2016年7月5日火曜日

フシギな短詩24[岡野大嗣]/柳本々々



  空席の目立つ車内の隅っこでひとり何かを呟いている青年が背負っているものは手作りのナップサックでそれはわたしの母が作った  岡野大嗣

『かばん』(2016年5月号)に掲載された岡野大嗣さんの連作「とぎれとぎれ」にこんな一首がある。



  写メでしか見てないけれどきみの犬はきみを残して死なないでほしい  岡野大嗣
 
 (「とぎれとぎれ」『かばん』386号・2016年5月)

この歌にある〈祈り〉の強度は、歌そのものの〈長さ〉にあらわれているのではないかと私は思う。

  写メでしか(5)/見てないけれど(7)/きみの犬は(6)/きみを残して(7)/死なないでほしい(8)

こんなふうに6音と8音の「きみの犬は/死なないでほしい」と祈りを〈とりわけ〉込めた箇所を語り手がていねいに・長く・饒舌に語っているのに注意したい。そのせいでこの歌を読むときにわたしたちは祈りの箇所だけ語り手とともに〈いつもより長く〉言葉のなかに留まるのだ。〈いつもより長い〉時間の共有。

もちろん〈いつもより長い〉とは言ってもそれは一音ぶんの長さでしかない。しかし短歌のなかの時間は、たった一音といえども、〈長い〉。その〈留まった〉ぶんだけ、わたしたちは語り手と〈祈り〉を共有している。時間の〈長さ〉がそのまま〈強度〉になっていくような、祈り。

この歌の「写メ」という瞬間的な時間は、ひきのばされた短歌定型のなかの長い時間のなかで、〈祈り〉の時間へと変わる。そしてそのことによってこの歌の「写メ」という言葉は日常的に消費される〈瞬間的な時間〉を越えて、「死」と等価の時間としての〈長い時間〉をまとうのだ。

「写メでしか見てないけれど」語り手は〈祈り〉の時間をここに歌った。ひきのばされた時間の強度として。

それでは冒頭に掲げた今回の歌をみてほしい。どうしてこんなに長いのだろう。これは〈短歌〉なのだろうか。それとも〈長歌〉なのだろうか。東直子さんは歌集解説でこの歌の形式をこんなふうに書いている。

  五七五七七五九五七七七というリズムを刻み、二首分以上の音数が費やされている。
 
 (東直子「本音の祈り」『サイレンと犀』書肆侃侃房・2014年)

この歌には「二首分以上の長さ」をもった〈時間〉がある。「青年の/ナップサックは/手作りで/それはわたしの/母が作った」と一首に縮約できるはずのものが、ここでは「青年」をめぐる〈空間描写〉から入ったために非常に長い時間を読み手は経験=共有することになる。しかし問題はやはりその〈時間経験〉の濃度だ。

「母が作った」ものに対しては「二首分以上の長さ」としての〈時間経験〉を要すること。それがこの歌がもつ〈時間の強度〉なのではないかと思うのだ。

「母」に至るには長い時間を費やさなければならなかったこと。それは〈短歌〉の想像力を越える長さでなければならなかったこと。

  母と目が初めて合ったそのときの心でみんな死ねますように  岡野大嗣

長い長い歌と時間の〈終わり〉に「母」に出会ったように、語り手はこの歌では〈始まり〉に「母」との出会いを置いたのちにそこから「死」までの〈長い長い時間〉を歌う。

「母と目が初めて合ったそのとき」から「死」までの時間を「母」がつかさどること。

だとしたら、「母」とは〈時間の強度〉そのものではないか。そしてその「母」で始まった〈時間の強度〉は「死ねますように」という〈祈り〉に通じていくのだ。「写メでしか見てな」くても〈生死〉の祈りを賭けられるひと。それは〈母〉のまなざしを持つことができた者だけができる行為なのだ。

〈母〉そのものがひとつの〈祈りの形式〉であること。「母と目が初めて合ったそのとき」から、わたしたちが生まれたときから、わたしたちの〈祈り〉はもう始まっていたこと。

そう、わたしたちは聞いていたはずだ。〈母〉の祈りを。それは〈きれいな鼻歌〉の、終わりのない、〈とぎれとぎれ〉の、たったひとつの〈長い歌〉としての祈りを。

  前をゆく女のひとは鼻歌がきれいで赤ちゃんを抱いている  岡野大嗣
  (「とぎれとぎれ」『かばん』386号・2016年5月)


      (「選択と削除」『サイレンと犀』書肆侃侃房・2014年 所収)