2016年1月22日金曜日

またたくきざはし6 [宇多喜代子]      竹岡一郎




寒月下みな颯爽と死にたるよ  宇多喜代子


病死もあろうし、事故死もあろう。勿論、老衰もありであるが、七十年前の戦死もあろう。実際の死にざまは颯爽としていなかったかもしれぬが、この世に有る者としては、そう信じたい。それは生きている自分の為ではない。死者にせめてもの花を添えたいためだ。

「死ににけり」という言い切りではなく、「死にたるよ」と柔らかな慨嘆になっている処、そして「寒月光」ではなく「寒月下」と己の立ち位置を月よりも下に置いている処が眼目で、これにより、死者達に対し、自らを謙遜しているのだ。

颯爽と死ぬ為には、生きている間、生の意味について、死の意味について、深く考え、懊悩していなければならぬ。それを口に出すか出さないかは問題ではない。死はたった一人で対するものだ。どれほどの権勢があろうと、どれほどの取り巻きを持とうと、死に際しては人間は常に一人だ。その点で、死とはこれ以上なく平等なものなのだが、それゆえにこれほど魂の資質が表面に現われる状況もあるまい。

如何にして死に対するか、人は只それだけの為に生きているのかもしれぬ。高潔な者には高潔な死が訪れるだろうし、貪る者には惨めな死が訪れるだろう。傍に看取る者達にどう映ろうとも、死にゆく者が感じる己が死は、その者がどのような生を送って来たかが如実に反映される。

ここで「寒月下」が、颯爽とは何か、を考える手掛かりになるかと思う。玲瓏と厳しい光の下に曝されているのは、生きている作者である。寒月は死者達であり、その死にざまである。死者達は幽明境を越え、その声を月光として、作者を叱咤激励しているのだろうか。颯爽と死ねるか、と問うているのだろうか。その問いはそのまま我々読者を照らす問いでもあろう。

<2012年作。「円心」所収。>