人形の頭を占めてゐる時間 佐藤りえ
掲句が収められている佐藤りえさんの連作「雲を飼ふやうに」はもう一句「人形」の句が出てくる。
人形のをかしな動きクリスマス 佐藤りえ
人形の頭のなかにある「時間」や人形の「をかしな動き」をみつめる語り手の視線からわかってくるのはそこには「人形」以上の不気味な余剰があるということだ。人形が人形でなくなり、言わば〈人外〉とも言える〈いきいきした人形〉がこの連作では語られている。
〈人外〉と言えば、川田宇一郎さんが現代のサブカル的な〈人外〉の「基本セオリー」を次のように指摘している。
まず最初に幽霊(妖精やら異星人や鶴)という不思議キャラ設定が紹介され、そこから二人の関係性が始まるのがサブカル的「人外」の基本セオリーなのだ。
(川田宇一郎「人外考ーー一般論の王国へ」『文芸すきま誌 別腹』8、2015年5月)
川田さんの現代の「人外」の指摘において興味深いのは、現代の〈人外〉は、出会って〈終わり〉なのではなく、出会ってからが物語の〈始まり〉だということだ。つまり、わたしたちが〈人外〉に出会った場合、そこからの〈長い共ー生の時間〉がわたしたちの〈物語〉になっていくのだ。
だから掲句において、「人形」に語り手が「時間」を付与しているのは興味深いことだと思う。それは時間存在であるわたしたちと〈おなじ時間〉を共有していることにもなるからだ。
もちろんこの句に「頭を占めてゐる」と注意深く語られているようにそれは「人形」特有の〈時間〉かも知れない。占められた時間はわたしたちを排除するある特有の時間かも知れないから。
それでもこの「時間」が人形に与えられることによってわたしたちとなんらかの連絡が取れてしまっている不気味さもこの句にはあるのだ。人形の頭のなかにある時間を見出し、そこからわたしと人形の「二人の関係性」が始まってしまったことの不気味さと安らかさが。
川田さんは先ほどの「人外考」を〈「ごっこ」遊び〉としてまとめている。「人外」とは、「一般的な他者(人外)を演じることで、他者の概念を運動させ、「なんだかよくわからないもの」(本当の他者)を引き出していく「ごっこ」遊び」でもある、と。
掲句の連作タイトルは「雲を飼ふやうに」だった。「雲を飼ふ」ではなく、「雲を飼ふ《やうに》」。だから人形もまるで頭の中に時間がある〈ように〉、「ごっこ」として描かれたものだったかもしれない。
でもその「やうに」=「ごっこ」によって、人形の頭の中の時間という検証不可能なもの=「なんだかよくわからないもの」がごそごそっと出てくる。この句をすでに読んでしまったわたしはこれから人形を見るたびに思わなければならないだろう。あの人形の頭のなかにも時間が、と。
〈人外〉のおそろしさとは、〈ごっこ遊び〉だったはずのものがいつのまにか生きられる〈ごっこ遊び〉になってしまった瞬間かもしれない。人形の頭を占めている時間は、いつか、あなたの頭を占めている時間そのものになるのだ。
(「雲を飼ふやうに」『俳句新空間』2016年2月 所収)