2016年7月19日火曜日

フシギな短詩26[兵頭全郎]/柳本々々



  受付にポテトチップス預り証  兵頭全郎


全郎さんには〈ポテチ川柳〉なるポテトチップスをめぐる一連の句がある。紹介しよう。

  ポテチからポップコーンの上申書  兵頭全郎

  小銭ともポテチの厚みとも言えず  〃

  タンカーに横付けされるポテチ工場  〃

  拳からポテチがのぞいている 許せ  〃

  ポテチ踏む戦争映画はエンドロール  〃

ここにみられるのは徹底的なしつこいまでの〈ポテチ〉への執着である。

注意したいのは〈ポテトチップス〉ではなく、〈ポテチ〉という呼称が一貫して使用され続けていることだ。〈ポテトチップス〉は〈ポテトチップス〉ではなく、語り手にとっては〈ポテチ〉と略される何よりも〈言語存在〉なのである。だから「ポテトチップス」という正式名称が使われたときにはそれは「受付」に「預」かられてしまい、語り手の手に入らないカタチになるのだ。

これらの〈ポテチ川柳〉を通して、これだけ語り手がポテチに執着しているにも関わらず、わたしたちはなにかがおかしいとすぐに気づくはずだ。ここには重要ななにかが決定的に欠けている、と。それは、なにか。

《なぜ、語り手はポテチを食べようとはしないのか》。

語り手は決してポテチを口に入れようとはしない。これだけポテチに執心しながらも、ポテチの周縁をえんえんとめぐっているだけなのである。手を出そうとしないのだ。

これはどこまでいっても〈ポテチ〉を円心に据え置いた〈ポテチをめぐる周縁〉なのである。たとえば「ポテトチップス預り証」や「横付けされるポテチ工場」、「拳」からちら見しているポテチ、「ポテチ踏む戦争映画」など、なにかそれはつねに〈間接的〉なのだ。言語的に略された〈ポテチ〉が、〈ポテトチップス〉の物質性を奪われてしまうように、全郎さんの句にあらわれる〈ポテチ〉とは言語によって構造化された食べることが不可能なポテチなのである。

だから、ポテチはここでは〈核心/確信への迂回〉として機能していることになる。しかしそれが〈迂回〉だからこそ、語り手はかたくなにポテチに執着しつづけることになる。いつまでも食べられないし、意味が終わらないからだ。

そう、実はこのポテチとは〈意味〉に置換してもいいものなのである。受付に「意味」の預り証があるように、横付けされる「意味」工場のように、拳からちら見している「意味」のように、「意味」を踏む戦争映画のように、ポテチは〈意味〉を担保してもいる。ポテチが、食べられてしまうポテトチップスにならないことによって、だ。

そしてその意味の担保=保留=迂回にあえて執心してみせること。意味のエンドロールをえんえんと遅延させること。それが兵頭全郎の川柳なのではないかと私は思うのだ。

私はこれまで、川柳は執心をくりかえすことによって意味の大気圏を突破しようとすることがあると思ってきた。でも全郎さんのポテチをめぐる川柳を通して、今はこう言い換えてみたいと思っている。

川柳は執心をくりかえすことによって意味が公転し続ける〈意味の太陽系〉を織りなしていくことがあるのだと。それは大気圏の突破ではない。ぐるぐるシステムを循環しつづける〈太陽系〉の生成なのだ。

だからこそ、全郎さんの句集にはこんな太陽系的なぐるぐるした句もある。

  風車風見鶏風くるくるくると墜ちていくのが最後尾行から直帰刑事は夜の顔という顔がくるくる遊園地にも足跡のない轍とも堀ともとれる幅に立つとすぐ椅子を持ち去る第二秘書くるくるさっきまでの罠らしく唇として開けてある  兵頭全郎

句集タイトルは、『n≠0』。0は一枚のポテチにも見えるだろう。しかし、もちろん、0≠0であるように、それは〈ポテチ〉ではないのだ。

n≠0。意味の任意性としてのnを、どこまで行っても無意味ではないという「≠0」というかたちで生き続けること。意味に負けないよう、燃え尽きないよう、くるくると循環し続けること。無限のポテチ(∞)と共に。

          (「開封後は早めにお召し上がり下さい」『n≠0』私家本工房・2016年 所収)