ここまで「人外句境」として40句を読んできた。
人ならぬものが登場する、または人ならぬものの気配のする俳句を選んだつもりであるが、この鑑賞はそもそもの「人外」の意味を厳密に汲んでいるものではない。ミニコミ誌「別腹」8号に川田宇一郎氏が寄せた文章が、「人外」の定義につれて触れている。
辞書的な正当な意味は二つある。現代の「人外スキー」が時折、タイトルで間違えて買ってしまう小説だが、小栗虫太郎『人外魔境』は本来の正しい使い方である。ドドという有尾人が登場するが、彼の存在を「人外」としているわけではない。ドドらの生息域=地球上の未踏地帯であるコンゴ北東部への冒険譚が、「人間の住む世界の外」という意味で人外なのである。
(中略)
もう一つの辞書的意味(ただし稀)は、中井英夫の小説『人外境通信』が代表する。冒頭に、「どこかしら人間になりきれないでいる、何か根本に欠けたところのある、おかしな奴」として私語りがはじまり、最後は「人外。それは私である」と結ばれる。つまり「人の道に外れていること」という意味だ。
辞書的「人外」には、この「人の住む世界の外」か「人の道に外れたこと」の意味しかない。だから「人類以外のキャラ」という意味は、サブカル分野のヒロイン等の属性区分で使われだした最近の用法である。
「人外考――一般論の王国へ」川田宇一郎
この論考をたよりに考えれば、物語に登場するキャラクター、ロボット、家電、動物、架空の存在、人形など、取り上げてきた題材の多くはサブカル的文脈においての「人外」ということになる。「人ならぬもの」が一句のなかに特殊な存在としてでなく、恒常的な、今ある世界の一部のように置かれている、またそのように扱われている。観賞しながら、そのこと自体に違和感がないのはなぜだろうか、という問いが常に傍らにあった。
今年2月に上梓された「妖怪・憑依・擬人化の文化史」(伊藤慎吾編著)という本がある。帯には「『日本書記』から『妖怪ウォッチ』まで」の惹句が踊り、前近代から今日までの日本の「異類」の表現史を幅広く解説している。「擬人化」の項の総説「擬人化された異類」のなかに「今日の日本では、国家や都道府県、言語や観念といった、様々な見えないものや抽象的なものが当然のように擬人化されている。」という記述がある。ひとの仕草をさせる、手足をつけて人間らしく見せる、といったものより、見た目としては人間にしか見えない―しかも美男美女である―ような「擬人化」表現のほうが、今日猛威をふるっている。
では、俳句の表現においては、どうか。〈ロボットが電池を背負ふ夕月夜/西原天気〉〈人魚恋し夜の雷聞きをれば/川上弘美〉〈雪女ヘテロの国を凍らせて/松本てふこ〉〈初夢に踊り狂へり火星人/高山れおな〉などは、「異類」がそのまま登場している句になる。ここでの異類は、しかしどちらかといえば記号的な役割―それぞれの名を持つものの総体としての存在―であるように思う。
いっぽう〈たましひが人を着てゐる寒さかな/山田露結〉〈たましひも入りたさうな巣箱かな/藺草慶子〉〈大凧に魂入るは絲切れてのち/髙橋睦郎〉など、目には見えない「たましい」が登場する句も多くひいた(執筆時に候補として〈使い減りして可愛いいのち養花天/池田澄子〉もあった)。これらの句に登場する「たましい」は、「人ならぬもの」のなかで、「目には見えないけれどあると信じられているもの」を可視化して表現の一助としているものである。可視化、といっても「視覚化」ではない。言葉の上で他に言い換えられないものとして、フィジカルなものとメンタルなものの中間的存在、または「こころ」の物質的代替物として登場している。
「可視化」と「視覚化」の違いとは、ことばでおもしろがらせるか、見た目でおもしろがらせるか、ということではないか、と推察する。たとえば〈今晩は夜這いに来たよと蛸が優しい/御中虫〉は、「夜這いに来たよ」と「蛸」が告げる、という点に擬人化表現を見るが、この蛸を「どのような蛸」と取るかは読者に委ねられている。八本足で立ち上がっていると見るもよし、顔だけ蛸で体は人間の半人半蛸、浮世絵『里すゞめねぐらの仮宿』の雀たちのような姿を想像するもよし。「人っぽい仕草」がおもしろいのであって、「ヒトガタの蛸」が明示されているわけではない。
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俳句のなかにあらわれる「人ならぬもの」たちについて、つらつら思うところを綴ってきた。
約二年にわたり、勝手気儘な文章を書く場を与えてくださった北川編集長に感謝申し上げます。