サイダーをほぐす形状記憶の手 小津夜景
いや、こんなふうに考えてみよう。どうして語り手は「サイダーをほぐす」ことができたのかを。
サイダーは飲み物なのだからまぜることはできても「ほぐす」ことはできない。「もつれてかたまったものをとく」ことが「ほぐす」なのだから、「サイダー」はほぐせない。でもひとつだけ方法がある。
この「サイダー」が〈ゼリー〉である場合だ。その場合、「ほぐす」ことは可能かもしれない。
注意したいのは、その「ほぐ」している「手」が「形状記憶の手」である点だ。つまり、「形状記憶」ができる「手」であるために、「サイダー」を〈ゼリー〉のような「記憶」としてあつかうことができるようなのだ。
小津夜景さんの俳句にあっては、記憶とゼリーは関係しあっているらしい。こんな句を引いてみよう。
ぷろぺらのぷるんぷるんと花の宵 小津夜景
もちろん「ぷろぺら」はゼリーのように「ぷるんぷるん」とはしない。でも、この「ぷろぺら」がひらがな表記である点に注意したい。この「ぷろぺら」は「プロペラ」ではない。主観のなかでまだ客観化されない「ぷろぺら」なのだ。まだ語り手の主観にあって「ぷるんぷるん」としている「形状」化されないゼリーのような「ぷろぺら」。「ほぐ」されつつある「ぷろぺら」だ。
ゼリーのようなぷるぷるした記憶に満ちた句集。この句集の一番目に置かれた句をみてみよう。この句集はどんな句ではじまったのか。
あたたかなたぶららさなり雨のふる 小津夜景
「たぶららさ」はタブラ・ラサであり、白紙のようななにもまだ書き込まれていない心という意味のことばだ。しかしそうした無垢な意識そのものが「たぶららさ」という主観のなかにひらがな表記として《すでに書き込まれた》ものとして存在しているのがこの句の特徴である。しかも「あたたか」い。「雨のふる」も濡れることの《書き込み》としてみてもいいかもしれない。
つまりこの句集は、白紙状態のまだ書き込まれていないフォーマット=初期化そのものがすでに《書き込まれた》ものとして存在することから始まっているのだ。
わたしたちの意識はどんなに始原的に遡ってもすでに《書き込まれている》。それがこの句集の《態度》ではないか。だからサイダーもほぐせるし、ぷろぺらもぷるんぷるんなのではないか。それはすでに《書き込まれた》世界だから。わたしたちは白紙に、無に、ゼロになることはできない。わたしたちの意識は遡行すればするほど、痕跡化していく。
失われたものが要求するのは、記憶され、かなえられることではなく、わたしたちのなかに忘れられたものとして、失われたものとして残ることである。ただそのことによってのみ忘れえぬものになるのだから。
(アガンベン、上村忠男・堤康徳訳『涜神』月曜社、2005年)
「忘れられたもの」そのものが痕跡化すること。しかしその痕跡は決して「かなえられ」ることはないこと。それはゼリーのようななにものにもなりえない〈記憶〉である。わたしたちが生きることは、叶えることのできない「ぷるんぷるん」を引き受けつづけることなのだ。
だから、純粋にはなれない。なにも捨てることもできない。忘れることもできない。叶うこともない。ぷるんぷるんは切迫する。そしてぷるんぷるんは、たぶん、そのたびごとに、〈がまんができない〉という。ぷるんぷるんはだだをこねる。わたしたちはぷるんぷるんと向き合う。なんとかしてやろう、と思う。がまんができずになにかになりたそうな「ぷるんぷるん」をわたしたちは抱き寄せる。わたしは。いや。わたしじゃなくて、句がそう言っている。
誤字となるすんでの水を抱き寄せぬ 小津夜景
(「古い頭部のある棲み家」『フラワーズ・カンフー』ふらんす堂・2016年 所収)