2017年8月15日火曜日

続フシギな短詩156[北川美美]/柳本々々


  夕立の中にどんどん入っていく  北川美美

私はふだんその〈ひと〉のことじゃなくて、そのひとの〈ことば〉について書こうと決めているので、そのひとと出会ったりしてもあんまりそのことは書かないのだけれど、でもたまにはいいかと思って書いてみる。夏が終わるし、お盆だし。

北川美美さんはこの『およそ日刊俳句新空間』の編集をつとめていて私はずっとお世話になっていた。わたしは美美さんに誘われて書き始めた。

去年の年末に白金高輪で豈の忘年会があって、わたしは美美さんに挨拶しに行こうと思い、バスに乗ってこそこそと行った。会場はイタリア料理屋だったのだが、クリスマスのあたたかい明かりに包まれており、なにか句会のようなものをしていて、ここに途中から入るのはハードル高いぞと私は大きな木の陰から手をついてしばらく見ていた。ちょっとマッチ売りの少女を思い出したが、売るマッチはなかったし、雪も降っていなかったし、私は不幸でも幸福でもなかった。

でもこのままここで木の陰で手をついているのは人目もあることだしまずいぞということで、そのあと「どんどん入ってい」って美美さんに無事挨拶することができたのだが、美美さんはそのあとアクティブにいろいろ動き回っていて、はいもともとさん、とケーキを運んだりしていた。そういえば美美さんの句はアクティブな句がおおいと、おもう。

  日盛や人追いかけて道をきく  北川美美

  ひとりづつ金魚に水を足しにゆく  〃

  さびしいとさびしい幽霊ついてくる  〃

なんだか、じっとしていないのだ。なにか「道をきく」「水を足しに」「さびしい」などの〈目的〉があって、その〈目的〉のために、かれらは〈動く〉のである。俳句なのだから、もう少し、切れのもと、じっとしてもいいのではないかと思うのだが、みんなじっとしていない。幽霊でさえ、さびしいからと、ついてくる。なんだか、それは目的があって忘年会に行ったわたしみたいで、俳句にはそういうアクティブな俳句があるのだなあと思った。

ちなみにその忘年会で私は現在編集をしている佐藤りえさんにもお会いした。何年も前にりえさんには挨拶したことがあるのだが、今年の春夏になんどもりえさんに都内のあちこちで会ったような気がして、人生ってふしぎだなあとちょっと思った。イベントにいくと、りえさんがいるのだ。

  あと二五〇〇個の銅鍋がわたしに磨かれるのを待っている  佐藤りえ
  (『What I meant to say.』)

美美さんやりえさんに実際にお会いして思ったのだけれど、なにかを待とうとはしなくても、ただ待っているだけで、なにかが、「二五〇〇個の銅鍋」のようなぎらぎらしたなにかが、やってくるかもしれない。でも、その、ただ待っているだけ、をすることの難しさ。それでも、待つ、ということ。

うーん、でも考えてみると、掲句、「夕立の中にどんどん入っていく」というのは、「入っていく」とはいうものの「夕立」の側からやってきてることを「入っていく」と言い換えているだけかもしれないのだ。だからこれもひとつの積極的な〈待つ〉といえるかもしれない。待っていると「どんどん入っていく」のだ。

これは、待つことをアクティブにあらわした句なんじゃないか。そういうアクロバティックな。待つ。

  いったい、私は、誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何もない。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている。大戦争がはじまってからは、毎日、毎日、お買い物の帰りには駅に立ち寄り、この冷いベンチに腰をかけて、待っている。もっとなごやかな、ぱっと明るい、素晴らしいもの。なんだか、わからない。たとえば、春のようなもの。いや、ちがう。青葉。五月。麦畑を流れる清水。やっぱり、ちがう。ああ、けれども私は待っているのです。
  (太宰治「待つ」)

待つ、という動詞は、実は、何もしなくても「どんどん入っていく」ことに近いのではないだろうか。なぜなら、対象が定められたとき、それは固定され、待つ、ではなく、追っていく、に変化するからだ。対象を定めず、「なんだか、わからない。いや、ちがう。やっばり、ちがう。けれども」と言いながら「待つ」状態で、「どんどん中に入っていく」こと。そんなことが可能なのだろうか。

  夕立の中にどんどん入っていく  北川美美

可能なのではないだろうか。

          (『俳句新空間』4号・2015年夏 所収)