2017年8月22日火曜日

続フシギな短詩171[佐藤弓生]/柳本々々


  土くれがにおう廊下の暗闇にドアノブことごとくかたつむり  佐藤弓生

佐藤弓生さんは歌集『モーヴ色のあめふる』の「あとがき」でこんなふうに述べられている。

  幻想は“ほんとうのこと”の種なしには生まれません。

「ほんとうのこと」が種になってそこから幻想がうまれるという。つまり、幻想の根っこには現実があり、その現実から生まれてきたしまったものが幻想ということになる。だから、幻想は幻想ではない。現実に対する〈特殊な認知〉を通して生まれてきてしまったものが幻想なのである。

ツヴェタン・トドロフが、かつて、幻想文学をこんなふうに定義していた。それは、《日常と非日常のためらい》だと。これは日常かもしれないとおもう。でも、一方で、これは非日常かもしれない、ともおもう。わたしはどちらにも行けず、ためらっている。ためらったまま、わたしはそのあわいのなかで生き続ける。それが、幻想である。

この定義をすると、幻想とファンタジーはまったく違うんだということがわかってくる。たとえば、『ハリー・ポッター』は、非日常に対するためらいはない。ホグワーツが日常なのか非日常なのかハリーはためらいをみせない。だからファンタジーだ。ファンタジーは、非日常にあっても、疑わないこころだ。

でも、幻想は、ちがう。幻想は、語り手が日常と非日常の接続部にいる。これは日常かもしれないしこれは非日常かもしれないというずっとその〈ためらい〉のなかにいる。

弓生さんの掲出歌。

「廊下」という日常に「土くれ」のにおいがしている。「廊下」と「土」のあわいに語り手は置かれる。だから、「ドアノブ」がすべて「かたつむり」になるような〈接続部〉に同時に語り手は身を置くことになる。「ドアノブ」は〈土〉の認知を通して「かたつむり」に変わる。でも、それは、語り手だけの認知をとおした〈幻想〉かもしれない。実際は、わからない。ドアノブはドアノブかもしれない。しれないけれど、現実が種となり幻想を起動する。ドアノブかもしれないし、かたつむりかもしれない。

幻想とは、現実に幻想駆動装置を仕掛ける〈認知〉の問題かもしれない。たとえばこんな歌。

  泣き方を忘れた夜のこどもたち蛙みたいに裏がえされて  佐藤弓生

  手で包むこどものあたまあたたかい種がいっぱいつまってそうな  〃

「夜のこどもたち」と「蛙」の往還、「こどものあたま」と「種がいっぱいつまって」るものとの往還、これら往還運動のなかにそれらを往還させる〈認知〉がある。

「こども」が「裏がえされた」ときに「こども」たちは「蛙」になり、「こどものあたま」を「手で包む」ときに「こどものあたま」にいっぱいの「あたたかい種」を感じとる。土の認知をとおしてドアノブがかたつむりとなったように、そのときどきのふとした行為のなかで変換の認知がたちあげられる。こどもは蛙にならないし、あたまにあたたかい種がぎっしり詰まってはいないが、日常と地続きの認知を通して、それらは連絡され、非日常的質感がたちあがる。

  おはじきがお金に変わり、ながいながいあそびのはての生のはじまり  佐藤弓生

そのような語り手にとって「生」とは、「おはじき」が「お金」に変わる認知そのものによって「生」が支えられていることに気づいてしまうことだ。「おはじき」と「お金」は分かれているわけではない。わたしたちは「おはじき」から「お金」へ〈認知〉のしかたを変えるのである。だからそれはつながっている。「変わ」っただけだ。でもそれに気づくひとは少ない。それは別の物だとおもっていきている。でもきづいてしまうひともいる。きづいてしまったひとは、幻想的に、あわいを、生きる。

  なお若い葉のかがやきのくるしみに見知らぬ人をおとうとと呼ぶ  佐藤弓生

そうした〈認知〉をとおした「生」は、「見知らぬ人」を「おとうと」と「呼ぶ」生でもある。「かがやき」も「くるしみ」も「なお」ひきうけて〈認知〉は接続しそうもない箇所を〈接続〉する。

弓生さんは「あとがき」で、

  人がすぐ死ぬこの世をうたいながら、ただよってゆきたいと思います。

と述べている。「人がすぐ死ぬこの世」という認知は、「人」が、わたしがふだん認知している状況からぬけた場所=あの世に「すぐ」いってしまうことの〈認識〉をあらわしている。

この世は、あらゆるものが幻想的にいったりきたりしているし、現実的にいったきりもどってこないものもある。そういう認知と認識がこの歌集をとおしてあるように思うし、それを別のかたちであらわすのだとしたら、〈幻想〉とわたしは呼びたい。

  水か空かわからなくなる 風立ちて ただうろこなすいちめんとなる  佐藤弓生

          (「百年の間こうして」『モーヴ色のあめふる』書肆侃侃房・2015年 所収)