人生の主人公ときに替はる気せり 白湯(さゆ)に浮かびし顔ふつと飲む 米川千嘉子
太宰治『晩年』の最初に収められている「葉」のいちばん最後にこんな断片がある。
生活。
よい仕事をしたあとで
一杯のお茶をすする
お茶のあぶくに
きれいな私の顔が
いくつもいくつも
うつっているのさ
どうにか、なる。
(太宰治「葉」『晩年』)
米川さんの歌の語り手も、太宰のこの語り手も、どちらも〈これから自分が飲もうとするもの〉にみずからの「顔」を投影しているのは共通している。大事なことは顔をうつしているのは〈鏡〉ではなく、「白湯」や「お茶」だということ。つまり、〈はかない〉のだ。それは〈鏡〉のようにいつまでも飽くことなくみつめつづけられるものではない。たゆたい、うつろい、波間に、或いは、あぶくが割れ、きえゆくものだ。〈内面〉が生まれるまえに、〈きえる〉のだ。顔、が。
でも、それが、大事なのではないか。
〈鏡〉はわたしたちの「顔」をうつし、そこでなにかを考えるにはあまりに強度をもっているのではないかと思うのだ。むしろ、鏡にわたしたちの顔は吸着されてしまっているのではないかと。偽の内面をつくらされているのではないか。
でも、白湯やお茶という〈液体〉をとおしてなら違う。そこには「人生の主人公ときに替はる気せり」という相対性がある。「いくつもいくつもうつっている」〈わたし〉という相対性。
い
だからこそ、「どうにか、なる」と思うこともできる。思い詰めないことによって、だ。
わたしたちは「白湯」や「お茶」にうつったわたしの顔をみることによって、〈顔の複数性〉を手に入れることができるのではないかとおもうのだ。それが、「どうにか、なる」ことなのではないか。
顔をうつし、そのうつした顔に魅了されるまえに、もういちどわたしの顔に顔を取り戻すこと。そういう顔の往還運動のなかに、わたしの生の相対性がうまれること。
わたしの顔に、絶対性を与えないこと。
どんなに「死のうと思って」も、たえず、歌を、言語を、顔をとおして〈わたし〉に複数性を与えること。もうひとつの生を。どんなに生が行き詰まっても、わたしたちはわたしとわたしの往還をつづける限り、
どうにか、なる。
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
(太宰治「葉」『晩年』)
(「月光すわる」『一葉の井戸』雁書館・2001年 所収)