2016年11月4日金曜日

フシギな短詩55[石部明]/柳本々々



  黄昏の体かがんで蝶を吐く  石部明



庵野秀明/樋口真嗣の映画『シン・ゴジラ』を観ていてとても印象的だったのが、ゴジラが身をかがめて嘔吐するように熱線を吐くシーンだ。今までのゴジラ映画は熱線をカタルシスのようにどぱーっと噴射していたのに対し、今回のシン・ゴジラは身をかがめ大地に向かって吐瀉物のように熱線を吐いていた。そこにカタルシスはなかった。

では、なにがあったのか。それは、〈痛々しさ〉である。

嘔吐というのは、〈痛み〉につながっている。なにかを排出していくにもかかわらずその吐いている身体そのものが感覚される実存的な痛み。それが〈嘔吐〉ではないか。

わたしは嘔吐するように熱線を口から吐瀉しつづけるゴジラをみながら、ああこれは石部さんの句そのものではないかと思った。「黄昏の体かがんで蝶を吐く」。

〈嘔吐〉は身体の痛みを導入することによって、わたしの痛みだけでなく、あなたへの痛みも問いかける。その意味で、嘔吐は、わたしの「痙攣」からあなたへの「闘争」にもつながっていく。

〈吐き気〉を哲学的に考察したメニングハウスは次のように述べている。

  吐き気を初めて理論化した一人であるカントは、吐き気を「強烈な生命感覚」と呼んだ。……吐き気とは、非常事態にして例外状態であり、同化しえない異他的なものにたいする自己防衛の切迫した危機であり、文字どおりの意味で生きるか死ぬかに関わる痙攣にして闘争である。 

  (メニングハウス、竹峰義和・知野ゆり・由比俊行訳『吐き気 ある強烈な感覚の理論と歴史』法政大学出版局、2010年)

〈吐き気〉とは、「非常事態にして例外状態」であり、〈外部〉に違和を感じたこのわたしの「生きるか死ぬか」の「痙攣にして闘争」である。

東京の中心地、皇居の近くにおいて、視覚的にも美しいスペクタクルのような光の熱線とは裏腹にゴジラはまるで〈嘔吐〉するかのように熱線を吐瀉しつづけた。そこにはゴジラ自身の〈外部〉に対する違和としての「生きるか死ぬかに関わる痙攣にして闘争」があったのではないか。そして石部さんの句もそうだ。語り手は「かがんで蝶を吐」いている。美しいスペクタクルのような蝶を吐きながら、語り手は「生きるか死ぬかに関わる痙攣にして闘争」をしている。

石部さんの句集には、〈嘔吐〉をめぐる句が多い。少しまとめてみよう。

  雑踏のひとり振り向き滝を吐く  石部明

  わが喉を激しく人の出入りせり  〃

  身体から砂吐く月のあかるさに  〃

ここで石部さんの句で大事なことは、語り手が〈嘔吐〉するたびに、自らを取り巻いている〈場面(シーン)〉を強く意識していることだ。「雑踏のひとり」という交通的場面、「わが喉」が「人の出入り」する空間となる場面、「月のあかる」く光に満ちた場面。

嘔吐や吐き気はわたしからわたしに回収されていくものではなく、たとえそれが排出物であったとしても、わたしから〈外〉へとアクセスされ、場面を想起させるなにかなのだ。

  サルトルが経験したように、名前が事物から剥離し始めたとき、言葉は自分の身体からも自立し始めていたので、そのとき体験された名づけようもない嘔吐を催す存在は、わたしを事物や他者から隔てる無であるばかりでなく、わたしの言葉、つまりわたしの自己意識をわたしの身体からも隔てる、ヴァレリイのいう非存在の体験であったともいえる。
   (近藤耕人「身体と言葉のコギト」『ユリイカ』1982年11月)

「名づけようもない嘔吐」は「わたし」を「わたしの自己意識」からも遠ざける。だから「嘔吐」はわたしからわたしに過不足なく回収されない。それは吐瀉物がそのまま身体に戻らないように、「嘔吐」によってわたしたちは〈わたし〉からも疎外された「非存在」になる。しかしそのとき逆説的にわたしたちは〈わたし〉の枠組みを抜けだし、〈外〉とそれまでとは違ったやりかたでアクセスするきっかけを見いだすのではないか。

  嘔吐(もしわれ影でない何かなら)  小津夜景


   (「天蓋に埋もれる家」『フラワーズ・カンフー』ふらんす堂、2016年)

『シン・ゴジラ』で映画の物語が転回しはじめるのは、ゴジラの〈嘔吐〉によってである。熱線を吐くシーンでは、《わたしがこの世界で死んでも誰もわたしのことを知らないだろう》という趣旨の歌「Who will know」が流れる。この「わたし」とは「ゴジラ」のことではないか。だれもゴジラを理解しない。理解できない。ゴジラは嘔吐する。ゴジラ自身もゴジラのことを理解しない。

だれが《あなた》のことを知るのか。

〈嘔吐〉によってゴジラはゴジラから疎外され、わたしたちもわたしたちから疎外される。でもそこからはじめてふたたびわたしたちの「痙攣にして闘争」がはじまるのではないか。

嘔吐して、疎外されて、はじめて疎外(嘔吐)するわたしは疎外(嘔吐)されたわたしと「殴りあ」えるように、おもうのだ。「オルガン」と「すすき」という異者同士になって。

  オルガンとすすきになって殴りあう  石部明


          (「遊魔系」『セレクション柳人3 石部明集』邑書林・2006年 所収)