「ご存じでしょうか。私の好きな短歌にこういうものがあります。『白鳥は哀しからずや/空の青/海のあをにも染まずただよふ』、なんという美しい短歌でしょう、岡田さん」 村上春樹村上春樹に「青が消える(Losing Blue)」(1992年)という短編がある。「アイロンをかけているときに、青が消えた。」の一文ではじまり、どんどん世界から青色が消滅していく物語だ。物語の時間は「1999年の大晦日の夜」の「二十世紀最後の夜」に設定されている。だからこの短編が掲載された1992年の時点からすれば〈ちょっとした未来〉だ。
青色が好きだった「僕」は「青の消滅」していくなかで公衆電話から「内閣総理府広報室」に電話をかける。NECが新しく作り上げた「コンピューター・システム」としての「総理大臣」が出て「総理大臣」は「僕」に若山牧水の短歌を引用しながら答えてくれる。
「青はまことに美しい色であります、岡田さん」と総理大臣の声が静かに言った。「ご存じでしょうか。私の好きな短歌にこういうものがあります。『白鳥は哀しからずや/空の青/海のあをにも染まずただよふ』、なんという美しい短歌でしょう、岡田さん」
「ねえ総理大臣、青がなくなってしまったんですよ」と僕は電話に向けて怒鳴った。
「かたちのあるものは必ずなくなるのです、岡田さん」と総理大臣は言い聞かせるように僕に言った。「それが歴史なのですよ、岡田さん。好き嫌いに関係なく歴史は進むのです」
(村上春樹「青が消える(Losing Blue)」『村上春樹全作品1990~2000①』2002年、講談社)
この物語では「青」をめぐる事柄が「政治」や「歴史」をめぐる〈大きな物語〉として語られる。「青はいったいどうしたんですか?」と「僕」が「白い駅員」に問いかけても「駅員」は「政治のことは私に聞かないでください」と「僕」をつっぱねる。「僕」は「青」が大好き(僕の〈小さな物語〉)なのに、牧水の歌の「白鳥」=〈小さな物語〉のようにその「青」=〈大きな物語(空の青/海のあを=世界の青)〉から排除されている(「総理大臣」が「私の好きな/美しい短歌」として「好き」「美しい」という〈小さな物語〉の枠組みで「青の消滅」=〈大きな物語〉を語ろうとしていることに注意したい。「総理大臣」とは〈小さな物語〉を〈大きな物語〉にすり替える人間なのかもしれない)。
短歌においてはちょっと不思議な〈色の系譜〉のようなものがある。思いつく限りで任意に引用してみよう。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、きらきらとラインマーカーまみれの聖書 穂村弘
(『ラインマーカーズ』小学館、2003年)
(『新鋭短歌シリーズ18 トントングラム』書肆侃侃房、2014年)
(『きみを嫌いな奴はクズだよ』書肆侃侃房、2016年)
牧水の〈色をめぐる歌〉を〈大きな物語=空の青/海のあを〉に排除されてある〈小さな物語=白鳥〉と春樹の短編に沿って読んでみるならば、〈色の短歌〉とはそうした〈大きな物語〉と〈小さな物語〉がせめぎあう構造的葛藤の場として読むことができるかもしれない(そこからなぜ村上春樹『ノルウェイの森』の「緑」は「緑」だったのかも考えることができるかもしれない。「緑」の言葉を思い出そう。「私ね、ミドリっていう名前なの。それなのに全然緑色が似合わないの。変でしょ?」)。
その意味では、短歌になぜ〈きらきら〉や〈光〉が頻出するのかもちょっと考えてみたいところだ。
キラキラに撃たれてやばい 終電で美しが丘に帰れなくなる 佐藤りえ
(『フラジャイル』風媒舎、2003年)
(『やがて秋茄子へと到る』港の人、2013年)
〈大きな物語〉と〈小さな物語〉のはざまを「染まずただよふ」こと。色(カラー)を意識してしまった人間はその色彩的実存を引き受けることになる。多くの村上春樹の主人公「僕」がそうであるように青が消滅していく世界の「僕」もまた「わけのわからないままどこまでも通りを歩い」ていく。
「わけのわからない」状態は、〈大きな物語〉にも〈小さな物語〉にも回収されず「染まずただよふ」ことだ。言わば「やれやれ」的主体。「やがて町中の時計が十二時を打っ」て世界は2000年に踏み込んでいく。「みんな」は「一斉に歓声をあげ、歌を歌ったり、物を投げたり、抱き合ったり、シャンパンを抜いたりした。新しいミレニアムがやってきたのだ。誰も消えた青のことなんか気にしてはいなかった」。
《でも青がないんだ》、と僕は小さな声で言った。《そしてそれは僕が好きな色だったのだ》。
(「青が消える(Losing Blue)」『村上春樹全作品1990~2000①』講談社・2002年 所収)