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2017年9月14日木曜日

超不思議な短詩218[鶴見和子]/柳本々々


  俳句というものはすっかり自分の忘れ果てていたような原体験をぱっと思い起こさせてくれる、触発するのよ  鶴見和子

鶴見和子さんと金子兜太さんの対談本『米寿快談』のなかで鶴見さんが、俳句がとつぜん自分の身近に迫ってきた風景としてこんなふうに話している。

  私は俳句を作る人…は世界が違うんだ、人種が違うんだってずっと思っていたんです。というのは、俳句を読んでも何のことかわからない。自分で作るなんてことはもちろん考えもしないけれど、どうも分からない。ああいうものはできない、そう考えていたんです。……
  とくに私は子供の俳句のなかで〈雪解けを待つ植物のように少年は〉、あれが私はすごく印象的だったの。というのは、俳句というものはすっかり自分の忘れ果てていたような原体験をぱっと思い起こさせてくれる、触発するのよ。……
  俳句というものは、すごい力、触発力をもってる。つまり原体験の触発力なの。すっかり忘れているでしょう、それをパッとじつに鮮烈に教えてくれるの。その日なんです。これが俳句なのか、それなら私にだってわからないことはないな。むしろ俳句を読むことによって、私も歌がつくれるようになる、そういうものじゃないかなとはじめて思った。……
  つまり、これまで私は俳句に親近感は全くなかったんです。芭蕉だとか蕪村だとか、そういう世界だけが俳句だったら私にはわからない。ああいうさびとかわびとか、その上になんだかむずかしい季語を入れなきゃいけないのは。それでこれから俳句を勉強しなくちゃいけないと。つまり感性の活性化、それを俳句から私がいただくことができる。それが一つの驚き。
  (鶴見和子『米寿快談』)

とても長く引用したがここにはひとりの俳句とは無縁だと感じられていた人間がとうとつに俳句に出会い、驚き、俳句との距離感がとつぜん変化してゆくさまが語られている。それは「一つの驚き」であり「パッ」であり「鮮烈」であり、「原体験の触発力」である。

どうして鶴見さんがこの俳句の「原体験の触発力」に出会えたかというと、それは、俳句がもつ〈認識の基盤〉〈認識の原風景〉にであったから、ではないかと思う。鶴見さんは「さび」「わび」「むずかしい季語」は「わからない」と述べている。でもそういう〈趣向〉や〈風情〉ではなく「感性」として俳句にであった。そのとき、俳句が鶴見さんのなかに流れ込んできた。

こうした〈認識の基盤〉としての俳句を考えたときにわたしが思い出すのが、俳誌『オルガン』の俳句である。たとえば『オルガン』のメンバーにはこんな俳句がある。

  くちびるが顔にありけり扇風機  宮本佳世乃
   (『句集 鳥飛ぶ仕組み』)

扇風機にあたっているうちに「くちびる」が「顔」にあることに気づいてしまう。顔の本来的な存在に気づいてしまう。存在論的俳句。

  なにもない雪のみなみへつれてゆく  田島健一
   (『句集 ただならぬぽ』)

「なにもない」と語られることによって「なにもない/なにかある」という二項対立が形作られる。しかしここで語り手は「なにもない」という虚無的な次元を《あえて》選ぶ。しかも「つれてゆく」とその虚無的な次元への意志は強い。この句は、なにかがあるということと、なんにもないということの、存在論的次元を喚起する。でも、「ある」とか「ない」って実は認識の話だ。佳世乃さんの句のように、《そのひとが・世界をいま・これから・どう・みようとしているか・みているか》の話だ。

  ゐた人の残してゆきし咳のこゑ  鴇田智哉

この句においても存在論的次元が喚起される。「ゐた人」が「咳のこゑ」を残してゆくのだが、だからとうぜん今は〈いない人〉ということになる。この「咳のこゑ」も咳の〈遅延〉という咳の存在論的次元物のようなものだ。ところが語り手はその〈存在の遅れ〉のような次元にいる。「ゐた/残して/ゆきし/咳のこゑ」というひとにとってはすべて過去に葬った次元に語り手は、いま、たっている。語り手は、いったい、どの次元にいるのか。いったい、いるとかいないって、じゃあ、なんなのか。

  居ることに泉のふつと落ちてくる  宮崎莉々香
   (「かつてのまなざしでどうしても見」『オルガン』10号、2017年8月)

これら俳句には、認識の仕方を、魔術的に〈ぶり返し〉ていくような切なさがある。「かつてのまなざしでどうしても見」ようとするわたしに働きかけてくる。魔術的切なさとして。なんで切ないのかというと、世界の臨界に達しそうになるからだ。あるとかない、いるとかいない、に抵触することは、だんだんと、世界がある、世界がない、に関わっていく。もしかしたらわたしたちにとって、もう、世界は終わったものとしてあるのかもしれない、という世界の認識論にかかわってゆくのだ。

こんなことが俳句で起こってしまっているのは、驚きだと思う。でも、いま、こんなことが俳句で起こってしまている。

こうした俳句が俳句として成立してしまったとき、わたしは、そもそもの〈こちら側〉の認識を点検しなおさなくてはならないような気もするのだ。鶴見さんが「驚き」をもって俳句をうけとめたように。

俳句は、わたしに、認識の点検を要請する。きのう・きょう・あしたのわたしの認識のしかたをたしかめてごらんよと、手を、眼を、からだを、眼を、手を、とってくる。わたしたちは、いつも、俳句に「遅れ着」く。

  多く見て感じて夜が来て蛾来て  福田若之
   (「遅れ着いたもののしるしに」
    

          (「俳句の触発力」『米寿快談』藤原書店・2006年 所収)

2016年8月9日火曜日

フシギな短詩30[田島健一]/柳本々々



  噴水の奥見つめ奥だらけになる  田島健一


ずっと、田島健一さんの俳句をフシギだなあと思っていた。《どう》理解すればいいんだろうと。今回はこの問いからはじめてみたい。


ここでひとつ大きな補助線を引こう。


  ひらく雛菊だれのお使いか教えて  田島健一

   (「春は寝てから」『オルガン』5号・2016春)


たとえば関悦史さんが田島さんのこの句についてこんなふうに語っている。


この句から確かに言えることは、「ひらく雛菊」と「お使い」をめぐってある質問あるいは対話がなされ、その背後には誰かを「お使い」に出した何ものかが想定されているということだけとなって、それが誰なのか、またその誰かの存在がなぜ想定されたのかという謎は開かれたまま終わる。…もはや誰が不審者なのかすらわからない。明るく無邪気でフラットなものとして書かれた春そのもの、及びそのなかにいる誰もが、こうした稀薄で正体不明な不審者であるのかもしれない。
  
(関悦史「●水曜日の一句〔田島健一〕関悦史」2016年5月4日」『ウラハイ = 裏「週刊俳句」』)

ここで私が大事だと思うのは関さんの次の指摘だ。


「もはや誰が不審者なのかすらわからない」。


これは関さんが「謎は開かれたまま終わる」と書いたように、〈問いかけ以前〉の問題である。〈問いかけ〉を通してすべてが〈問いかけそのもの〉になっていくという〈問いかけ以前〉への地点に関さんは田島さんの句を通過することによってたどりついたのだ。


〈読む以前〉の場所に。それは〈俳句〉が〈俳句〉としてはじまる前の地点であり、しかし〈俳句〉が〈俳句〉としてはじまることによってしかたどりつけなかった地点でもある。


ふつうひとは句の〈読解〉をした後に、なんらかの〈たしかな場所〉にたどりつく。それが〈読解〉であり〈鑑賞〉である。でなければ、句を読む意味なんてない。意味が決定される場所へ赴くためにわたしたちは半ば暴力的に〈鑑賞〉を行うのだ。


ところが関さんが田島さんの句を読解してたどりついた場所は、〈読み以前の場所〉だった。「誰が不審者なのかすらわからない」、〈状況〉そのものが〈不審者〉化する場所にたどりついたのだ。


全方位的に主体が解体される場所。


その場所に田島さんの句(の関さんの読解)を通じてわたしがたどりついたとき、田島さんの句というのは《そういうもの》なのではないかとわたしは思った。


どういうことか。


冒頭の掲句をみてみよう。「噴水」は夏の季語だが、語り手はその夏の季語を通して〈どこにも〉たどりついてはいない。


たしかに「奥」を「見つめ」ながら「奥だらけ」の場所にたどりついてはいる。しかし「奥だらけ」とは〈奥〉が意味をなしえない〈解体された〉場所なのである。


語り手は〈奥〉以前の場所に〈奥〉を通してたどりついたのだ。


そしてそれこそが田島さんの俳句そのものではないか。〈奥〉が〈奥そのもの〉になろうとすること。〈問いかけ〉が〈問いかけそのもの〉になろうとすること。俳句が俳句そのものになろうとする俳句。

俳句が俳句化する過程を通して、語り手が、読み手が、俳句そのものが、「正体不明な不審者」になってしまうこと。それが田島健一の〈俳句の現場〉なのではないか。

田島さんの俳句とは、俳句が生成された瞬間、俳句が解体される〈現場〉そのものなのである。俳句だらけの場所なのである。それは、もちろん、奥が奥になりえなかったように、俳句ではない。しかし、それは、もちろん、俳句をめぐる俳句だらけの俳句なのである。


俳句は俳句にどこまで近づけるのか。俳句はいつ俳句になるのか。


わからない。わからないけれど、田島さんの俳句を読んだわたしは田島さんの俳句を通してこんなふうに思う。俳句は俳句であろうとするその限りによって俳句となる、と。


だから当然田島さんの俳句においては「出来事」は「出来事」そのものであろうとするだろう。「出来事」が「出来事」であることを問われながら、〈出来事だらけ〉のなかに置かれるだろう。つまり、


  菜の花はこのまま出来事になるよ  田島健一
   (「春は寝てから」『オルガン』5号・2016春)



          (「射る女子」『オルガン』2号・2015年7月 所収)