古池や蛙飛(かはづとび)こむ水のおと 松尾芭蕉
松尾芭蕉がゾンビになったらどういう俳句を詠むんだろうと考えたことがある。
というのはかつて俳句とゾンビをめぐって書いてみたことがあるからだ(参照、拙文「【ぼんやりを読む】ゾンビ・鴇田智哉・石原ユキオ(または安心毛布をめぐって)」『週刊俳句』 )。
松尾芭蕉がゾンビ化した地点から俳句を考えてみること。たとえばゾンビ芭蕉が上の「蛙」の句を詠むとしたらどう〈変わる〉だろうか。「蛙」の句は、濁音いっぱいの意味不明な俳句になるのだろうか。
もし過去のわたしのそうした問いかけに、現在のわたしが、今、あえて答えてみるならばこうではないだろうか。
「いいや、なにも変わらない。《そのまま》だよ」
芭蕉はゾンビになっても、くちたくちびる、ぼろぼろのゆび、うろのような眼で、まったくおなじかたちの、
古池や蛙飛こむ水のおと
を詠むのではないか。
思想家の中沢新一さんがこのあまりにも有名な芭蕉の「蛙」の句のなにが新しかったのかということについてこんな説明をしている。
この句の特徴は、「圧縮の効果」がまったく働かないように、つくられているところにある。イメージの共通性や音価の同一性によって、意味の場に過剰接近や短絡やひきつりがおこり、その歪みをとおって、なにかすばやい流動的なものが、意識の中に浮かび上がってくるような、それまでの俳句特有の機知やユーモアが、すこしも効いていない。……
芭蕉の創出した俳句という芸術は、…人間主義の底部をぬいてしまう、革命をおこなったのである。…比喩が働きだすことをできるだけなくして…、言葉と現実とが、あいだに想像的な媒介物をなにもいれることなく、裸の状態で、行ったり来たりを実現する、そういう言葉の、新しい機構を作りだそうとした。それが、芭蕉のおこなった革命なのだ。……
芭蕉の俳句の世界は、閑寂で、ものさびている。そこに描かれている自然も、人の世界も、すこしも生産的であるようには、感じられないのだ。
(中沢新一「人間の底を踏み抜く」『日本文学の大地』角川学芸出版、2015年)
つまり中沢新一さんにならって言うなら芭蕉が行った革命とは、俳句に〈ないない尽くし〉を持ち込むことだったと言っていい。言語の剥き身を、言語の粘膜のような裸をそのままにさらけだすこと。
この〈ないない尽くし〉をゾンビ(映画)の特徴として指摘したのは、哲学者の小泉義之さんである。
ゾンビ映画のキモは、無い無い尽くしにある。ゾンビは生きても死んでもいない。男でも女でもないし白人でも黒人でもない。支配者でも被支配者でもない。主体でも対象でもない。ゾンビは二分法を横断するのでも攪乱するのでもなく、端的にどちらでもないのだ。したがって、ゾンビは順応するのでも抵抗するのでもない。ゾンビは生物でも怪物でも機械でもサイボーグでもない。ゾンビは増殖するにしても生成変化することも進化することも退化することもない。ゾンビに未来はない。サヴァイバーもそのうち死ぬだけである。ゾンビ映画にはいかなる解決もカタルシスもない。ゾンビ映画に対してはいくらでも解釈や批評は加えられるとしても、ゾンビ映画のキモは、現代思想がエンドゲームにしかならないと告げているところにある。
(小泉義之「デッドエンド、デッドタイム」『ユリイカ』2013年2月)
私はこの小泉さんの言葉の「ゾンビ」に「俳句」を置換しても実はそんなに違和感がないのではないかと思う。つまり、「俳句は順応するのでも抵抗するのでもない。増殖するにしても生成変化することも進化することも退化することもない。俳句にはいかなる解決もカタルシスもない。俳句のキモは、現代思想がエンドゲームにしかならないと告げているところにある」。なぜなら、芭蕉が俳句を〈ないない尽くし〉のものとしてゾンビ化したから。
その意味で、芭蕉とは、ゾンビそのものだったのではないだろうか。
もし俳句がゾンビに近い形式であるならば、かつて『スピカ』に連載された石原ユキオさんの「HAIKU OF THE DEAD」を私たちはもう一度ちがったまなざし(俳句ゾンビ的まなざし)で読み直してもいいように思う。そこには俳句とゾンビが遭遇し、お互いがお互いを侵食する過程が描かれている。そして最終的にお互いがお互いのボディを食らいつくし、それは、次のたった一音=無音として結実するのだ。音ですら《無い》芭蕉ゾンビ化された音として。すなわち、
۵ 石原ユキオ
(「HAIKU OF THE DEAD」『石原ユキオ商店』 )
(「人間の底を踏み抜く」『日本文学の大地』角川学芸出版、2015年 所収)