ」)

待つ、という動詞は、実は、何もしなくても「どんどん入っていく」ことに近いのではないだろうか。なぜなら、対象が定められたとき、それは固定され、待つ、ではなく、追っていく、に変化するからだ。対象を定めず、「なんだか、わからない。いや、ちがう。やっばり、ちがう。けれども」と言いながら「待つ」状態で、「どんどん中に入っていく」こと。そんなことが可能なのだろうか。

  夕立の中にどんどん入っていく  北川美美

可能なのではないだろうか。

          (『俳句新空間』4号・2015年夏 所収)

2016年10月25日火曜日

フシギな短詩52[村上春樹]/柳本々々



  「ご存じでしょうか。私の好きな短歌にこういうものがあります。『白鳥は哀しからずや/空の青/海のあをにも染まずただよふ』、なんという美しい短歌でしょう、岡田さん」  村上春樹
村上春樹に「青が消える(Losing Blue)」(1992年)という短編がある。「アイロンをかけているときに、青が消えた。」の一文ではじまり、どんどん世界から青色が消滅していく物語だ。物語の時間は「1999年の大晦日の夜」の「二十世紀最後の夜」に設定されている。だからこの短編が掲載された1992年の時点からすれば〈ちょっとした未来〉だ。

青色が好きだった「僕」は「青の消滅」していくなかで公衆電話から「内閣総理府広報室」に電話をかける。NECが新しく作り上げた「コンピューター・システム」としての「総理大臣」が出て「総理大臣」は「僕」に若山牧水の短歌を引用しながら答えてくれる。

  「青はまことに美しい色であります、岡田さん」と総理大臣の声が静かに言った。「ご存じでしょうか。私の好きな短歌にこういうものがあります。『白鳥は哀しからずや/空の青/海のあをにも染まずただよふ』、なんという美しい短歌でしょう、岡田さん」 
  「ねえ総理大臣、青がなくなってしまったんですよ」と僕は電話に向けて怒鳴った。 
  「かたちのあるものは必ずなくなるのです、岡田さん」と総理大臣は言い聞かせるように僕に言った。「それが歴史なのですよ、岡田さん。好き嫌いに関係なく歴史は進むのです」
    
(村上春樹「青が消える(Losing Blue)」『村上春樹全作品1990~2000①』2002年、講談社)

この物語では「青」をめぐる事柄が「政治」や「歴史」をめぐる〈大きな物語〉として語られる。「青はいったいどうしたんですか?」と「僕」が「白い駅員」に問いかけても「駅員」は「政治のことは私に聞かないでください」と「僕」をつっぱねる。「僕」は「青」が大好き(僕の〈小さな物語〉)なのに、牧水の歌の「白鳥」=〈小さな物語〉のようにその「青」=〈大きな物語(空の青/海のあを=世界の青)〉から排除されている(「総理大臣」が「私の好きな/美しい短歌」として「好き」「美しい」という〈小さな物語〉の枠組みで「青の消滅」=〈大きな物語〉を語ろうとしていることに注意したい。「総理大臣」とは〈小さな物語〉を〈大きな物語〉にすり替える人間なのかもしれない)。

短歌においてはちょっと不思議な〈色の系譜〉のようなものがある。思いつく限りで任意に引用してみよう。

  赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、きらきらとラインマーカーまみれの聖書  穂村弘
   (『ラインマーカーズ』小学館、2003年)

  緑でも赤でも黄色でも茶色でも青でも黒でもない鬼  伊舎堂仁
   (『新鋭短歌シリーズ18 トントングラム』書肆侃侃房、2014年)

 赤青黄緑橙茶紫桃黒柳徹子の部屋着  木下龍也
   (『きみを嫌いな奴はクズだよ』書肆侃侃房、2016年)

〈大きな物語〉である「聖書」は「ラインマーカー」のカラーによって個人にとって「きらきら」した〈小さな物語〉に〈解析〉される。どのような色からもはじき出された「鬼」は〈大きな物語〉にも〈小さな物語〉にも回収されず「鬼」としてたたずむ。毒々しい極彩色の「徹子」の部屋着は、「徹子」がみずから主体的に選び取った〈小さな物語〉としての「部屋着」というよりは、「徹子」が非主体的・超越的に「部屋着」を選び取らされているような〈大きな主体〉を感じさせる。

牧水の〈色をめぐる歌〉を〈大きな物語=空の青/海のあを〉に排除されてある〈小さな物語=白鳥〉と春樹の短編に沿って読んでみるならば、〈色の短歌〉とはそうした〈大きな物語〉と〈小さな物語〉がせめぎあう構造的葛藤の場として読むことができるかもしれない(そこからなぜ村上春樹『ノルウェイの森』の「緑」は「緑」だったのかも考えることができるかもしれない。「緑」の言葉を思い出そう。「私ね、ミドリっていう名前なの。それなのに全然緑色が似合わないの。変でしょ?」)。

その意味では、短歌になぜ〈きらきら〉や〈光〉が頻出するのかもちょっと考えてみたいところだ。

  キラキラに撃たれてやばい 終電で美しが丘に帰れなくなる  佐藤りえ
  (『フラジャイル』風媒舎、2003年)

  秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは  堂園昌彦
   (『やがて秋茄子へと到る』港の人、2013年)

〈きらきら〉や〈光〉とは色に還元することができない〈なにか〉だからだ。それは個人的に現出した〈きらきら〉だが、どこか超越性も同時に感じさせている。これら二首が「キラキラ」や「光」と共に「撃たれて」「死ぬ」という〈大きな力〉を感じさせながらも、「終電」「秋茄子を両手に乗せて」という〈小さな物語〉をそこに布置していくことも興味深い。そういう〈小さな物語〉と〈大きな物語〉がぶつかり合いスパークした場所に〈きらきら/光〉はある。

〈大きな物語〉と〈小さな物語〉のはざまを「染まずただよふ」こと。色(カラー)を意識してしまった人間はその色彩的実存を引き受けることになる。多くの村上春樹の主人公「僕」がそうであるように青が消滅していく世界の「僕」もまた「わけのわからないままどこまでも通りを歩い」ていく。

「わけのわからない」状態は、〈大きな物語〉にも〈小さな物語〉にも回収されず「染まずただよふ」ことだ。言わば「やれやれ」的主体。「やがて町中の時計が十二時を打っ」て世界は2000年に踏み込んでいく。「みんな」は「一斉に歓声をあげ、歌を歌ったり、物を投げたり、抱き合ったり、シャンパンを抜いたりした。新しいミレニアムがやってきたのだ。誰も消えた青のことなんか気にしてはいなかった」。

  《でも青がないんだ》、と僕は小さな声で言った。《そしてそれは僕が好きな色だったのだ》。
         
 (「青が消える(Losing Blue)」『村上春樹全作品1990~2000①』講談社・2002年 所収)

2016年9月13日火曜日

フシギな短詩40[佐藤りえ]/柳本々々


  人形の頭を占めてゐる時間  佐藤りえ


掲句が収められている佐藤りえさんの連作「雲を飼ふやうに」はもう一句「人形」の句が出てくる。

  人形のをかしな動きクリスマス  佐藤りえ

人形の頭のなかにある「時間」や人形の「をかしな動き」をみつめる語り手の視線からわかってくるのはそこには「人形」以上の不気味な余剰があるということだ。人形が人形でなくなり、言わば〈人外〉とも言える〈いきいきした人形〉がこの連作では語られている。

〈人外〉と言えば、川田宇一郎さんが現代のサブカル的な〈人外〉の「基本セオリー」を次のように指摘している。

  まず最初に幽霊(妖精やら異星人や鶴)という不思議キャラ設定が紹介され、そこから二人の関係性が始まるのがサブカル的「人外」の基本セオリーなのだ。 
  (川田宇一郎「人外考ーー一般論の王国へ」『文芸すきま誌 別腹』8、2015年5月)

川田さんの現代の「人外」の指摘において興味深いのは、現代の〈人外〉は、出会って〈終わり〉なのではなく、出会ってからが物語の〈始まり〉だということだ。つまり、わたしたちが〈人外〉に出会った場合、そこからの〈長い共ー生の時間〉がわたしたちの〈物語〉になっていくのだ。

だから掲句において、「人形」に語り手が「時間」を付与しているのは興味深いことだと思う。それは時間存在であるわたしたちと〈おなじ時間〉を共有していることにもなるからだ。

もちろんこの句に「頭を占めてゐる」と注意深く語られているようにそれは「人形」特有の〈時間〉かも知れない。占められた時間はわたしたちを排除するある特有の時間かも知れないから。

それでもこの「時間」が人形に与えられることによってわたしたちとなんらかの連絡が取れてしまっている不気味さもこの句にはあるのだ。人形の頭のなかにある時間を見出し、そこからわたしと人形の「二人の関係性」が始まってしまったことの不気味さと安らかさが。

川田さんは先ほどの「人外考」を〈「ごっこ」遊び〉としてまとめている。「人外」とは、「一般的な他者(人外)を演じることで、他者の概念を運動させ、「なんだかよくわからないもの」(本当の他者)を引き出していく「ごっこ」遊び」でもある、と。

掲句の連作タイトルは「雲を飼ふやうに」だった。「雲を飼ふ」ではなく、「雲を飼ふ《やうに》」。だから人形もまるで頭の中に時間がある〈ように〉、「ごっこ」として描かれたものだったかもしれない。
でもその「やうに」=「ごっこ」によって、人形の頭の中の時間という検証不可能なもの=「なんだかよくわからないもの」がごそごそっと出てくる。この句をすでに読んでしまったわたしはこれから人形を見るたびに思わなければならないだろう。あの人形の頭のなかにも時間が、と。

〈人外〉のおそろしさとは、〈ごっこ遊び〉だったはずのものがいつのまにか生きられる〈ごっこ遊び〉になってしまった瞬間かもしれない。人形の頭を占めている時間は、いつか、あなたの頭を占めている時間そのものになるのだ。


          (「雲を飼ふやうに」『俳句新空間』2016年2月 所収)