2020年6月10日水曜日

DAZZLEHAIKU45[小島一慶]  渡邉美保

   夏めくや亀の子束子専門店  小島一慶

 なにげないものに夏の気配を感じる一瞬がある。作者の眼に映ったのは亀の子束子専門店。
   亀の子束子という地味で武骨な、昔ながらの台所用品を扱う専門店があり、夏めいている。そんな視点に惹かれる。
 明るく瀟洒な店内に、並べられているであろう大小さまざまの亀の子束子を想像する。毛先のきっちり揃った真っ新の亀の子束子たちが、初夏の光の中で輝いているにちがいない。棕櫚やパーム椰子の繊維という天然素材の持つ清々しさ、素朴な色合い、その亀の子に似た楕円の形。涼やかさはまさしく夏の匂いを放っているだろう。勢いよく水を流し、思いっきりごしごしと束子で丸洗いする爽快感を思う。
 
 亀の子束子のオレンジ色のパッケージには「…明治40年の発明から百年来その姿は変わらない手作りによる高品質のたわし」と謳う。明治時代から使い続けられている、誇り高い亀の子束子の夏が来る。 


〈『入口のやうに出口のやうに』(2019年/ふらんす堂)所収〉

2020年4月2日木曜日

DAZZLEHAIKU44[大島雄作]  渡邉美保


  電球を振つてさりさり春の雪    大島雄作

 電球をくるくる左に回し、ソケットから外す。外した電球を耳元で振る。替えの電球をくるくる右に回して取り付ける。よくある光景だった。
外した電球を耳元で振ると震えるようなかそけき音がした。白熱電球の中のフィラメントが切れている証である。球形の薄いガラスの中で、か細い金属の線が切れて動く音は実に繊細だ。
  掲句から、久しく忘れていた、切れた電球の音の「記憶」が甦る。まさしく「さりさり」と懐かしい音である。
 折からの春の雪。淡く、溶けやすい、降ってはすぐに消えてゆく春の雪と、無機質の電球、しかもその音との取り合わせが、かくもノスタルジーをかきたててくれるとは。
電球そのものがいつしか消えてゆき、忘れられゆく運命にあるからなのだろうか。

 我が家でも白熱電球はLED電球に変わった。寿命が40,000時間とかで、白熱電球の1000時間をはるかに凌駕している。交換の手間は減り、交換時に振っても無音のままだ。あの音はもう聞こえない。
〈句集『一滴』(2019年/青磁社所収〉

2020年2月29日土曜日

DAZZLEHAIKU43[辻 美奈子]  渡邉美保

  アボカドに種の重たき春の月    辻 美奈子


 熱帯アメリカ原産のアボカドは、今や、年中スーパーに並ぶ人気の果実のひとつである。それ自体には季節感が乏しいと思っていたが、アボカドの種と春の月の取合わせの新鮮さに惹かれた。
 アボカドの中央を縦に一周するように刃を入れ、全体を少しひねると、実はきれいに半分に分かれる。種から剥がれた方の半分は、丸いへこみをもち軽やかだが、残りの半分には、丸い大きな、いかにも重そうな種が残る。それは、輪を持った惑星のようであり、種はまんまるの月のようでもある。 ぽってりとした重量感はまさしく〈アボカドに種の重たき〉である。
 また、水分をたっぷり含み、しっとりと艶やかな春の月も、上空にありながら〈重たき〉を共有しているように思われる。
 アボカドの種と春の月の重たさが呼応して、どこか心許ない春の夕べである。


〈句集『天空の鏡』(2019年/コールサック社所収〉

2020年2月6日木曜日

DAZZLEHAIKU42[千坂希妙]  渡邉美保


  日向ぼこ靴下脱いでふと嗅いで       千坂希妙

  え~、嗅ぐの? と思わず笑ってしまう一句。
 冬日にあたたまり、いい塩梅に身体も心もほっこりほぐれ、足先ももそもそと、つい靴下も脱いでしまう。靴下を脱いだときの開放感。その気持ち良さが伝わってくる。
 そして、脱いだ靴下をふと嗅いでみる、たった一人の日向ぼこ。けっして、いい匂いとは言えないことは明々白々。その仕草を想像すると可笑しいが、どこか哀感が漂う。
 芳香ではないとわかっていても、つい嗅いでしまう、あるいは嗅ぎたいと思う心理は一体どこから来るのだろう。
 嗅覚には、へんなにおいを嗅ぎたいという欲求があるのではないかと思うことがある。ウォッシュタイプの山羊のチーズの強烈なにおいを嗅いで大笑いしたことがある。なんだか喜んでいるように…。

 句集中の〈手囲ひの螢を嗅いでゐてひとり〉〈新藁の匂ひがしたる馬糞かな〉
どちらも、佳き匂いとは言えない匂いを嗅いでいる。あたたかく、切ない作者の嗅覚である。

〈句集『天真』(2019年/星湖舎)所収〉

2020年1月9日木曜日

DAZZLEHAIKU41[東金夢明]  渡邉美保

  身から出た錆も美し冬の釘  東金夢明

 古い木造家屋の片隅で、壁に打ち付けられた一本の釘を思う。それ自体が無機質な、硬く細く冷たい釘であるが、長い年月の間に錆を纏う。錆を纏いつつ、冬の冷たい空気の中で、今、確固たる存在感を示している一本の釘。それを美しいと感じる作者がいる。その釘の美しさは、とりもなおさず、その錆の美しさなのだ。
「身から出た錆」は、自分の犯した悪行の結果として自分自身が苦しむこと、自業自得などの意味で、たいていは否定的に用いられる慣用句である。しかし、その慣用を裏切り、作者が〈身から出た錆も美し〉と言い切ったとき、この言葉は、新鮮な詩語として息づく。引き締まった堅固な響きが快い。
 混沌としたこの世界で、釘は釘であり続ける。身から出た錆が美しいという断定的な表現と、厳しい冬の出会いが、掲句の美しさを際立たせているのではないだろうか。
そして、私たちは自分自身の「身から出た錆」についても考えさせられる。

〈句集『月下樹』(2013年/友月書房)所収〉

2019年12月1日日曜日

DAZZLEHAIKU40[大石悦子]  渡邉美保

  草の実になるなら盗人萩がよい   大石悦子

 11月初旬、田圃の畦道を抜け、里山を歩く。道すがら、いろいろな草が実を結んでいた。桜蓼、小蜜柑草、屁屎葛、鵯上戸、石美川、牛膝、そして盗人萩などなど。いずれもかわいらしい小さな実である。
 これら草の実は、野趣に富み野山を彩るが、あまり人々に注目されることもなく、束の間に消えてしまう。
掲句、〈草の実になるなら〉 はそんな草の実への、作者の愛情の表れのような気がする。自分が草の実になるのを想像するのは楽しい。選択肢は豊富だ。すてきな遊びだと思う。また、人間もしょせんは草の実と同じ存在なのだという感懐も感じられる。
 作者は〈盗人萩がよい〉という。いささか物騒な名前からして愉快だし、名の由来となる実の形、なるほど盗人の忍び足に似ていて面白い。衣服に付いてもチクチクしないので、棘のある実ほどは嫌がられないだろう。旅人の服や鞄にくっついて、その相手と一緒に思わぬところまで移動し、旅先で落ちて、その地に芽吹くというロマン。盗人萩いいなあ。では、私は小蜜柑草に。

〈月刊『俳壇』12月号(2019年/本阿弥書店)所収〉

2019年11月9日土曜日

DAZZLEHAIKU39[鈴木牛後]  渡邉美保


  黄落や牛の尻追ふ牛の鼻   鈴木牛後

 木々は黄葉し、地にも黄の落葉、真青な空を背景に黄葉の落葉が宙を舞う黄落期。秋の終りの黄の光にみちた空間には哀切さが漂う。
降りそそぐ黄色い光の中に放牧の牛のシルエットが浮かぶ…、そんな牧歌的な景を思い描こうとするとき、〈牛の尻〉〈牛の鼻〉という生き物の器官が生々しくクローズアップされ、一瞬たじろいてしまう。
「牛の尻追ふ牛の鼻」は、生殖行動の一環なのか、牛同士のコミュニケーションの手段なのか、よくわからないが、黄落もまた生命の現場なのだと思わされる。

 牛の尻に鼻先を近づける牛、その後にまた牛が鼻を寄せ、さらにその牛の尻を追う牛の鼻。そんな光景を想像するとちょっとユーモラス。それは生命の連環であり、高揚ではないだろうか。
黄落がはじまると、いよいよ寒くなってくるという。

〈句集『にれかめる』(2019年/KADOKAWA)所収〉

2019年9月27日金曜日

DAZZLEHAIKU38[川島 葵]  渡邉美保


冬瓜をどうするかまだ決められず       川島 葵

 句会で冬瓜が話題に上った。「味がない」「歯ごたえがない」「あんまり美味しいもんじゃない」などとその場の男性諸氏の評判は芳しくなかった。「淡白な味は、出しによって引き立つし、翡翠煮など見た目も美しい」という擁護派もいて、冬瓜は、好き嫌いの分かれる食べ物だと思う。
 掲句、台所にごろんと置かれた大きな冬瓜が目に浮かぶ。
料理の目的があって買い求めたのではなく、思いがけない頂き物としての冬瓜なのだろう。
 その冬瓜を前に、さてどうしたものかと思案中の作者。〈まだ決められず〉に作者の軽い困惑と逡巡が伺える。
 スープ、煮付、あんかけなどの料理法はいくつか思い浮かぶが、決まらない。どうするか決まらないままに、数日が経ち…。〈まだ決められず〉である。放置された冬瓜の、のっぺらぼうの無聊を思うと、なんだか可笑しい。そして冬瓜に同情する。

〈句集『ささら水』(2018年/ふらんす堂)所収〉

2019年8月23日金曜日

DAZZLEHAIKU37[ふけとしこ]  渡邉美保


ごきぶりの髭振る夜も明けにけり     ふけとしこ

ごきぶりを見ると、反射的に臨戦態勢をとってしまうので、(たいていは逃げられてしまうのだが)「髭振る」ことに注目したことは、ほぼない。
確かにごきぶりには一対の髭がある。その髭は嗅覚、触覚などをつかさどり、食物を探したり、外敵を防ぐ用をするという。
 このごきぶりは、髭を振り振り何を探しているのだろうか。それをじっと見ている作者の視線。ここでは、ごきぶりは忌み嫌う対象ではないようだ。

「夜も明けにけり」の「も」は、「ごきぶりの夜も」「私の夜も」の「も」ではないかと思う。
「明けにけり」(明けてしまったよ)にどことなく感じられるやるせなさや倦怠感。短夜と言われる夏の夜。作者にもごきぶりにも夜はまだ続いて欲しかったのではないだろうか。同句集中

〈ごきぶりに子がうまれるぞこんな夜は〉の句も。

〈句集『眠たい羊』(2019年/ふらんす堂)所収〉

2019年7月25日木曜日

DAZZLEHAIKU36[栗林 浩]  渡邉美保



  行く夏のからとむらひか沖に船     栗林 浩

 「からとむらひ」という言葉にはっとする。
 広辞苑に「空葬。死体の発見されない死人のために仮に行う葬式」とある。
 「からとむらひ」から
  〈屍なき漁夫の弔ひ冬鷗〉   平野卍
  〈屍なき柩のすわる隙間風〉   〃
の句が思い浮かぶ。冬の海で遭難した死者の葬儀、空の柩の虚しさが悲しみを深くする。
 しかし、掲句の「からとむらひか」という軽い疑問形には、悲愴感や暗さはない。
 作者の視線は沖へ向いている。過ぎてゆく夏へ向けた遠まなざし。
 沖を行く船が、行く夏を弔っているかのようだということだろうか。
 空の色や雲の形、海の色、波の高さに夏の衰え、秋の気配を感じる、明るいけれど、どこかもの悲しさを秘めた景を思わせる。

 夏の終りは、太平洋戦争の死者たち、海で命を落とした人たちを思う季節でもある。沖を行く船や寄せる波に鎮魂の思いが込められているような気がする。

〈句集『うさぎの話』(2019年/角川書店)所収〉