やがて叫びだすつけ合わせの紫蘇 金原まさ子
紫蘇は夏の季語。掲句では、紫蘇がシャウトしている。なんでだろう。
いや、フシギではない。金原さんの句においてはモノがリミッターを解除していくことがたびたびあるのである。季語がその〈沸点〉を越えること。たとえば、
蛍狩ほたる奇声を発しおり 金原まさ子
月明の喪服しずかに失禁す 〃
この句においても「ほたる」の奇怪なシャウトを聴くことができる。二句目は〈シャウト〉ではないが、「失禁」をひとつのリミッターの解除ととらえることもできる。身体のシャウトとみて、いい。
注意してみたいのは〈出力〉の様態である。その〈出力〉の様態を俳句として描くことが金原さんの俳句の強度につながっていく。入力ではなく、出力が。
父がいまわのわらいをわらいおる父が 金原まさ子
母は魚の息していなくなるのか母は 〃
どちらも「父/母」をめぐる〈出力〉の句である。ただしそれは助辞によって様態が異なっている。「父」は助詞「が」により〈未知〉の情報として出てくるためこの「いまわのわらい」はまだ誰も知ることのないような勢いのある〈出力〉になっているが、「母」は助詞「は」により〈既知〉の扱いとされ、「魚の息」という文字通りあたかも知っていたかのように勢いは矯められている。
「紫蘇」や「ほたる」や「失禁(者)」は助詞の拘束具が外されリミッターが解除されるのに対し、〈父/母〉は助詞という拘束具をつけられ、その出力が調整させられている。そこに語り手の出力への微妙な息づかいを感じることができる。語り手は〈出力〉を渡り歩いているのだ。
こうした言辞のありかたを、金原さんの〈悪意〉にならって、言葉を文法的に〈折檻〉しているということもできるかもしれない。言葉を、季語を〈折檻〉するのが金原さんの俳句だと。
わたしたちは金原まさ子の俳句を通してたやすく「折檻部屋」を出たり入ったりすることができる。真顔で。すました顔をして。折檻される季語のシャウトを目撃しながら。ああ。
世界はなんて〈初めて〉ばかりなんだろう、とおもう。
あさぎまだらが近づく気配折檻部屋 金原まさ子
(「沸点」『-俳句空間-豈』58号・2015年12月 所収)