2017年9月1日金曜日

続フシギな短詩192[小澤實]/柳本々々


  「はい」と言ふ「土筆摘んでるの」と聞くと  小澤實

前回、金子兜太さんの句のアクセスポイントの話で終わった。

  おおかみに蛍が一つ付いていた  金子兜太

古代のWi-Fiのように「おおかみ」に「蛍」が「一つ付」くことで、「おおかみ」と「蛍」がイーブンになり、「おおかみ」から「蛍」へ、「蛍」から「おおかみ」へなにかがそそぎ込まれてゆく。それがなんなのかはわからないけれど、ともかくWi-Fiのように、アクセスポイントを発見したのだ。これを古代のアクセスポイントの発見と呼んでみたい。

思い出したのが、小澤さんの次の句だった。

  本の山くづれて遠き海に鮫  小澤實

本の山がこちらに崩れてきたときに、アクセスポイントを発見してしまう。これは、現代の意識のWi-Fiのアクセスポイントと言ってもいいのではないだろうか。本の山がこちらに崩れるという唐突な可傷性を通して、遠い海にいる鮫と近接して遭遇するような可傷性とつながってしまう。意識は「遠き海」に伝送されている。しかし、傷は、ここにある。

俳句にはこうした意識のアクセスポイントを〈見つけてしまう〉ところがあるのではないだろうか。

掲句。「土筆摘んでるの」と聞くと「はい」と言われる。それが倒置法で句になっている。ここにも私は開通されてしまったアクセスポイントがあるような気がする。

土筆を摘んでいるひとをみた語り手が、あああのひとは土筆を摘んでいるのだと意識し、その土筆を摘んでいる行為を語り手は(土筆を摘んでいるのだな)と心的に言語化し、それを相手との適当な関係性のもと「土筆を摘んでいるのですか」ではなくラフな感じで「土筆摘んでるの」と声にして身体を通して聞こえるように発話し、その発話化された問いかけに対し、土筆を摘んでいるひとは無意識で土筆を摘んでいた行為を(ああ自分は今あらためて思ったが土筆を摘んでいるのだ)ということを〈意識〉化し、そしてそれが自分への問いかけだったので「はい」か「いいえ」で答えなければならず「そうです。土筆を摘んでいます」ではなく語り手への応答としてやはり適当な関係性を考慮した上で(うん)ではなくて(はい)を選択し、声に出して「はい」と言った。

これだけのことが、見いだされた意識のアクセスポイントをとおして、一瞬のうちに、伝送されるのが、俳句なのである。

そしてその「おおかみ」の、「本」の、「土筆」の、意識のアクセスポイントは、やがてメディアが〈進化〉し手元で戦争の動画を見られるようになって、「人類」の意識のアクセスポイントに到達する。〈戦争〉と〈団欒〉という人類の意識のアクセスポイントを発見してしまった句としてこんな句を最後にあげてみたい。

  人類に空爆のある雑煮かな  関悦史

          (『セレクション俳人5 小澤實集』邑書林・2005年 所収)