2017年7月15日土曜日

続フシギな短詩141[三宅やよい]/柳本々々


  眩しくて鶫がどこかわからない  三宅やよい

田島健一句集『ただならぬぽ』にはこんな句がある。

  鶫がいる永遠にバス来ないかも  田島健一

なんでバスが来ないように感じられるんだろう。「鶫がいる」からだ。でもなんで鶫がいるとバスが来なくなっちゃうんだろう。

とにかくこの句からわかることは、「鶫」を通して〈アクセスできないなにか〉を感触してしまうことだ。ふれられないものを感触してしまうこと。それを〈現実界〉といってもいいが、ともかくふれられないものにアクセスしてしまいそうになっている。

やよいさんの句をみてみよう。語り手は「鶫」をみようとした。ところが「眩しくて/わからない」。この句では「鶫」そのものにアクセスできない。鶫自体がふれられないもの、アクセスできないもの、現実界になっている。

「鶫」というのはなぜこんなにもアクセスしがたさを生み出すんだろう。ちょっとふしぎである。

というか、ですよ。今これを読んでいるあなた、この「鶫」って読めますか? 私は読めなかったんですよ。

以前、イラストレーターの安福望さんからこんなふうに聞かれたことがある。「この『鶫』ってなんて読むんですか?」
わたしは答えた。「ああ、これは、「ひよどり」って読むんですよ」「へえ、そうなんですね。なるほどなあ」

でも、ぜんぜんちがったのだ。ひよどり、なんかじゃないんだ。ぜんぜんちがうんだ。違ったことはまだ安福さんには伝えていないので安福さんはいまだこの「鶫」を「ひよどり」と読んでいる。まあそれはそれでいいと思うけれど、でもふつうのひとは読めるんだろうか。私にはわからない。読めないんじゃないかと、おもう。読めますか。

で、あらためて考えてみると、俳句の句集というのは、季語にルビをふらない。これは煩瑣であることを避けるためかもしれないが、そもそも季語というのは、俳句をする人間なら脳内で同期されているデータベースのようなものではないかと思う。だから、わざわざ、そこにルビをふるようなことはしない。それはそもそも共有されているものだからだ(たぶんですよ)。

ところが一般の感覚では、「鶫」は読めない。ひよどり、と読んでいるような人間もいる。この「鶫」という字は季語のアクセスしがたさを象徴していないだろうか。

やよいさんの句のように、なんとなく「鶫」がいることはわかる。「鶫」という漢字は読めなくたって認識はできるんだから。でも、読めない。なんとなく、鳥だというのはわかる。鳥っていう字があるからね。でも、読めない。アクセスできない。読めないということは、この漢字を解凍できないということであり、そこにいるのはわかるのに〈眩しくて/わからない〉ようなものなのだ。

わたしは「鶫」は季語へのアクセスしがたさの象徴なのではないかと思う。認識はできるのだ。「鶫」と。でもその認識できたファイルを解凍できない。ルビがふれない。だから、バスはやってこない。くるかもしれない。でも、やってこないかもしれない。いつか読める日がくるかもしれない。こないかもしれない。

ところで正解はまだ言ってないんですが、鶫って、読めますか?

          (「船団」104号・2015年3月 所収)