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2015年5月26日火曜日

1スクロールの詩歌  [波多野爽波 ] / 青山茂根 


  赤と青闘つてゐる夕焼かな    波多野爽波

 いわゆる童心にかえったような、ふと夕空を見上げたときに思い出してほほえんでしまう印象と、「闘う」という言葉に含まれた生存の厳しさを感じる句だが、なかなかどうして、描かれている内容から言葉をさかのぼっていく楽しさに満ちている。

これを、
  夜と昼闘つてゐる夕焼かな
と表現してしまうと、一見新しそうだが、観念的でもあり、意味内容を歪曲されやすく、句の世界は限定されて狭くなってしまう。他には何も語らずに色彩のみに託した空間の広がり、色にまつわる歴史的な背景などを含んだ原句に比べると、俳句としての大きさに欠ける句になることがわかるだろうか。ポエムっぽいという指摘もあるかもしれない。また、俳句表現としては、「夕焼」という季語に「夜と昼」の「闘っている」時間という概念がすでに含まれているので、当たり前な句、といえる(当たり前の事実をわざわざ描く、という俳句の手法もあるが、その場合は観念的表現にはしない)。

 「赤と青」とは、ゾロアスター教における「聖なる色」だという。「西域の民族は、天を青、地を赤で表現した。蒼穹と砂漠の色彩である。人間は天地の間にあって、その生命を永久に伝える存在である。」過酷な日中と砂漠の夜の静寂、そうした地へも夕空はつながっていることに思いを馳せる。
 また、「赤と青」は、フランス革命軍が帽章につけた色でもあり、フランス国旗はそれにブルボン王朝の象徴である白百合の色を足したもの、という説もある。「赤と青」は、一日の労働の後に夕空を見上げる市民の感慨を象徴した色でもあるだろう。

 『ひとつぶの宇宙 俳句と西洋芸術』(毬矢まりえ著 本阿弥書店 2015)では、この句にプルーストの自然描写と通い合うものがあると書かれている。文中から引くと、(プルーストは)

 例えば、夕暮れの空の色合いを登場人物に描写させて、次のように書いている。

(中略)「青といっても、大気の青よりは、とくに花の青に近い青、サイネリアの花の青ですが、おどろきますね、こんな色が空にあるとは。それに、あのばら色の小さな雲、あれもまたカーネーションとかあじさいとかいった花の色あいをもっていませんかね?(中略)夕方、しばらくのあいだ、青とばら色の天上の花束がほころびます。それはたとえようもないほどで、色があせるのにしばしば数時間もかかるのです。また他の花束は、すぐに花弁を散らせます。そしてそのとき、硫黄色やばら色の無数の花弁が四散する空の全体を仰ぐのも、また一段と美しいものです。」
(『ひとつぶの宇宙 俳句と西洋芸術』毬矢まりえ著 より)

 という文章を目にしたあとで、この句を夕空に思い浮かべると、また新たな広がりが感じられて、一日という時間の終わりが馥郁とした豊饒なものに変わっていく。様々な些末な日常茶飯事から開放された、自分ひとりの心の中のことではあるが。言葉の、俳句という魔法ならでは。

先の『ひとつぶの宇宙』にあげられている、色彩を含んだ句をいくつか。


アスパラガスほのむらさきと堀りあげし  小池文子
外套の裏は緋なりき明治の雪       山口青邨
手袋の黒と黒衣とただ黒き        山口誓子
しろたへの鞠のごとくに竈猫       飯田蛇笏
水に入るごとくに蚊帳をくぐりけり    三好達治

2015年5月18日月曜日

1スクロールの詩歌  [吉井勇 ] / 青山茂根 



棄てらるる身とも思はず夏羽織    吉井勇

 どちらかといえば文人俳句、とカテゴライズされる吉井勇の句は、単純な描写や取り合わせの手法と見えながら、戯曲的な趣向が垣間見えて何か惹かれるものが多い。今日の句も、人事句によくある心情や箴言との季語の取り合わせの句のひとつ、と一読思ってしまいがちだが、「棄てらるる」の語は、訪問先でさっと脱ぎ捨てられる「羽織」からそれを着た女性の姿をひきだす。恋しい人に逢いに、下ろしたての羽織で出かけていく女性の美しさや心弾むような足取りが、恋が終わればその後に棄てられてしまうだろう相手との関係性を暗示して。「夏羽織」の、薄物の透ける美しさがウスバカゲロウやクサカゲロウをも連想させ、また、夏羽織という、寒暖に絶対必要ではなくお洒落のためにある衣服が、対等な付き合いではない男女関係をもほのめかしている。吉井勇の短歌のニュアンスをほんのりとまとって、哀しい美しさのある句だ。

 十一、二歳から短歌に親しんだ勇は、東京府立第一中学校(同級生に谷崎潤一郎がいた)を経て私立中学に入り、仲間を得て俳句も作るようになったという。十六歳の時の作品、

色褪せし口にまゐらす葡萄かな     (『吉井勇研究』木俣修 番町書房 1978)

も、みずみずしい葡萄と色あせた唇の対比、声にしたときの言葉の滑らかさにうならされる。すでに創作としての世界をもっているようで、深く自省しつつ現代のこの年頃の俳句との相違を感じてしまう。京の街を訪れれば、「かにかくに」の歌碑を一度は見たくなり、冬ならばそのそばの流れに浮く鴛鴦のつがいに反語的にまたその歌人の姿を思う、その残したものが広く知られつつも大衆化に埋没せず今も人々を魅了する不思議。谷崎潤一郎が故人を偲んで、「なつかしい詩人、温雅な旅人、久しく忘れていながら不図想い起こしてその一首か二首を唱えてみたくなる歌人、吉井勇にもそんな味わいがある」と評したというが、以下の句にもそうした世界が広がって、歌に見られるエッセンスが立ち上るのだ。

ゆきずりの恋も浪華の朧かな 
さびしさや汐干の留守の仕立物 
野の果に港ありけりかへる雁 
はからずも焼野に出づと日記かな  
かきわりやおまつりぬけの昨日今日 
球突の球の音遠し釣忍 
極道に生れて河豚のうまさかな 
をしどりやここに年古る池一つ 
華奢(かさ)のはて遊びのはての炬燵かな 
七草や派手な暮しも芝居もの 
かにかくに毛毬に重き袂かな 
片恋の手毬もつかずありにけり 
残雪や悲劇を運ぶ橇の鈴 
若水の酔ざめの水を汲みにけり 
濡髪と云ふ酒の名も秋寒し 
いつとなく更けし獺月夜かな  
 (『吉井勇全集』第八巻 番町書房 s39)

「告別式は十一月三十日建仁寺の僧堂で行なわれた。少し早めにでかけた私は、門を入った所で水谷八重子さんの帰りに会ったが、驚いたことに式場まで数百メートルの両側には喪服の祇園関係の女性がぎっしりと立ち並んでいた。どぎまぎした私は顔を伏せて進んだが」 

   (『吉井勇歌がたみ 京都』 宝文館出版 s41 より臨終にたちあった医師青柳安誠の文)

 (余談ながら「余瓶居に高濱虚子、同年尾、星野立子氏等を迎へたるとき」と前書きのある、「句の父と句の娘ゐて柿の秋」という句もある。)

2015年5月11日月曜日

1スクロールの詩歌  [富澤赤黄男 ] / 青山茂根 



黒い手が でてきて 植物 をなでる   富澤赤黄男


 ここに書かれているのはこれだけ。一字空けの多用により一句中に休符が差し込まれ、絞り出す言葉のような、ほつほつと出る独語にも似た音としての効果。表記として分かち書きがこの句に空白の、何もない空間の怖さを与えている。一読、冷たい風に首筋を撫でられたような不気味さを感じるが、そのあとで慰藉ともいえる感覚が沸き起こる。

 この句が書かれた時代背景を考えていくと、「黒い手」は「黒い雨」からの連想、「植物」は、原爆投下後70年は何も生えないといわれた地に数カ月で草が芽吹き始めたことを含んでいるのかもしれない。そのようにも読めるし、また、これは赤黄男自身の姿とも読める。召集され戦地を経験した作者自身のいわば「汚れてしまった」「手」を、作者自身が描き、その精神的苦痛から立ち上がり自己を再生していく、作者自身の心のありよう。それは、復興へ向かう周囲の多くの人々の姿でもあり、当時の、混沌の中から立ち上がりゆく社会を見渡してのことでもあるだろう。胸の奥には消しきれない負の記憶を抱えながら。

 描かれているものが何か、は断定しきれないのが俳句であり、一読わかる俳句ばかりになってしまったら、俳句という土壌は痩せていくしかない。どの語が何を象徴しているか、ではなく、この句から受け取る世界は、悲劇と再生、それが人の手によって生み出されることの重さと柔らかさ、その大きな雲状の、時間軸を超えた概念に包まれる感覚だろう。様々な情景をフラッシュバックさせながら。

 たしかに、十七文字の表現を幾つも横に排列して垣根を結うような連作俳句は、さほどの苦労もなしに、常に何ごとかを吐露し得たごとき錯覚を生みやすい。しかし、それを無反省に継続すると、俳句形式によって言葉を鍛えるという俳人としての当然の修練と、そこから始まる方法への目覚めを、おのずから忘れてしまうのである。
  (中略)
 そのとき富澤赤黄男が信条としたものは、すべての作品は、その作品のみのもつリアリティによって完結しなければならず、作品以外のどのような条件や要素によっても、そのリアリティを決して保証されてはならないという、きわめて厳格な考え方であった。 

(「富澤赤黄男ノート」 高柳重信 )

玉ねぎが白くて風邪をひいてゐる
黄昏はなにかをだいてゐたいこころ
屋根屋根はをとこをみなと棲む三日月
ゆく船へ蟹はかひなき手をあぐる
蛇よぎる戦(いくさ)にあれしわがまなこ
鶏頭のやうな手をあげ死んでゆけり
雪晴れのひたすらあふれたり微笑
切株に 人語は遠くなりにけり
月光や まだゆれてゐる 絞首の縄
偶然の 蝙蝠傘が 倒れてゐる

(『富澤赤黄男全句集』 沖積社 H7所収)

2015年1月27日火曜日

1スクロールの詩歌  [加倉井秋を ] / 青山茂根


裸のわれ抽斗あける吾(わ)とおなじ    加倉井秋を

自分の身体から、魂が浮遊している句だ。時間軸のずれも、面白い。まず「裸のわれ」があり、そのわれが抽斗をあけたのだが、一瞬意識が飛んだあとのように、行為者が自分の肉体と同一であることを再認識している。作中主体をも一度疑うようで、昭和30年に書かれた句ながら今読んでもナンセンスな新しさを感じる。

 「風」は、小型「天狼」といった感じだが、ここでいちばんおもしろい作家は、加倉井秋をである。 
(中略) 
この作家は、日常意識の欠落個処に、ふいに見慣れない造形をこころみる。だがこの作業には、天性のするどい知覚が要求されているはずで、この不意打が、いつも新鮮な詩的衝撃を与えるのである。 
(『現代文学大系 第69巻 現代句集』月報69 「俳句と私」村野四郎 筑摩書房 s43)

前々回で、青年時代の自由律俳句を取り上げた、詩人村野四郎はこう書いている。「私は、詩人になる前に俳人であった。」「この俳句という狭い土俵の中で勝負をするために、言葉を大事にすることが、どんなに大切かということを痛いほど教え込まれた。」そんな村野が加倉井秋をを評した言葉に、そういえば秋をは東京美術学校(現芸大)の建築科を卒業しているのだ、と思い出す。絵画や写真といったものに例えられる句とは違い、秋をの俳句は言葉を縦横に構築していく印象がある。ときに骨組だけであったり、石積みだったり。色彩を塗りこめたりアングルを計算した句とは違う、おおらかさや素材の意外性が楽しい。
  
 言葉はタダだからといって、むだ使いしているかぎり、いつまでたってもロクな詩がかけないということ、いや本当の詩語というものは、ものすごく高価につくものだという考えは、今もって少しも変わっていない。

(前掲書 「俳句と私」村野四郎 より) 
  折鶴のごとくに葱の凍てたるよ       加倉井秋を 
  曲がることなき毒消売の道 
  ある晴れた日の繭市場思い出す 
  蠅(はい)生れて以後と以前とをわかつ 
  葡萄棚より首出してつまらぬ世 
  母亡き正月土管があればそれを覗き 
  秋は素朴な河口暮しの対話から 
  冬来ると足裏見せあつて話す

(『自註現代俳句シリーズ第二期⑪ 加倉井秋を集』 俳人協会 s56)

2015年1月22日木曜日

1スクロールの詩歌  [辻美奈子 ] / 青山茂根


卵みな零のかたちに冬ざるる   辻美奈子

鳥小屋から卵を拾ったことがあるだろうか。店売りの卵のひんやりとした感触とは違い、わずかにざらつきのあるほのかな温みのそれを掌に受けると、全天の光を一点に集めて、小屋の外の冬景色が掌の卵へ押し寄せてくるようだ。

テレビドラマ版寅次郎シリーズだったか、熱を出したマドンナを看病する寅さんが家主の鳥小屋から卵を失敬するシーンがあった。モノクロのフィルムの、鳥小屋の暗さと卵の白さ、寅次郎のいかつい顔と羽を散らして逃げ回る雌鶏の白い柔らかな質感。当時のカメラの再現度の低さがかえって、色彩のない世界を情緒豊かな表現に見せていた。

冬ざれの、灰褐色と白とブルーグレーの世界に置かれた卵。寒卵をも言外に含みながら、「零」の形とは、まだ生命が生まれる前のその形態にふさわしく、何か生まれそうな予感をもはらんでとかく心も沈みがちな冬を楽しくする句だ。葉を全て落した木々は、しかし春の若芽をその樹皮の下に育んでいて。冬とは、全てをリセットしてまた新たに始める春のための、休眠期間でもある。リセットされたカウンターに並んだ零たちさながら、遠い春を内包した冬の、始まりへ向けての究極のスイッチでもある、卵。
  
  浅蜊口あく歌ふ人形のごとく    辻美奈子
  時計草なら間違へることはない
  夏休み退屈は夢みるごとし
  やや寒のしづかな色の服を着る
  紅あはく残して眠る七五三

(「GANYMEDE」62号 「歌の始まるところ」50句詠より)

2015年1月16日金曜日

1スクロールの詩歌  [村野四郎 ] / 青山茂根


眼鏡屋めがね磨きゐて夕日の薄れやう    村野四郎

『自由律俳句誌『層雲』百年に関する史的研究』(小山貴子著 h25)には、現在あまり目にすることのない自由律俳人のポートレートや、「層雲」創刊号の表紙写真、多く掲載されていた挿絵、「層雲」の衛星誌など、56ページにわたる貴重な図版が載せられている。そこからも当時の俳誌の面影が伺えて興味深いのだが、

 俳句は中学時代には投句が始まっているが、明治三十五年数え年十九歳の頃には、愛桜の名で俳句雑誌『俳声』、『ホトトギス』、『半面』や新聞「日本」等々に盛んに投句していた。やがて日本派一辺倒になって真剣に句作するようになり、明治三十六年に浅茅、紫人と共に一高俳句会を再興し、碧梧桐庵での句会に参加するようになる。俳句に熱中するあまり第一高等学校の二年生に原級留置になっている。 
(『自由律俳句誌『層雲』百年に関する史的研究』)

という荻原井泉水が創刊した「層雲」誌の歴史を、当時の時代背景を交えて綴っている。明
治の文壇との関わり、また、様々な経歴の人々が黎明期の「層雲」誌に投句していたことは、
現在の自由律をめぐる状況を考える鍵になるかもしれない。

今日の句の、村野四郎は詩人として知られているが、学生時代は「層雲」誌にも投句して
いた。これは、大正十年四月号から大正十二年三月号に掲載された7句中の一句。他の多く
の作家による自由律俳句が多少なりとも境涯性を帯びているのに比べて、無心の職業従事
者の動作に詩的な夕景を見出した句だ。おそらくメガネをかけているであろう眼鏡屋のあ
るじの顔のメガネに差す光と、手元に磨かれたメガネの反射するレンズの光、作業する店の
夕あかり。柔らかな言葉の流れに、一日の就業の終わりの安堵感も滲む。

  あなあたたかく燃ゆる火が身に近くあり       芹田鳳車 
  アメリカへ来て足なへとなりベッドの蠅打つ     下山逸倉 
  月へ一本手紙出して置く              木村緑平 
  こしかけて鳥の行く空               酒井仙酔楼 
  日に日に薬の紙を手にして三羽の鶴         海藤抱壺 
  あれこれたべさせてたべて我子であり兵であり    池田詩外楼 
  最後にいふ言葉も言つてしまうと征ってしもう    堀英之助

(『自由律俳句誌『層雲』百年に関する史的研究』 h25)

2015年1月10日土曜日

1スクロールの詩歌  [高木佳子 ] / 青山茂根


   震災時の対応にまつわる訴訟が多い。
おつかあはもう帰んねハ 甘栗の殻の嵩みに爪は黒ずむ    高木佳子

この短歌を目にしたとき、表記中の「ハ」に文字通りはっとした。作者は福島県いわき市から、個人誌「壜」を発行している歌人。その地の言葉を読み込んだ歌がその地の現状をより忠実に伝えているようで、俳句にはない空気感の表現にいつも驚かされる。しかし、この歌にある「ハ」の表記は、なんとなく江戸時代の庶民の文章などに見られる係助詞の「は」の表記と相通じるような印象を受けたのだった。(表記の仕方が似ているという話で、表記される言葉は係助詞と終助詞?らしきものとの違いはある。たとえば、安政6年にジョン万次郎が出版した『英米対話捷径』には、「I am very well」の訳を「わたくし ハ はなはた こころよい」と記している。)

ネット界隈の検索や知人に聞いてみたところ、この福島で語られる言葉の語尾につく「~は」の表記は、宮城県仙南地方では「~わ」であるらしい。現在、LINEなどでも中・高校生が語尾で使っていて、そう表記されているそうだ。おそらく、福島では歴史的かなづかいの「は」が表記に残っていて、宮城では同じ言葉ながら現代的かなづかいおよび発音に合わせて「わ」と表記するようになっているのか。宮城の方によると、完了形のような使用方法で標準語の完了形より短くて便利、だそうだが、これも古来、奈良京都あたりから全国へ言葉が伝播していったものが、ところどころで時代の変遷による変化を受けずに残ったものではないか。古語辞典には、終助詞としての「は」(感動・詠嘆の意を表す。)が掲載されているが、各地に伝播し時を経て使用されていく中で、用法に変化が生じ、完了形としての意味を持つようになったか、感動・詠嘆には完了的要素があるためそこだけを増幅して使われるようになったものか。

また沖縄の方言、文末に接尾辞的につけて語調を整える「ハァ」と同様という説もあった。とすれば、やはり各地の方言と見られている言葉が、むしろ平安時代などに都で使われていた古式ゆかしい日本語由来であるという近年の考え方と同じく、都付近からほぼ同心円状に伝播していった結果、時代に淘汰されずに各地に残った言葉なのだろう。

試みに京都から福島および宮城までの距離をみると、およそ700から800キロ。京都から九州までが800から900キロ、沖縄はもう少し遠い。が、これは現代の陸上交通を主とする換算なので、明治以前の海上、水運による交通としての距離はほぼ同じくらいになるのではないか。

そのほかにも、福島付近で使われる語尾の「だばい」は、関東・東北地方で多く使われる「だべ」「だっぺ」「だんべ」「だべす」と同様、助動詞「べし」の転訛であり、「であるべき」→「でぁんべい」→「だんべえ」→「だべ」「だばい」と変化していったとも考えられるそうだ。

短歌の話から全くそれてしまったのだが、もうひとつ興味深いものを見つけたので。福島の言葉で「恥ずかしい」ことを、「しょーし」というそうだが、これって、歌舞伎や文楽によくセリフで出てくる「笑止千万!」の「笑止」ですよね。そうしたものがとても好きな筆者としては、なんだかとても嬉しい。
 (以上すべて憶測と推測に基づくもので、学術的根拠はないことを記しておきます。)

  波はけふも白く尖りて 責めらるるべきは生者、だつたのだらうか   高木佳子
  憤りが人を生かすといふこゑを読点なしに読める危うさ
  必ずしも海へ注がずよどみまたためらひ、――ほら砂礫のあたり
  いづくにも雨は駆け足(ギャロップ) 音なして近づく馬のけはひをもちて
  majorityとふ繁りの暗さ近づけば鶸の奴らが繁りより逃ぐ

(「壜」#08 2014,12)

2015年1月5日月曜日

1スクロールの詩歌 [吉村毬子] / 青山茂根

  
毬つけば男しづかに倒れけり   吉村毬子

 毬をついて遊んだのは、私ぐらいが最後の世代だろうか。立ったりしゃがんだり、唄に合わせてリズムをとったり、途中で投げ上げたり足の間を通したり。本来なら袂にくるむ決まり動作は、私たちの頃にはすでにスカートでくるむ、とアレンジされていて、間違いなくパンツが見えてしまう、というその毬つきの所作は、大人びてくると次第に恥じらうものであり、自然に毬で遊ばなくなる、その契機ともなっているようだった。

 「毬」という言葉からは少女が連想されるが、それがそもそも正月の少女の遊びであったことばかりでなく、その翻る袂や袖口から覗く白い腕、そして昭和期の見え隠れするパンツのイメージによる。その遊びは、少女に性を意識させ、大人への目覚めをひそかに促すものであるのかもしれない。

 今日の句の、「毬」と「男」は、何の因果関係もなく置かれながら、不条理劇の一コマのような強い印象を残す。唐突に、植田正治の砂丘をテーマにした写真を思い出す。そこには少女たちを写したものもあった、スカートの、濃い色のプリーツ。

 ○○すれば▽▽、という確定あるいは恒常条件の上五からの接続は、俳句では上五の条件付け、意味を限定し句の狙いが見えてしまうとしてあまり歓迎されない形だが、「風が吹けば桶屋」的な一見まったく意味をなさない条件付けはときに不可思議な面白味を引き出す。この句の場合は、計り知れない怖さをも生み出しているようで。少女が毬をついたことで、無関係に立っていた男が突然倒れる。か弱く幼げな少女は何も手を汚さずに、男を倒したのだ。もしかするとかすかな笑みをうかべて。もちろん、少女に読みを限定するわけではない。毬をつく行為者が、男性でも成人女性でもいい。どんな行為者であっても、この句は成り立つしそれによって句の価値が変わるわけではない、が、少女という強烈な連想は捨てがたい。

少女という言葉だけで、たいていの男女は何らかの反応を多かれ少なかれ示す。それは本能的な、条件反射に近いものなんだろう。少女が、それに気づいていないわけはない、無意識の好奇心に対する嫌悪、純潔さゆえの残酷さ。自らの処女性を優位なものと認識したうえでの傲慢さ。ステレオタイプな少女像の凡百の俳句とは一線を画す。谷崎の「奈緒美」が、凌辱される側から次第に支配する側に回っていったように、どんな少女も秘めている、「ナオミ」への変貌が予感される句だ。

ふらここの半円の幸せに酔ふ    吉村毬子 
水底のものらに抱かれ流し雛 
飲食のあと戦争を見る海を見る 
物乞ひの風の折り方数へ方 
万華鏡島国はまた石を積む 
朝櫻傀儡は深くたたまれし 
野分以後吼えるものなき以北かな 

(『手毬唄』 2014年文学の森 所収)

2014年11月25日火曜日

1スクロールの詩歌 [小川双々子] / 青山茂根


息白く命令しつつ死にしこと   小川双々子

 古びたカウンターに座り、私は生まれた東京都下の一角が<ある時期>を境に全く変貌をとげてしまったことを語り、一方、双々子氏の住みつづけている尾張一宮も<ある時期>を境に例外なく姿を変えていったことを、わずかにお聞きしたように記憶している。
(『真昼の花火 現代俳句論集』高橋修宏著 2011 草子社)

 前回、榮猿丸の句を取り上げたのは、高橋修宏著『真昼の花火 現代俳句論集』の中に、これらの記述を見つけたからだった。引用を続けてみる。

 その<ある時期>とは、1960年代から70年代まで余韻のつづいた高度経済成長と呼ばれた―「産業構造の大転換が、郷土と家族を歪ませたこと、都市へ駆りたてられた夥しい若者の夢と願望が、花火のように集約され、はじけ散った」(江里昭彦『生きながら俳句に葬られ』1995年)、そんな時代である。

 ここに語られているジャパニーズドリームの変貌、その象徴であった郊外の衰退後を、てらいなく句にあらわしている一人が榮猿丸であり、手法は違えども、(当人は意識していなくても)、双々子(ひいては江里昭彦や高橋修宏)の系譜の一端であることを再確認したからだった。

 そして、高橋修宏の語る小川双々子が、そうした変容を見つめ、意識的にそれを俳句にしていたことを知って、何か救われたような、はるか遠くに思いがけず援軍を見つけたような心持ちがした。 冒頭に掲げた句を収めた句集『荒韻帖』は2003年に出版されたものだが、その中にこうした、戦後を生きたことから見えてくる戦争の句があることにも。

 最近の漫画『あれよ星屑』1,2巻(でもストーリーとしても面白いし、よく出来た漫画だ)の世界とも重なって、戦争の底辺やその少し上、性に従事した者たちなど様々な角度から、<人類の悲劇>がこれからももっと語られることを願う。

  さまざまな戦争の麦踏んでゐる      小川双々子
  あとずさりするあとずさり戦争以後
  回想の野火「我輩ハ犬デアル」
  あ、逃げた。地が灼けてゐる俺一人
  叱る十二月八日はさみしけれど
  所持品ノ一箇ノ殊ニ黴ゲムリ
  蠅取紙閉ヂ戦争へ行キマシタ
(『荒韻帖』邑書林2003年所収)



2014年11月19日水曜日

1スクロールの詩歌 [榮猿丸] / 青山茂根


按摩機にみる天井や湯ざめして      榮猿丸

地下を流れる水のように、かすかな虚無、というものがこの作者の句には含まれている気がして、熱狂するときも身体のどこかに醒めた視点がある、それが句を静かに屹立させている。
 
旅の仲間と楽しく寛いだ時間を過ごしたあとの、ふと一人になった瞬間に、はっと気づく天井から見られているような感覚、思わず見上げた羽目板の、照明の淡い陰影が、身ほとりのものとして皮膚に寄り添う。
 
すでに高度成長期を過ぎてゆっくりと失速しつつある現代に生まれたことへの諦念、とりたてて贅沢を望まなければ何不自由ない生活の一方で大きな未来が描けない社会の中で、しかし世界を否定したり、反感をあらわにするわけでもなく、淡々と物事を享受する、いわば早熟な子供の持つ冷徹な眼が、ずっと大人になっても機能している、(大人になってしまったら「ビニル傘ビニル失せたり春の浜」なんて気づかなくなってしまうのだ、ときにそれが予期せぬユーモアを生む)、それを纏める大人としての知性と形式による抑制、そんな句がこうして同時代に読めることをうれしく思う。

あをぞらを降るは刈られし羊の毛     榮猿丸 
看板の未来図褪せぬ草いきれ 
コインロッカー開けて別れや秋日さす 
雪の教室壁一面に習字の書

(『点滅』2014ふらんす堂所収) 

2014年11月13日木曜日

1スクロールの詩歌 [藤井雪兎] / 青山茂根         


自分の影に鍬振り下ろしている   藤井雪兎

 俳句における有季と定型とは、具象を抽象化するための仕掛けのようなもの、と自分では考えているのだが、

ときに客観写生や花鳥諷詠に拘泥し過ぎてそれを鎖のように身にまとったやせ衰えた姿になってしまってはいないか。

 一方で、自由律句、それも長律においてはむしろ具象としての描写が多いように思う。自由律句における境涯詠や、諧謔、社会性の具体的な描写は、現在ではより川柳の世界と近いものになっているようにも感じる。今日の伝統系の俳句ではあまり詠まれなくなったこれらの世界は、進化の過程で無くしてしまった器官のようで、それが私には羨ましい。きょうの句は、その具象であるがゆえに、普遍的な世界の一端を描き出していて。有季定型の全く別の作者の句に以下の例があることと比較してみたい。

「冬田打みづからの影深く打ち   藤井亘」

的確な描写による完成された句であり、定型俳句として評価される句であることは揺るがない。

が、きょうの句に掲げた「自分の影に鍬振り下ろしている」を目にしてみると、<冬田打>という語から、土の凍て、耕人の寒そうな様子、その気候の中での労働の厳しさといった要素がより印象に残り、人間の生きる業よりは風土詠としての感傷、その地に生きるものの矜持を感じる。自由律句のほうは、純粋に行為のみを描写しているために、影といいつつ自らの身を削り労働して生きていかねばならぬ人間の性がより浮き彫りになる。広大な世界の中のちっぽけな存在、といったアイロニーも含んで、具象に徹底することで、抽象的な読みの概念を引き出すような。有季および定型は、季語という要素と575という制限を与えられているがゆえに抽象化した描写が可能であり、抽象に季節感という要素が加わることでさらに飛躍した世界を表現することもある。たしかに具象のみの名句もあるが、それだけで留めてしまうには惜しい器であることを忘れずにいたい。


男かもしれない人と月を見ている  藤井雪兎 
この広い野原いっぱい咲く花から急いで逃げる  
ふたり海辺で裸足になっては何度も世界を滅ぼしてきた 
土下座の頭に蚊の止まる

             (自由律俳句誌「蘭鋳」)

2014年11月7日金曜日

1スクロールの詩歌 [町川匙/齋藤芳生] / 青山茂根



破裂するあかるい花火われわれの約束の地が向かうにあった       町川匙


  様々な国籍の子どもたちがいた。 
パレスティーン、と少年答えその眼伏せたり葡萄のように濡れいき    齋藤芳生



  未来なんて花火のようだったね、とおく眺めているときは輝かしくて眩しいけれど一瞬で過ぎさってしまえば闇に沈んだ、かすかな残響。ふたり手をとって走り出しても走るたびに遠ざかる、永遠に近づけない気がして、ふと見上げれば軋みながら回転する観覧車。


 聞いてはいけなかった、とはっとしたときには少年の眼は閉じられていて、瞳からなにも読み取らないで欲しい、という願望の代わりに眼は泉になる、砂に囲まれた異国での乾いた感情の日々に、潰えてしまいそうな小ささな濡れたひと房の持ち重りする葡萄。思いがけなく手渡された事実。


 砂嵐のなかに混じる硝煙のにおい、約束の地を取り戻すにはときに武器を必要として、いつかその少年も武器をとる日がくるのかと、故郷にいながら故郷を奪われた思いと綯交ぜに、胸の花火のように、ずっとあとになっても、遠く極東の地のわれわれを苛む。

  ねむりても旅の花火の胸にひらく   大野林火

(「中東短歌 3」所収) 



関連1:中東短歌

2014年11月1日土曜日

1スクロールの詩歌 [正岡子規] / 青山茂根


鐘つきはさびしがらせたあとさびし 正岡子規

 子規俳句の鑑賞といえば、大野林火のものが好きで、それ以外不勉強にもあまり読んでいないのだが、この句から浮かび上がってくる明治という時代の面影に、しばしタイムスリップしてみたい。

江戸の町の人々に時を伝えた時鐘は、明治の世にも残り、二十四時間雇われた鐘撞男がその音を響かせていたという。単純な労働のようで、遠くまで音を響かせるのはなかなか熟練を要した。

子規が日々耳にしていたと思われるのは、上野の精養軒前の鐘だろう。『明治百話』上(篠田鉱造著 岩波文庫 1996)の中に、「上野の鐘の話」が収録されているのだが、明治35年の話として、

「五、六年前に死んだ」鐘撞名人のことが書かれている。「数十年この方、鐘撞を勤めていた仙蔵という七十にもなる爺さん」「もうよる年波で歩行すら自由にできぬくらいで、トボトボと鐘楼へ上り、漸く橦木に捉って鐘をつくのだから、何の力も入らない。傍で聞いていると実に音が低くこれがどうして遠方へ届くかと怪しむほどだったが、ある時堂主が駒込へ行った折、鐘を聞いたが、その響が非常に強く、余音嫋々としていうにいわれぬ幽情が籠って、何となく鬼趣をさえ感じ」

とある。「さびしがらせたあとさびし」、ふーーっと、その幽玄の鐘の音と、ぶらさがるように鐘をつき終えた老翁のひそかな溜息が、この(明治24年の項にある)句から立ち上がってくるようだ。なにげなく句にその音を書き留めた子規、その佇まいも時代を超えて現代の我々に届く。

(『寒山落木』巻一)