2017年9月24日日曜日

超不思議な短詩229[京極夏彦]/柳本々々


  せをはやみ岩にせかるゝ瀧川の、思ふ男はーーおまへならでは。  京極夏彦

京極堂シリーズには、カバーの折った部分(前袖)に、かならずその物語全体にかかわるエピグラフがかかげてあるのだが、『絡新婦の理』のエピグラフが冒頭の歌である。

  瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ  崇徳院

という百人一首からとられているエピグラフなのだが、この「おまへならでは。」というのは私はずっと京極夏彦のオリジナルだと思っていたのだけれど、そうではなくて、鶴屋南北『四谷怪談』には「夢の場」と呼ばれる夢の中の場面があって、そのなかのこんな伊右衛門とお岩のやりとりから取られていることが最近わかった。

  お岩 スリヤあのあなたの御家名は、民谷様と申しまするか
  伊右 いかにも民谷。シテ、そなたの名は、なんと言ふぞ
  お岩 アイ、わたしがその名は。…
     すなはちこれが、わたくしが
      ト差し出す。伊右衛門、取つてこの歌を見て
  伊右 こりや七夕へさゝげたる百人一首の歌の内、瀬をはやみ、岩にかるゝ滝川の
  お岩 われても末に、逢はんとぞ思ふ。○(間) われても末に
      ト伊右衛門が顔をじつと見て
     逢うてたまはれ民谷様
  伊右 ヤ、さう言ふそなたは、家出しやった
  お岩 岩に堰かるゝその岩が、思ふ男はおまへならでは
      ト膝にもたれて、思ひ入れ
  (「後日中幕」『東海道四谷怪談 新潮日本古典集成』新潮社、1981年)

もともと崇徳院の歌は、川の流れが岩でふたつに割れたとしても、また終いにはそのふたつの流れは必ず出会うことになる、という別れた男女の再会という〈恋歌〉になっているのだが、お岩はその恋人の再会の歌の「岩」を「岩に堰かるゝその岩が、思ふ男はおまへならでは」と自身の名前と掛けながら民谷伊右衛門に「思ふ男はおまへならでは(わたしの想う男のひとはあなたでなくてはならない)」と言う。川をせきとめる岩だったものが「岩」という名前になることで、すさまじく情念のこもったものにもなっている(つまり、彼女は誰かと誰かを引き剥がし別れさせる障害物にもなりうるような存在でもある)。

この百人一首と四谷怪談が複合した歌が、『絡新婦の理』のエピグラフになっている。「二人は別れてしまうけれど、やっぱりあなたではなくてはなりません」

じゃあ、『絡新婦の理』ってどういう物語だったんだろう。

京極夏彦の小説は〈レンガ本〉と言われるようにとても分厚く長大な物語(ミステリ)なのだが、この『絡新婦の理』というストーリーを私なりにこんなふうに短く要約してみたいと思う。

 システムに自覚的なあまり悲しい男が、システムに無自覚なあまり悲しい女に出会う物語。

ここで男とは京極堂であり、女とはこの事件の本当の犯罪者(絡新婦=じょろうぐも)のことである。どちらもシステムをめぐる立場でありながら、自覚/無自覚というちがいをとおして、ふたりは〈おまえではなくてはならない〉ような人間(おまえ)に出会う。

  「慥かに、観測者が無自覚である場合は不確定性の理(ことわり)から逃れられるものではありません。だが観測者がそうした限界を常に括弧(かっこ)に入れて臨む限りはそのうちではない。僕は事件の傍観者たることを自覚している。つまり観察行為の限界を識(し)っている。だから僕は言葉を使う。言葉で己の境界を区切っている。僕は僕が観察することまでを事件の総体として捉え言説に置き換えている。僕は既存の境界を逸脱しようと思ってはいない。脱領域化を意図している訳でもない」
  「あ、貴方はーー」
  「《僕の悲しみ》はそこにあるのです。あなたにはそれはないのかと、ずっと思っていた。しかしどうやら、あなたはそれに無自覚だっただけのようだーー」
  男は女に向き直る。
  女は戦(おのの)く。しかしたじろぐことはしない。
  男は隈取(くまどり)のある凶悪な眼で女を見据える。
  「ーーこれで漸く解りました。あなたは《あなたが発動した計画がどのような理に則って動く》のか、全く理解していなかったのですねーー」

  「ーーだからあなたは《止められなかった》んだ」
  (京極夏彦『絡新婦の理』)

京極堂/犯罪者双方ともシステムに関わる者としては二人はおなじ種類の人間である。二人ともシステムを産み出す側の人間だ(ちなみによく探偵と犯罪者は一心同体ではないかと言われることがある。事件解決とは事件を忠実にたどり直すことに他ならないから探偵は犯罪者の立場になることができる人間なのだ)。

ただ京極堂はシステムを産み出す(解決する/説明する)ときにそれを自覚している。ほんとうはやりたくないことなのだとも思っている。じぶんができることなんてなにもない。ただシステムを言葉にして可視化するだけだ。そんなことは実は意味がない。なんの生産にもならない。出来事の速度を、結果をはやめるだけだ。それになんの意味があるのか。だから彼はかなしい。この世の中に《不思議なことはなにもない》のだから放置しておけばいい。なるようになる。でも彼はひっぱりだされ、システムを言語化=可視化するよう要請=強制させられ、そのことによって、時間を、時間の流れを、出来事の流れをはやめ、出会うべくして出会うべきだった不幸なものたちを不幸なかたちで出会わせることに《たずさわる》。ネガティヴな「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」を京極堂は雑司ヶ谷の産院の事件から、ずっと行っているし、行わされている。

でも『絡新婦の理』の犯罪者には、そのシステムの理(ことわり)が自覚できていなかった。彼女にとっての「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」は、いつも、偶発的なかたちで(彼女の思いがけないかたちで)起こった。京極堂にとっては必然的な「瀬をはやみ~」は、彼女にとっては偶発的な「瀬をはやみ~」だったのだ(そしてたぶんそのことさえをも自覚してしまうこと、できてしまうことをも京極堂は悲しがっている)。

『絡新婦の理』はフェミニズムをめぐる長大な物語なのだけれど、シンプルにまとめるならば、こうしたシステムの認識の違う男女が《出会う》物語としてみることができる。そして、その意味で、実は、『絡新婦の理』の最大の事件は、この男女がすれ違いつつも《出会(ってしま)う》ことにある。

犯罪者である彼女にとって、この《違い》を教えてくれるのは、たぶん、京極堂しかいなかった。その意味で彼女にとって「おまへならでは」は京極堂である。そして京極堂にとって彼女にそれを教えてやれるのは自分しかいなかった。悲しいことだけれど京極堂にとってまた彼女も「おまへならでは」だった。

フェミニズムが、男女の出会いを演じながらも、その違いを、《男女の出会いの失敗》を、析出する思想であるならば、まさしく本書は〈フェミニズム〉をめぐる物語である。『絡新婦の理』では、男女の出会いが、男女の出会いの失敗が、出会いの失敗のあきらめが、しかしその失敗からのかすかな新しい希望が、描かれる。

この長大な物語の最初と最後は同じセリフであり、ループのような構造になっている。この京極堂の一言で『絡新婦の理』は、始まり・終わる。

  「あなたがーー蜘蛛だったのですね」

つまり、この物語は、男女が出会い、男が女に「蜘蛛」としての、複雑に交錯=交雑するシステム(蜘蛛の巣)の中央に君臨する者としての、アイデンティティを付与する物語だということができる。

だけれども、それは決して男が女に名付けを与える類のマスキュリンな、マッチョな物語ではない(男から女への「感情教育」の物語ではない)。なぜなら、男は、京極堂は、そうせざるをえないことを自覚し、悲しんでいるから。

つまり、はじめから、どの事件でもそうなのだが、京極堂は負けを自覚してやっている。負けを自覚はしているが、しかし京極堂の悲しみは、負けを自覚することではなく、他者に関わりながら・なにもできないことの〈自覚〉にある。それを〈負け〉というなら〈負け〉だが、『邪魅の雫』で超越的探偵の榎木津礼二郎が言ったように、大事なことは「勝ち負け」でも「善し悪し」でもない。他者に今関わっている自分を「逢いたかった」とか「久し振り」とか「こんにちは」と〈関わり〉として自覚することなのだ。

  「え?」
  「馬鹿野郎と云った。君はーー本当に馬鹿だ」
  「わ、私は、だって」
  「逢いたかったとか、久し振りとか、せめてこんにちはとかーーそう云うことを云うものだろう」
  「だってーーそんな、私は」
  「勝ち負けじゃないぞ」
  「勝ちーー負け?」
  「善し悪しでもない」
  どう云うーー意味?
  「解らないようだな」
  「え、榎木津君ーー」
  「もう遅い」
  (京極夏彦『邪魅の雫』)  

他者にいま自分が関わりながら同時になにかをしてあげることの限界を自覚することの認識。探偵にあって、犯罪者にないものは、それだ。犯罪者はいつもそれに《気づく》ことの「遅さ」を抱えこんでいる。

『絡新婦の理』はそうした意味で、京極堂シリーズにおける京極堂の〈悲しい認識〉、ひいてはすべての探偵たちの〈悲しい認識〉を位置づける物語になっている。

探偵たちは、「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に」、幾つもの事件を通して、世界の中心にいようと《試みた》「おまへならでは」に出会う。

探偵たちは、数限りない事件と再会をとおして、犯罪者たちに告げる。この世界には中心なんてないのだ、と。

  それは幻想(まやかし)だ。
  大いなる錯誤だ。
  己と世界は同等だとーー。
  或いは己こそが世界だとーー。
  或いは己が世界の中心に居るとーー。
  何(いず)れも間違っている。
  あの奇妙な男が教えてくれたことだ。
  …世界の構成要素であることと、世界そのものであることは、同義ではない。
  そしてーー世界に中心などない。
  (京極夏彦『邪魅の雫』)


          (『絡新婦の理』講談社・1996年 所収)

*システムの網の目とその中心にいるものの話をしたが、歴史的に考えてみると、『絡新婦の理』は1996年刊行であり、1995年がインターネット普及の年だったことを思い出してもいいかもしれない(1996年はヤフー創業年)。つまり、わたしたちが蜘蛛の巣状のネットワークのセカイの中心になりはじめたときなのである。1995年『新世紀エヴァンゲリオン』の最終話タイトルは「セカイの中心でアイを叫んだけもの」だった。ちなみに『邪魅の雫』はセカイ系がテーマの事件になっている。