2017年4月30日日曜日

続フシギな短詩106[樋口由紀子]/柳本々々


  軽症だから道の真ん中を歩く  樋口由紀子

以前、そんなに遠くはない昔に、

  むこうから白線引きがやって来る  樋口由紀子

という樋口さんの句の感想を『週刊俳句』に書いたことがある。それは「境界破壊者たち」というタイトルだった。

そのときはまだよくわかっていなかったのだが、今もう一度この句について考えてみると、この句で描かれているのは、〈わたしの紹介(しょうかい)〉ではない。わたしがなんとなくそうしなければならないような気がしてそのときそのタイトルをつけたようにここで描かれているのは〈わたしの境界(きょうかい)〉である。《境界例》だ。

「むこうから白線引きがやって来る」。なにかが起こるかもしれないし、なにも起こらないかもしれない。しかし、やって来る以上、「線」は引かれるだろう。引かれてしまった線。わたしが何かしても何もしなくてもその引かれた線によってわたしの行為も変質してしまう。わたしはなにもしなくてもわたしは境界にたたされてしまっている。これは〈わたし〉の問題ではない。句の構造がつくってしまった〈境界〉の問題、そこからいかんともしがたく発生してしまう〈わたし〉の問題である。現代川柳はこうした症候的なわたしを発見してしまったのだ。

そのことに気づいていたのが小池正博さんである。『MANO』(13号、2008年3月)に小池さんは「樋口由紀子・鏡像の世界」という樋口由紀子論を書いている。そこで小池さんは樋口さんの句における「鏡像」をこんなふうに説明する。

  川柳の鏡に映る世界と自己の像は、次第に屈折を見せ、独自の変容をとげはじめる。…樋口由紀子は「川柳」という自己投影の鏡を手に入れたのである。けれども、この鏡面自体が一種の歪みをもっていた。そこには「私」の姿が映し出されていたが、鏡に映る像は日常性を超えて非日常的な姿を見せ始める。現実の投影というよりも鏡像自体がおもしろかったのである。
  (小池正博「樋口由紀子・鏡像の世界」『MANO』13号、2008年3月)

このとき小池さんのイメージの中には明らかに精神分析家ジャック・ラカンの鏡像段階のイメージがあるのだが、大事な点は現代川柳が鏡像的主体を手に入れたとき同時に〈傷ついたわたし〉も手に入れるということである。

たとえばラカンを知らなくても鏡をみてみるとよい。鏡のなかにはわたしがいる。しかしそれは左右が逆であり、また他者がふだん肉眼でみているわたしとも違う鏡のなかのわたしである。〈そこ〉、鏡にしか〈わたし〉はいないのだが、しかし、〈それ〉は〈この〉わたしではない。だとしたら、わたしの位相はどこにあるのだろう。わたしは分裂し、傷つき、裂けてしまう。鏡の前に立つとは、「むこうから白線引きがやって来る」をそのまま引き受けることになるのだ。

小池さんはこのあとこの鏡像イメージからキャラクター論へと移行していく(しかし斎藤環さんの一連の著作をみてもわかるようにキャラクターとは精神分析的な存在である)。精神分析的言説には深入りしていかなかったのだが、しかしわたしは十年前に小池さんが示したこの現代川柳と精神分析的言説のリンクをとても興味深いと思う。

とっても遠回りしたが、掲句をみてほしい。「軽症」と書いてある。「軽症だから道の真ん中を歩く」と。この句も症候事例的である。「軽症/重症」という境界が示され、どうじに、「真ん中/端」という境界が示される。

わたしは別に現代川柳が病的だと言いたいわけではない。そうではなくて、現代川柳は主体の構造が複雑であり、その複雑さを説明するには、日常的な言説だけでなく、精神分析学のような複雑な言説も参照する必要があるかもしれないということを考えているだけだ。ただし、精神分析学といっても臆することはない。みながみな、精神分析学を生きてしまっている。精神分析学はその意味ではずるい学問でもある。みんなが知らないふりをして知っていることを言葉にしているだけなのだから。

さいきんの樋口さんの句をみてみよう。

  空想のかたまりである赤チョーク  樋口由紀子
   (「姉の逆立ち」『MANO』20号、2017年4月)

『MANO』終刊号からの一句。「赤チョーク」は「空想のかたまり」として回収されてしまう。しかしその「赤チョーク」が「空想のかたまり」であるということを〈ちゃんと〉認識しているメタな視線もここにはある。「空想のかたまりである赤チョーク」を「空想のかたまりである赤チョーク」とメタ認識できている〈わたし〉。この〈わたし〉は《誰》なのだろう。この〈わたし〉はもはやキャラクターでもないように思う。キャラクターはメタ視線を有しないようにもおもうから(たとえば、のび太がじぶんがのび太であることを自覚したときのび太はのび太でいられるだろうか)。

樋口さんはこの『MANO』終刊号で「言葉そのものへの関心」という鴇田智哉さんの句集評を書いている。わたしはこの樋口さんのタイトルにひとつの答えがあるような気がする。「言葉そのものへの関心」。樋口さんの〈わたし〉とはイメージでも私性でも鏡像でもキャラクターでもなく言葉かもしれない。言葉のシステムから起動/再起動されるわたし。ラカンは無意識は言語のシステムとして構造化されているといった。

言葉から立ち上がるわたし。それは決して虚無的なわたしではない。ドライなわたしでもない。むしろ、言葉を使い言葉にとらわれ言葉をのりこえようとする切実なわたしである。

そしてもっとも肝心なことは、鏡があってもなくても、わたしは、いま、ここに、生きているということなのだ。

  生きているといろいろなことに出会い、突き当たる。それらの事を通じて「私」のなかに蠢きだした何か、それを無関係だといって、無視をして生きていくことなどはできない。…書かれたものには、その人が、その人の物の見方が現われる。私はそうでなければ表現もしくは表現者とは言えないと思っている。彼はこの世を諦めない。この世の不条理はどうしようもなく、受け入れがたく存在するが、根っこの部分では人を信頼している。けして諦めないでおこうと思っている。
  (樋口由紀子「言葉そのものへの関心」『MANO』20号、2017年4月)

          (「樋口由紀子・鏡像の世界」『MANO』13号、2008年3月 所収)