日曜はトースト二枚跳ね上がり)壊れた言葉(幸せみたい 加藤治郎
加藤治郎さんにとって記号ってなんなんだろうと時々考えているのだが、それは〈崩壊の徴(しるし)〉なのではないかと思ったりする。この壊れてしまった括弧のような。
つまり、わたしたちの言語感覚がそれによって壊れてしまうかもしれないことのその表徴となるのが加藤さんの短歌における記号なのではないかと。
そもそも記号とはフシギな存在だ。わたしたちの言語表現そのものなのではなく、それらを副次的に補佐するのが記号である。記号は文字通り記号なのだから、意味というよりは、意味の補佐なのである。
ところが加藤さんの短歌ではその記号が記号どおりの働きをしていない。むしろ記号は自分自身の意味の主導権を握り、記号がそれまで示さなかったような記号の独創性を発揮しようとしている。
つまり、わたしたちの言語体系がそこでほつれ、やぶれようとしているのだ。
記号そのものがメッセージを発しはじめてしまった風景。だとしたら、発話者であるわたしたちは記号とどう関係を結ぶべきなのか。それとも時にわたしたちの発話システムはそうした非人称の記号に発話の主導権を握られてしまうのか。
もちろん、この跳ね返った弾力のような括弧は、跳ね上がった二枚の「トースト」かもしれない。だとしたら、言語体系はそのトーストの跳躍によってほつれ始めている。
でも、ふっとわれにかえって、もしかしたら壊れはじめているのは、言語体系の方ではなく、〈わたしたちの風景〉の方ではないかとおもうのだ。
わたしはかつて「希望の廃墟」の話をしたことがある。それはほんとうは「記号の廃墟」の話だった。でもわたしの話をきいていた方が言った。「それ、《希望》の廃墟の話なのではないですか?」と。「いや、」とわたしは言った。私は《記号》の廃墟の話をしていたから。「でも、」と続けていった。もしかしたら、〈そう〉なのかもしれないといっしゅんで思ったから。ずっと、わたしは、希望の廃墟のことを思っていたかもしれなかったから。だから、「そうだとおもいます。だとしたら、──」とわたしは言った。
だとしたら、壊れた風景のなかで壊れた記号を抱きしめながら、創造しなおさなければならない。
記号の肉を。廃墟にも《これからの肉》が与えられるような、アダムとイヴになるような記号の肉体(ボディ)を。わたしたちは、創造しなければならない。新しい廃墟で。
少年を刺すのは変か)(ビニールの傘の淡さにボクが囁く 加藤治郎
少年を救うのは変か)(シャツに似た幽霊が跳ぶ乾燥機あり 〃
コンタクト・レンズの細い罅みれば)理解できない(批評はうたう 〃
(「顔のない静物画」『環状線のモンスター』角川書店・2006年 所収)