2016年9月30日金曜日

フシギな短詩45[荒木飛呂彦]/柳本々々


  五・七・五になっているセリフ  荒木飛呂彦
漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の著者である荒木飛呂彦さんは、自らの創作方法を語った『荒木飛呂彦の漫画術』の「導入の描き方」において次のように語っている。

  最初の一ページにどんなセリフが来れば次のページも読みたくなるのか、考えつくものを挙げてみましょう。

   ・ドキッとするセリフ
   ・しっとり落ち着くセリフ
   ・癒されるセリフ
     (……)
   ・五・七・五になっているセリフ
   ・ラップのように韻を踏んでいるセリフ

    (荒木飛呂彦「導入の描き方」『荒木飛呂彦の漫画術』集英社新書、2015年)

興味深いのは、最初の一ページのセリフ例のひとつとして五七五定型が現れていることだ。なぜ、五七五定型が「次のページも読みたくなる」ようなセリフなのだろう。
荒木さんは「最初の一ページで、その漫画がどんな内容なのかという予告を、必ず描くようにしてい」るという。そこらへんにヒントがありそうだ。つまり、たった一言のセリフが全体をそのままあわらすということ。

実はそうした俳句の働きについて言及している小説家がいる。アメリカの詩人ジャック・ケルアックだ。ケルアックはインタビューにおいて子規について言及したあとでこんなふうに俳句について話した。

  俳句? 俳句が聴きたいか? すごいビッグなお話を短い三行に圧縮するんだよ。
    
(ケルアック、青山南訳『パリ・レヴュー・インタヴューⅠ 作家はどうやって小説を書くのか、じっくり聞いてみよう!』岩波書店、2015年)
ビッグなお話を圧縮したミニマルな形式で提出すること。それがケルアックにとっての俳句だった。
荒木飛呂彦さんやケルアックなどの定型に対する考え方、つまり全体を部分として圧縮したのが定型、から考えてみたいのは、定型詩というのは提喩的な働きをなすということだ。

提喩(シネクドキ)とは、なにか。それは、全体を部分であらわす喩え方だ。たとえば、「文学とパン、どちらが大切だろうか」とあなたが問いかけられたときに、ここでの「パン」は「パン」だけでなく、「食べること全体、食べ物全体」をも同時にあらわしているはずだ。つまり、文学と食べ物、どっちが大事か、と。それを提喩であらわせば「文学とパン、どっちが大事か」になる。食べ物(全体)をパン(部分)によってあわらしたのだ。それが提喩である(ちなみに他の例では、「目玉のおやじ」や「口裂け女」も「目玉/口」(部分)が「おやじ/女」(全体)をあわらしているので提喩だ)。

定型詩は、提喩的な働きをなす。それはつまりどういうことかといえば、提喩の働きがそうであるように、部分によって全体を、最小によってこれから展開される広大な空間をあわらすことになる。だから五七五を一ページに置けば、それはこれからの物語空間の全体の予期になる。

それはどんな一部をもぎとっても、そのもぎとった部分そのものが全体そのものと似てしまうフラクタル構造のようなものと言ってもいいかもしれない。部分イコール全体であり、全体イコール部分であるフラクタル。

荒木さんはデビュー作の漫画『武装ポーカー』の最初の一ページに「『5W1Hの基本』『他人とは違う自分ならではの個性』『同時に複数のねらいを描く』『漫画全体の予告』」という「最後まで編集者にページをめくらせたい」「必要な要素」を「すべて」込めたという。そういう読者の欲動を一気に鷲掴みにするような最小形態は先ほどのケルアックの言葉を借りればこんなふうにも言えるだろう。

「短くてスウィートで思考がいきなり跳躍するような文章は、まあ、俳句だな」

しかしこれらの最大にして最小のフラクタルは定型詩そのものにもあてはまるのではないか。すべてが込められていて、全体でありかつ部分であり、最大で最小の、スウィートな跳躍。それが定型詩なんだと。

荒木飛呂彦さんやケルアックをめぐりながらもいったいなにを言いたいのかというと、定型詩は、定型詩〈内〉の空間だけをめぐりめぐっているわけではないということだ。定型詩はわたしたちの知らない〈奇妙〉なところにそっと密輸されているかもしれない。俳句の空間だけにあるのが俳句ではないかもしれないし、短歌の空間にあるものだけが短歌でもないかもしれない。それそのものの根っこはいつも〈外側〉にある(と、ラカンは言っていた)。

ちなみに『ジョジョの奇妙な冒険』と俳句をめぐっては、荒木飛呂彦責任編集のムック『JOJOmenon(ジョジョメノン)』誌上において「ジョジョ句会」が開かれている。ジョジョ文化と俳句文化がどういうふうに衝突しあい融合しあうかが実況的にわかるので興味のある方はぜひ読んでみてほしい。

  ジョジョ立ちの正中線や秋の天  堀本裕樹 
  運動会子ら吠える午無駄無駄UURRRYY!  柴崎友香 
  「あなたも河馬になりなさい」だが断る  千野帽子
    (「ジョジョ句会」開きました。」『SPURムック JOJOmenon』集英社、2012年)

今回は5や7の〈数〉をめぐる話だったので、最後は『ジョジョの奇妙な冒険』からやはり〈数〉のセリフで終わりにしてみよう。数と勇気をめぐるプッチ神父のことば。そう、数はわたしたちに勇気を与えてくれる。

  落ちつくんだ…「素数」を数えて落ちつくんだ…「素数」は1と自分の数でしか割ることのできない孤独な数字……わたしに勇気を与えてくれる 
  (荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン』6巻、集英社、2001年)


          (「導入の描き方」『荒木飛呂彦の漫画術』集英社新書・2015年 所収)

2016年9月27日火曜日

フシギな短詩44[穂村弘]/柳本々々


  
夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう  穂村弘



たとえばパソコンでもスマホでもいいのだけれど、光る液晶画面に向かって誰かとやりとりしているときに、ふいにこの穂村さんの短歌を思い出す。今や「光ることと喋ることはおなじこと」なのは、「夢の中」だけでなく、〈現実の日常生活〉においてもありふれた事態なのではないか、と。
もちろんこの歌はメディアを詠んだ歌ではない。「夢」の中における「光ること」と「喋ること」というまったく違った次元が同一化されるような夢の魔術的な作用が詠まれた歌だ。そこでは「光ること」と「喋ること」は「おなじ」であり、さらにそうした行為と行為の距離感のゼロ性は、〈わたし〉と〈あなた〉の距離感のゼロ性につながっている。つまり「お会いしましょう」と。あなたがどれだけわたしから遠く隔たっていても、わたしはあなたに「会」うことができる。「夢の中では」。


しかし一方で、こうも思う。それはまったく現在のメディア環境そのものではないかと。スマホのLINEでも、ツイッターのダイレクトメールでもなんでもよい。通知がきて画面が光り、打ち込んで話す。距離はゼロ化され、相手は手元に〈現前〉する。メディアを通したたえざる「お会いしましょう」。
考えてみれば、この歌が収められていた歌集タイトルは『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』。手紙というツールを送り手から受け手へとメッセージを運ぶためのメディアだと考えるならば、「手紙魔」とは〈メディア魔〉のことでもある。メディア魔術師からメディア魔への「手紙」としての歌集(ちなみに「歌集」もある意味ではメディアだろう)。

今回の記事の一行目に書くべきだった一文を今書いてみよう。

《もしかしたら穂村さんの短歌は、メディアの魔術(マジック)をうたっているんじゃないかと思うことがある。》

たとえば穂村さんのよく引用される初期の歌。

  サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい  穂村弘

  体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ  〃
  
 (『シンジケート』沖積舎、2006年)

この歌をメディアの歌と考えてみよう。

語り手は「サバンナの象のうんこ」をメディアととらえることではじめて「聞いてくれ」という欲望が生じ、「だるいせつないこわいさみしい」と発信することができた。しかしメディアとしての「うんこ」は受信はしてくれるかもしれないが、それをどこにも送信してはくれない。「だるいせつないこわいさみしい」はこの世界でもしかしたらいちばんアナログなメディア「うんこ」のなかに留まり続ける。

歌のなかの〈おまえ〉は「体温計」をメディアとすることで、「雪だ(ゆきだ)」を「ゆひら」と〈屈折=屈光〉して発信することができた。そのことによってそこには言葉の潜在的屈折性が生まれる。「体温計」をくわえれば、音を介して《違った》言葉が呼び出される。「う・い・あ」という母音=母型(マトリックス)から、「すきだ(好きだ)」という潜在的な言葉も呼び寄せるに違いない。言葉の可塑性をもたらす「体温計」というメディア。

複数形であるメディアにはそもそも単数形のメディウムという霊媒的な意味がある。考えてみれば、定型も不可思議な言葉の可塑性を生み出す点で霊媒的なメディアと考えることもできるかもしれない。

実際、霊的なメディアを詠んだ歌としては穂村さんのこんな歌があげられるだろう。

  まなざしも言葉も溶けた闇のなかはずれし受話器高く鳴り出す  穂村弘
  
 (『シンジケート』前掲)

受話器が外されているのにそれでも鳴る電話。メディアは、生きている。

メディアの作用は夢の作用であり、定型の作用でもある。ときにそれは「光」=〈あなた〉の〈現前〉というゼロ距離をもたらし、またあるときは「象のうんこ」のように言葉のデッドエンドをもたらし、そしてあるときは「体温計」のように言葉の屈光性を生じさせる。言葉は加速し、減速し、変速する。「夢(メディア)の中では」。

はしゃぎながら、またがりながら、回遊しつづけるメディアに乗ったままわたしたちは生きて・死んでいく。ひとつ言えることは、そのまま「はしゃいで」いたければ、そのメディアの〈顔〉を決して見てはいけないということだ。メディアが《生きていること》に気が付いてしまうこと。それはメディアがあなたを直視していることに気づいてしまう瞬間でもあるのだ。メディアの魔術師が、そう言っている。

  はしゃいでもかまわないけどまたがった木馬の顔をみてはいけない  穂村弘

   (『シンジケート』前掲)



 (「手紙魔まみ、ウエイトレス魂」『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』小学館・2001年 所収)


2016年9月23日金曜日

フシギな短詩43[石川啄木]/柳本々々


  たはむれに母を背負ひて
  そのあまり軽(かろ)きに泣きて
  三歩あゆまず  石川啄木



啄木の短歌は三行の〈分かち書き〉になっていてこれまでその〈分かち書き〉に対していろんな解釈がなされてきたが、この〈分かち書き〉を〈姿勢の悪さ=だらしなさ〉からとらえられないかと考えることがある。

俳句の喪字男さんが、俳句はすべて縦書きで刺さっていくように書かれる、と述べられていたことがあったが(参照「【短詩時評 14時】フローする時間、流れない俳句 喪字男×柳本々々-『しばかぶれ』第一集の佐藤文香/喪字男作品を読む-」 )、これは短歌もおなじで縦書きでぐさぐさ刺さるように直立が整列していくのが短歌である。つまり、短歌は、言ってみれば、〈姿勢のいい〉文芸だと言うこともできる。こんなに直立=整列した文芸はほかにないのではないだろうか。

ところがその視点からみると、〈分かち書き〉というのは、そうした直立する短歌という文芸への〈崩し〉だとも言える。つまりそれは〈積極的だらしなさ〉だと。もちろんその〈だらしなさ〉によって不要な意味の固定と分岐が生まれるが、しかしそれは〈縦〉の愛好としてある短歌を〈横〉への欲動の解放として相対化する。

〈横になること〉への関心は啄木のエクリチュール(書くこと/文章)にもあらわれる。啄木の日記を読んでいくと〈就眠時間〉が異様に執着されて毎日記述されていくことに気がつくのだが(北海道の生活をきりあげ明治41(1908)年の春に上京してから〈ねむること・おきること〉に彼は関心を持ち始める)、この〈横になる〉ことの執着はひょっとすると〈分かち書き〉という〈横への欲動〉と共振しているかもしれない、と言えば言い過ぎだろうか(ちなみに啄木が真剣に催眠術を学び生徒にも試していたことをめぐって以前書いたことがある(参照、拙文「【催眠術ノート】催眠術師・石川啄木-ひかることとしゃべることは同じことだからお会いしましょう、ねむって、眼をみひらいて-」 )。


しかし、冒頭の啄木の〈国民的〉な有名歌をみてほしい。これは親をおもった歌というよりは、〈だらしなさへの欲動〉の歌として読むことはできないだろうか。誰かをおんぶするということは、〈姿勢を悪くする〉ということでもあるのだ。「背負」った「母」は「軽」く、語り手は〈直立〉しそうな気配もみせる。なんだかその姿勢は、縦と横のはざまで揺れる〈分かち書き〉の体現でもあるように思う。


  東海の小島の磯の白砂に
  われ泣きぬれて
  蟹とたはむる  石川啄木

もちろん、「泣き」ながら蟹と「たはむ」れている人間の姿勢は〈うずくま〉っている〈だらしない〉姿勢に違いない。この歌も崩れた姿勢の歌として読むことができるはずだ。

〈縦〉の文芸にあらわれる〈横〉の姿勢の系譜。それはなんなのだろう。
もしかすると、〈姿勢のよい〉短歌にはいかに〈だらしなさ〉をそれとなく密輸することが賭けられている/たのではないか。もしそうだとしたら、そこからこんな〈積極的だらしなさ〉の歌も読み直せるかもしれない。横になった〈足〉から考える短歌。

  朝の陽にまみれてみえなくなりそうなおまえを足で起こす日曜  穂村弘
   (『シンジケート』沖積舎、2006年)



          (久保田正文編「我を愛する歌」『新編 啄木歌集』岩波文庫・1993年 所収)

2016年9月20日火曜日

フシギな短詩42[正岡豊]/柳本々々


  きみがこの世でなしとげられぬことのためやさしくもえさかる舟がある  正岡豊

この歌にあるのは滞留と交換の原理ではないかと私は思う。


聖書には「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」という有名な文句があるが、これも滞留と交換の原理に基づいている。「一粒の麦」は死によってその生をそこに留まらせることになるが(滞留)、その滞留から 「多くの実」が生まれるのだ(交換)。

「きみがこの世でなしとげられ」なかったことは「なしとげられ」なかった〈あきらめ〉としてそこに〈滞留〉しているが、しかし、それがあってはじめて「やさしくもえさかる舟」が〈交換〉としてあらわれる。
ここで気づいてしまうことは、〈交換〉とは実は〈飛躍=切断/接続〉なのではないかということだ。「きみがこの世でなしとげられ」なかったことを、〈ぼくがかわりになしとげる〉や〈きみがあの世でなしとげる〉に〈等価交換〉されるのではなく、いわばまったく〈無関係〉に、〈飛躍=切断/接続〉して、「舟」が「やさしくもえさかる」。

本来的には〈切断〉されてあるべきものが〈接続〉されてしまうこと。その切断からの接続はこんな歌と共振しているのではないか。

  かなしみは光ファイバー、突然に降りくるさみだれにおどろくな  正岡豊


「かなしみ」は「光ファイバー」という遠く離れた場所を一瞬に接続させてしまう伝送路のようなものである。どれだけ切断されていても、次の瞬間、光の伝送として接続されてしまう。それは「突然に降りくる」雨のようなものだけれど、「おどろ」いてもいけない〈必然的〉ななにかだ。それがおそらくこの歌集の〈かなしみ〉の基調である。短歌定型をめぐる滞留(切断)と交換(接続)の様相。
だとしたら、その〈かなしみ〉はこんな歌につながっていくかもしれない。

  山を食う話をしたよあまりにも悲しみすぎてついにそこまで  正岡豊
とても悲しんでいるひとをめぐる歌である。「あまりにも悲しみすぎてついにそこまで」してしまったのが「山を食う話」だった。これも〈かなしみ〉から生まれた滞留(切断)と交換(接続)と言っていい。「山を食う」ことはみずからの身体に「山」を滞留させる行為だ。もぎとられた「山」は切断され、語り手の身体に留まる。しかしそこからこの歌は「話」へと「光ファイバー」のように飛躍=加速する。「話」とは、話者=聞き手の二者関係で行われるものだ。そこには「山を食う話」を聴く聞き手がいる。つまり「山を食う」話者は「話」によって聞き手に接続(アクセス)している。話をする、という行為は、話を聞いてもらう、という交換の行為である。

だとしたら、わたしたちは正岡さんの短歌における〈あきらめ〉をこんなふうにとらえてもいいのかもしれない。正岡さんの短歌における〈あきらめ〉はそこで〈終わって〉しまうから〈あきらめ〉られたのではなくて、そこで切断されて別のかたちに交換されてしまったがゆえの〈あきらめ〉なのだと。つまり、〈終わってしまった〉のではなく、〈はじまってしまった〉のだ。それが《ほんとうに》ひとがあきらめることのかたちなのではないか。


  無限遠点交わる線と線そこにひっそりときみのまばたきがある  正岡豊


はるか彼方、想像もつかないくらい「無限」に「遠」い場所で「交わる線と線」。もしかしたらこの場所にこそ、「この世」も「光ファイバー」も「あきらめ」も「かなしみ」も届かない〈純粋な交換〉があるのかもしれない。あっ、そうだ、ちょっと今、まばたきしてみてほしい。どうだろう。なんの意味も、追随も生み出さず、あなたの上まぶたは下まぶたと交歓しなかっただろうか。そう、「まばたき」とは、〈純粋な交換〉であった。

          (「夜がまだみずみずしい間に」『四月の魚』まろうど社・1990年 所収)

2016年9月16日金曜日

フシギな短詩41[松尾芭蕉]/柳本々々


  古池や蛙飛(かはづとび)こむ水のおと  松尾芭蕉

松尾芭蕉がゾンビになったらどういう俳句を詠むんだろうと考えたことがある。

というのはかつて俳句とゾンビをめぐって書いてみたことがあるからだ(参照、拙文「【ぼんやりを読む】ゾンビ・鴇田智哉・石原ユキオ(または安心毛布をめぐって)」『週刊俳句』 )。

松尾芭蕉がゾンビ化した地点から俳句を考えてみること。たとえばゾンビ芭蕉が上の「蛙」の句を詠むとしたらどう〈変わる〉だろうか。「蛙」の句は、濁音いっぱいの意味不明な俳句になるのだろうか。

もし過去のわたしのそうした問いかけに、現在のわたしが、今、あえて答えてみるならばこうではないだろうか。

「いいや、なにも変わらない。《そのまま》だよ」

芭蕉はゾンビになっても、くちたくちびる、ぼろぼろのゆび、うろのような眼で、まったくおなじかたちの、

  古池や蛙飛こむ水のおと

を詠むのではないか。

思想家の中沢新一さんがこのあまりにも有名な芭蕉の「蛙」の句のなにが新しかったのかということについてこんな説明をしている。

  この句の特徴は、「圧縮の効果」がまったく働かないように、つくられているところにある。イメージの共通性や音価の同一性によって、意味の場に過剰接近や短絡やひきつりがおこり、その歪みをとおって、なにかすばやい流動的なものが、意識の中に浮かび上がってくるような、それまでの俳句特有の機知やユーモアが、すこしも効いていない。……
  芭蕉の創出した俳句という芸術は、…人間主義の底部をぬいてしまう、革命をおこなったのである。…比喩が働きだすことをできるだけなくして…、言葉と現実とが、あいだに想像的な媒介物をなにもいれることなく、裸の状態で、行ったり来たりを実現する、そういう言葉の、新しい機構を作りだそうとした。それが、芭蕉のおこなった革命なのだ。……
  芭蕉の俳句の世界は、閑寂で、ものさびている。そこに描かれている自然も、人の世界も、すこしも生産的であるようには、感じられないのだ。
 

   (中沢新一「人間の底を踏み抜く」『日本文学の大地』角川学芸出版、2015年)

つまり中沢新一さんにならって言うなら芭蕉が行った革命とは、俳句に〈ないない尽くし〉を持ち込むことだったと言っていい。言語の剥き身を、言語の粘膜のような裸をそのままにさらけだすこと。
この〈ないない尽くし〉をゾンビ(映画)の特徴として指摘したのは、哲学者の小泉義之さんである。

  ゾンビ映画のキモは、無い無い尽くしにある。ゾンビは生きても死んでもいない。男でも女でもないし白人でも黒人でもない。支配者でも被支配者でもない。主体でも対象でもない。ゾンビは二分法を横断するのでも攪乱するのでもなく、端的にどちらでもないのだ。したがって、ゾンビは順応するのでも抵抗するのでもない。ゾンビは生物でも怪物でも機械でもサイボーグでもない。ゾンビは増殖するにしても生成変化することも進化することも退化することもない。ゾンビに未来はない。サヴァイバーもそのうち死ぬだけである。ゾンビ映画にはいかなる解決もカタルシスもない。ゾンビ映画に対してはいくらでも解釈や批評は加えられるとしても、ゾンビ映画のキモは、現代思想がエンドゲームにしかならないと告げているところにある。 

   (小泉義之「デッドエンド、デッドタイム」『ユリイカ』2013年2月)

私はこの小泉さんの言葉の「ゾンビ」に「俳句」を置換しても実はそんなに違和感がないのではないかと思う。つまり、「俳句は順応するのでも抵抗するのでもない。増殖するにしても生成変化することも進化することも退化することもない。俳句にはいかなる解決もカタルシスもない。俳句のキモは、現代思想がエンドゲームにしかならないと告げているところにある」。なぜなら、芭蕉が俳句を〈ないない尽くし〉のものとしてゾンビ化したから。

その意味で、芭蕉とは、ゾンビそのものだったのではないだろうか。

もし俳句がゾンビに近い形式であるならば、かつて『スピカ』に連載された石原ユキオさんの「HAIKU OF THE DEAD」を私たちはもう一度ちがったまなざし(俳句ゾンビ的まなざし)で読み直してもいいように思う。そこには俳句とゾンビが遭遇し、お互いがお互いを侵食する過程が描かれている。そして最終的にお互いがお互いのボディを食らいつくし、それは、次のたった一音=無音として結実するのだ。音ですら《無い》芭蕉ゾンビ化された音として。すなわち、

  ۵  石原ユキオ
   (「HAIKU OF THE DEAD」『石原ユキオ商店』 )


          (「人間の底を踏み抜く」『日本文学の大地』角川学芸出版、2015年 所収)

2016年9月13日火曜日

フシギな短詩40[佐藤りえ]/柳本々々


  人形の頭を占めてゐる時間  佐藤りえ


掲句が収められている佐藤りえさんの連作「雲を飼ふやうに」はもう一句「人形」の句が出てくる。

  人形のをかしな動きクリスマス  佐藤りえ

人形の頭のなかにある「時間」や人形の「をかしな動き」をみつめる語り手の視線からわかってくるのはそこには「人形」以上の不気味な余剰があるということだ。人形が人形でなくなり、言わば〈人外〉とも言える〈いきいきした人形〉がこの連作では語られている。

〈人外〉と言えば、川田宇一郎さんが現代のサブカル的な〈人外〉の「基本セオリー」を次のように指摘している。

  まず最初に幽霊(妖精やら異星人や鶴)という不思議キャラ設定が紹介され、そこから二人の関係性が始まるのがサブカル的「人外」の基本セオリーなのだ。 
  (川田宇一郎「人外考ーー一般論の王国へ」『文芸すきま誌 別腹』8、2015年5月)

川田さんの現代の「人外」の指摘において興味深いのは、現代の〈人外〉は、出会って〈終わり〉なのではなく、出会ってからが物語の〈始まり〉だということだ。つまり、わたしたちが〈人外〉に出会った場合、そこからの〈長い共ー生の時間〉がわたしたちの〈物語〉になっていくのだ。

だから掲句において、「人形」に語り手が「時間」を付与しているのは興味深いことだと思う。それは時間存在であるわたしたちと〈おなじ時間〉を共有していることにもなるからだ。

もちろんこの句に「頭を占めてゐる」と注意深く語られているようにそれは「人形」特有の〈時間〉かも知れない。占められた時間はわたしたちを排除するある特有の時間かも知れないから。

それでもこの「時間」が人形に与えられることによってわたしたちとなんらかの連絡が取れてしまっている不気味さもこの句にはあるのだ。人形の頭のなかにある時間を見出し、そこからわたしと人形の「二人の関係性」が始まってしまったことの不気味さと安らかさが。

川田さんは先ほどの「人外考」を〈「ごっこ」遊び〉としてまとめている。「人外」とは、「一般的な他者(人外)を演じることで、他者の概念を運動させ、「なんだかよくわからないもの」(本当の他者)を引き出していく「ごっこ」遊び」でもある、と。

掲句の連作タイトルは「雲を飼ふやうに」だった。「雲を飼ふ」ではなく、「雲を飼ふ《やうに》」。だから人形もまるで頭の中に時間がある〈ように〉、「ごっこ」として描かれたものだったかもしれない。
でもその「やうに」=「ごっこ」によって、人形の頭の中の時間という検証不可能なもの=「なんだかよくわからないもの」がごそごそっと出てくる。この句をすでに読んでしまったわたしはこれから人形を見るたびに思わなければならないだろう。あの人形の頭のなかにも時間が、と。

〈人外〉のおそろしさとは、〈ごっこ遊び〉だったはずのものがいつのまにか生きられる〈ごっこ遊び〉になってしまった瞬間かもしれない。人形の頭を占めている時間は、いつか、あなたの頭を占めている時間そのものになるのだ。


          (「雲を飼ふやうに」『俳句新空間』2016年2月 所収)

2016年9月9日金曜日

フシギな短詩39[夢野久作]/柳本々々


  秋まいる静かな山路に
  耐え兼ねて追剥を
  した人は居ないか  夢野久作



江戸川乱歩は「夢野久作とその作品」(『探偵春秋』1937年5月)という講演において、「夢野君は又猟奇の歌というものを幾つかお書きになっておられます。詰らないものも多いのですが、私は非常に好きなものもある。そういう私の好きな猟奇歌を四つ五つ読んで見ます」と述べ、上の歌を紹介している。

この歌で注目したいのは、「追剥」が金品を目的にした〈犯罪〉なのではなくて、「秋まいる静かな山路」を解消するための〈犯罪〉だという点だ。語り手がここで語っている「追剥」とは、金品が欲しいから「追剥」するわけではなくて、「秋」の〈自然〉の〈静けさ〉によって「追剥」に追い込まれる人間なのだ。

つまり、もしそういう「追剥」があるとするならば、「追剥」にあっているのはその〈犯罪者〉自身とも言える。それはある意味で〈犯罪〉のベクトルの転倒でもある。犯罪をしてなにかをなしとげるのではなくて(犯罪は手段)、なにかがなしとげられたことによって犯罪をするのだから(犯罪は結果)。
だとしたら夢野の歌において〈犯罪〉とは、自身に結果をもたらすための手段ではない。すでに結果として自身に胚胎してあるものなのだ。これはなににも奉仕しない(そう言ってよければ)〈犯罪精神〉の自律である。

  ぬす人の心になりて
  町をゆけば
  月もおぼろにわが上をゆく  夢野久作

   (「猟奇歌」『文藝別冊 夢野久作』河出書房新社、2014年)
ここで〈犯罪〉はすでに「心」として語られている。「心」に昇格した「ぬす人」の〈精神〉は「おぼろ」な「月」に感応することのできるメディアとなる。それは「ぬす人の心にな」らなければ得られない「月」への感応である。

だとしたら、大胆に言えば、夢野久作にとって〈犯罪〉とは〈趣き〉であったと言ってもよいのではないだろうか。〈犯罪〉を〈趣き〉を運ぶ感応メディアとして設定すること。それが「猟奇歌」における〈犯罪観〉ではないか。

  何故といふことなしに
  殺したくなるのです
  あとから跟(つ)いて行き度くなるのです  夢野久作

  何かしら打ちこはし度き
  わが前を
  イガ栗あたまが口笛吹きゆく  〃
   (「猟奇歌」前掲)
〈趣き〉とは何にも奉仕・従属することなく、ただ「何故といふことなしに」「何かしら」〈なんだかいいなあ〉と思ってしまう精神のモードではなかったか。

〈趣き〉。犯罪に対する「萌え」の精神。かれは、萌えている。

          


(江戸川乱歩「夢野久作氏とその作品」『文藝別冊 夢野久作』河出書房新社・2014年 所収)

2016年9月7日水曜日

フシギな短詩38[瀬戸夏子]/柳本々々


相思相愛おめでとう ミュージック・オブ・ポップコーンおよびバラバラ死体のケーキが乳房  瀬戸夏子


瀬戸夏子さんの短歌において音としての〈SHI/TA/I(シタイ)〉というのは大事な働きをなしているんじゃないかと思う。たとえば掲出歌では、「相思相愛おめでとう ミュージック・オブ・ポップコーン」の祝祭的な風景は「バラバラ死体」の唐突な出現によって、突き崩され、「ケーキ」は局所-身体化し、「乳房」そのものになってゆく。

この唐突な〈死体〉の挿入はこの歌集においてなんどもなんども繰り返される。そもそもこの歌集のタイトルは『そのなかに心臓をつくって住みなさい』だから、どうわたしが〈心臓のないボディ〉=〈死体〉に対して対処したか、という軌跡が描かれたものとも言えるのだ。

〈シタイ〉の歌といえば、こんな歌もある。

  したいって何、現代のあさがお順に咲いていきヘリコプターはいつでも笑顔  瀬戸夏子


この歌をみてわかるのは実は〈死体(したい)〉は音を介して〈したい〉という欲動とも重なるということだ。だからこそ、先ほどの「相思相愛」の風景に〈したい〉という欲動が重なってもそれは不思議ではない。「死体」はどこかで「したい」ともつながっている。

  あたらしい死体におにぎり売りつけてわたしの死体をさがしにいきます  瀬戸夏子

だからこの「死体」を「したい」に置換することも可能かもしれない。「あたらしい〈したい〉」に「おにぎり」を売りつけて、「あたらし」さを資本の論理に回収した上で、「わたしの〈したい〉」をさがしにゆくこと。どれだけ「あたらし」くても次のせつな消費社会に組み込まれざるを得ない「死体」と「したい」。
「したい」は、これからなにかをする欲動(「これから~したい」)なのだから、未来に向いている。しかし、これが音を通じて「死体」と置換されたとき、時間はすべて過去に向く。「わたしの死体をさがしにい」くということは、「わたし」は〈すでに〉死んでいたのだから(「すでにしたいだった」)。

なにを言いたいのかというと、「シタイ」という音を介した「死体」と「したい」は音のレベルでは「相思相愛」ではある。しかしそれは〈意味〉のレベルでは過去と未来に引き裂かれ、決着のつかないものなのだ。その〈決着のつかなさ〉を耐え抜くことがこの歌集における〈時間〉なのではないだろうか。それは過去でもない。未来でもない。まして現在でもない。そもそも〈時間の心臓〉はここにない。たぶんそれはあなたがもっている。「心臓をつくって住みなさい」は、〈時間の一歩手前〉にある。

歌集タイトル「そのなかに心臓をつくって住みなさい」に〈住む〉という動詞が使われていることに注意したい。〈住む〉はなによりも時間の創出行為だからだ。ひとは瞬間的に住むことはできない。ある一定の〈持続〉した時間を手に入れたものだけが住むことができるだろう。

  デニーズが消えたとき、どんな感じだった?

  ものすごく光ってた。きらきらしてた。

  そのきらきらはまだあるの。あんたの脳味噌の地図のなかで、デニーズのあった場所どこもかしこも、に、いまはその光りがあるのよ。しわしわの桃色の地図のなかで、…

  目にはみえないデニーズ座の領域内でわたしたちはきょうも生きてるけれど、燃えあがってしまった子の手をひいて駆けこもうとしても、もうデニーズはどこにも見あたらない。


    (瀬戸夏子「ジ・アナトミー・オブ・オブ・デニーズ」『そのなかに心臓をつくって住みなさい』)


消えた「デニーズ」は「あんたの脳味噌の地図のなかで」光りつづけている。ここには観念(きらきら)と身体(脳味噌)の「相思相愛」がある。しかしその「相思相愛」は不発する。「燃えあがってしまった子の手をひいて駆けこもうとしても、もうデニーズはどこにも見あたらない」。

「相思相愛」が同時多発的に起きると同時に、それらが不発の現場としてただちに生起するのをも見届けてゆくこと。その〈持続〉した時間を「デニーズ」のような〈ファミレス〉的場所として漫然と〈住みこむ〉こと。次のせつな裏切られても。

瀬戸夏子の歌集を読むとは、そういうことなんじゃないか。


  仲の良い星座をひきずり行くものか顔を洗ったわたしのほうへ  瀬戸夏子



          (「The Anatomy of, of Denny's in Denny's」『そのなかに心臓をつくって住みなさい』2012年 所収)

2016年9月2日金曜日

フシギな短詩37[北山あさひ]/柳本々々


  

いちめんのたんぽぽ畑に呆けていたい結婚を一人でしたい  北山あさひ 




この短歌が収められている連作のタイトルは「グッドラック廃屋」。「グッドラック廃屋」ってどういう意味なんだろうって考えたときに、ふたつの意味合いが出てくるんじゃないかと思う。

ひとつは、グッドラックは別れの言葉なので「廃屋」に対してなにか別れなり見切りをつけようとしていること。もうひとつは、グッドラックは相手の幸運を祈る言葉なので、〈これから〉の「廃屋」の未来になんらかの期待をもっていること。

「廃屋」ではなくて「廃墟」についてだが、社会学者のジンメルがこんなことを言っている。

  建築における廃墟はしかし、次のようなことを意味している。つまり芸術作品の、消えてしまったりこぼれたりした所に、他の、とはすなわち自然のエネルギーと形が後を追ってはびこり、かくして、廃墟のうちでまだ生きている芸術と、すでに生きている自然とから、新しい全体、独特な統一が生まれる、ということである。…言い方をかえれば、廃墟の魅力とは、人工がついには自然の産物のように感受されるということである。

  

 (ゲオルク・ジンメル、川村二郎訳「廃墟」『ジンメル・エッセイ集』平凡社ライブラリー、1999年)


「人工」と「自然」が「独特な統一」をなしとげること。ジンメルは荒廃した建築物としての「廃墟」について述べていたが北山さんのタイトルは荒れ果てた家屋である「廃屋」だ。

「廃屋」は「廃墟」よりももっと《家》の荒廃にピントを絞った言い方であり、ここに掲出歌の「結婚」の意味が重なってくるように思う。

「法規範によって認められ維持される男女の性的結合関係」である「結婚」は〈人工物〉であり、〈自然物〉ではない。だからこそ〈ふたり〉でたゆまぬ努力をしないと、それは〈廃屋〉化するものだ。しかしこの歌の驚くべきところは、その「結婚」に対して「結婚を一人でしたい」と積極的に〈廃屋〉化させるベクトルを持っていることだ。

「一人で生きたい。結婚したくない」と結婚そのものを投げ出したわけではない。「結婚」は「したい」と言っている。しかし「一人で」。これは〈結婚〉そのものの積極的〈廃屋〉化ではないか。

言うなればここにあるのは〈廃屋の感性〉である。この社会では一人で結婚することは許されていない。というよりもそう考えるひとは〈壊れている〉ひとだと疎外されるだろう。語り手もそのことを知っている。それは「いちめんのたんぽぽ畑」で「呆け」たひとがいう発話なのだと。

だからどのみちそれが不可能なことに気がついている。それを思ったしゅんかんがただちに〈廃屋〉であることを。すなわち、「グッドラック廃屋(ごきげんよう廃屋)」と。それがこの社会で生きていくことだから。

でもどこかでその「廃屋」的感性の行く末についても願いを込めている。「結婚を一人でし」てもいいような、〈結婚〉という概念が〈廃屋〉化することが受容される社会の未来を。「グッドラック廃屋(廃屋に幸あれ)」と。

これから社会や未来がどのように動いていくかは、わからない。でも〈廃屋的感性〉だけがみつめることのできる〈社会のこれから〉がある。

  廃墟の美的な価値は、釣り合いの取りようもないもの、一人角力でもがいている魂の永遠の転変を、満ち足りた形、くっきりと縁取られた芸術作品の形と結びつけた所にある。

  (ジンメル「廃墟」前掲)


人工物と自然物がぶつかりあった「結婚を一人でしたい」という「永遠の転変」としての〈廃屋〉的感性を短歌として「形」象化したこと。

「グッドラック廃屋」は、決して廃屋の挽歌ではない。廃屋の〈これから〉が込められた歌なのだ。不思議なことだが、この歌をとおしてこういうしかない。廃屋は、いつも、未来にある。
          

(「グッドラック廃屋」『短歌研究』2014年9月号 所収)