2016年11月25日金曜日

フシギな短詩61[新海誠]/柳本々々



  思いつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを  小野小町

※今回は映画『君の名は。』のネタバレを含みます。

日本文学者の木村朗子さんは新海誠さんの映画『君の名は。』を「時空を超えて結び合う物語」とした上で、「古典文学の世界に馴染みのあるテーマだ」と述べている。

  本作(『君の名は。』)は企画段階では『夢と知りせば(仮) 男女とりかへばや物語』というタイトルだったという。その発想の源には小野小町の夢の逢瀬を歌った次の和歌があった。

   思いつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを

  恋人を思って眠りについたからであろうか、その恋人が夢に現れて、逢瀬をとげることができた。夢だと知っていたならばあのまま目覚めずにいたかった、という歌である。「思い寝」といって、相手のことを思いながら眠りにつくと夢の時空でその人に逢うことができると古代人は考えていた。
  (木村朗子「古代を橋渡す」『ユリイカ』2016年9月号)

そして木村さんは「夢と知りせば」のあとに付け加えられていた「男女とりかへばや物語」の副題に注目し、「他人の身体に別の魂が入り込むことは、憑依として古代文化が考えてきたことだ。……夢をとおして入れ替わりが起こるというのは、……古典文学の系譜からいかにも自然に導かれるところだ」と述べる。

小野小町の歌では「覚めざらましを」と〈覚めなければよかったのになあ〉と歌われているが、なぜ「覚め」なければよかったのかといえば、「覚め」なければ夢=現実の空間を生きられるからだ。しかし、「覚め」た瞬間から、夢と現実は等価であることをやめ、ズレはじめる。夢は時の彼方にまたたく間に消え去り、現実だけが残る。

  (新海誠の)『雲のむこう、約束の場所』『秒速5センチメートル』でも、主人公とヒロインは夢のなかで再会する。しかし夢は夢でしかなく、夢は壊れる。現実には受けいれなければいけない喪失が待つ。それを甘受し、成熟する。 

(飯田一史「新海誠を『ポスト宮崎駿』『ポスト細田守』と呼ぶのは金輪際やめてもらいたい」前掲)

この映画『君の名は。』のタイトルにはなぜ「。」が付いているのかずっと気になっていたのだが、もしかするとこれは〈覚醒〉ととることはできないだろうか。つまり、〈君の名は〉と問いかけつづけた夢=現実のような時空間を生きたふたりの〈入れ替わり〉の物語は、最終的に「。」によって〈中断〉されたことで、「起き」られたことで、終わったのだと。夢とはとつぜん中断されることで、覚めて、終わるものだから。

だから、映画『君の名は。』のラストシーンで記憶を失ったふたりがお互いを一瞬で〈感覚〉しあい、「君の名前は?」とききあい、声が重なり合っておわるシーンは、〈名前を知る〉ことが大事だったのではなく、「君の名は。」と面前ではじめて発話できたことが大事だったのではないかと思うのだ。その句点「。」によってはじめて夢は終わるので。「覚めざらましを」は肯定的に語り直されたのだ。アンチ「覚めざらましを」として。「夢」から覚めたから《こそ》出会えて、お互いに名をきくことができる「現実」もあったのだと。「やっと覚めたね」と。

木村さんは「入れ替わり」のモチーフを述べられていたが、アニメでは〈入れ替わりのモチーフ〉が折々みられる。富野由悠季さんのアニメ『∀ガンダム』もまた「とりかへばや物語」を主要なモチーフとしている。容姿が瓜二つの月の女王ディアナ・キエルと地球の女性キエル・ハイムが入れ替わるという物語が展開されるのだが、誰にも知られずこっそり二人だけで入れ替わることでお互いの境遇を〈それしかない〉かたちで二人は理解しあう。この〈理解〉は非常にフシギなものだ。

なぜなら、わたしの立場における喜びや苦しみはこんなものなのですよ、と相手にコミュニケーションとして伝えるのではなく、ノンバーバルコミュニケーションでまったく言語を介さずに〈そのひとそのものになること〉によって非言語的に・体感として〈理解〉するからだ。

  コミュニケーションとは、二人の人間の間で言葉や手紙や物を交換するだけのことではない。それはまた、非物質的な何か、二つの項以前にある関係でもある。 

(トーマス・ラマール、大崎晴美訳「新海誠のクラウドメディア」前掲)

『君の名は。』でもぜんぜん立場や環境の違うふたりが入れ替わって相手の状況と環境に投げ込まれたように、〈入れ替わり〉というのは非言語で相手を〈理解〉できるたったひとつのアクションなのかもしれない。しかしそれは世界から「名」も忘れられるほどの〈等価交換〉でなければならない。たとえばもしそのひとの入れ替わり中に死んでしまったならば、永久に〈わたしの名〉が失われるような、つまり、世界の住人がだれひとり〈わたし〉を知らないままに〈そのひと〉として死ぬようなそういう絶対等価交換でなくてはならない。たとえば次の句のような。

別のかたちだけど生きてゐますから  小津夜景
(『フラワーズ・カンフー』ふらんす堂、2016年)

〈入れ替わり〉とは〈そのひとを理解する〉ためだけに〈世界から忘却される経験〉なのではないかと思うのだ。〈わたしの名前〉はそのとき世界から失われる。そして入れ替わった〈そのひとの名〉は〈わたしの名〉ではない。ただ〈入れ替わり〉という運動だけがふたりのことを知っている。

もう夢に逢ふのとおなじだけ眩し  小津夜景
(前掲)

「夢」という装置は入れ替わりにもってこいなのだが、もしかしたら「夢」の空間では、言語を介さない〈理解〉のやり方がたえず行われているのかもしれない。「喋る」のではなく「光る」。それだけで相手が〈あなた〉のことを「理解」できる。世界から忘却されたふたりだけれど、お互いは、光っているから、その〈運動〉によって、それとなく、わかる。わかってしまう。わかってしまった。だから、問いかけた。「君の名は。」

  夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう  穂村弘



          (「古代を橋渡す」『ユリイカ』2016年9月 所収)